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地平線の果てまで延々と広がる砂漠。その上を、一機のヘリコプターが飛んでいた。冷静に空飛ぶ機械を操縦するパイロットの横で、一人の女性が肩まで伸びた長い髪をいじり、顔には焦りの表情を隠さなかった。彼女の頭の中では、警告のサイレンがずっと鳴り続けている。
「ねえ、本当に大丈夫?」
「目的地までは確実にいけますよ。ただ、その後は……」
自分でも無事に彼女を送り届けることが出来るどうか、その保証は無い。パイロットのその言葉に、彼女も頷く他無かった。どうしてそのような状況になったのかは分からないが、下手したら今回もまた辿り着けないかもしれない。そのような不安を抱いたまま、彼女とパイロットの視界に、砂漠の中に忽然と現れた巨大かつ異様なドームが見えてきた。あそこが、彼女……『博士』が向かおうとしている目的地である。
下請け産業から最新のコンピュータまで、世界中の様々な最先端技術の中核を担う大企業の一つ「ユビキリ・ゲンマーン社」は、数年前からある大規模な実験を行っている。思うだけで何でも動かし、願うだけで何でも出てくるという、ある意味人類の理想郷を実現させる「ユビキタス」と呼ばれる技術である。その中核を担うのが、電力から食料、資源、そして様々な物品の生産や、それらの維持管理を一括で担うスーパーコンピュータなのだ。
計画が出された数十年前には、様々な知識人から夢物語、SF作品の見すぎと言った失笑する意見が相次ぎ、失敗して針千本を飲まされるのがオチとまで馬鹿にされていた。しかし、数年前にこの『博士』を開発グループのメインに据えたことで、難航していたスーパーコンピュータは目を見張るほどの凄まじい速さで形を成し、やがて私有地が存在するハリー・センボン砂漠の中に超巨大な実験場が築かれるまでに至ったのである。
一方、『博士』にとってもこの研究および大規模な実験は非常にありがたいものだった。
どんな計算でも一瞬でやってのけてしまう「究極」を求めて長い間コンピュータの研究を続け、少しづつ成果は上げてきたものの、その突拍子も無い考えが世間一般に理解されることは無く、学会でも偉い人たちから非難を受けることもしばしばだった。ただしそれは非常に画期的なコンピュータの計算能力についての理論や構造自体ではなく、それを再現することの出来る場をどうやって設けるのか、という面だった。一度は研究を諦めかけた「彼女」に救いの手を差し伸べたのが、社運をかけた研究が行き詰っていたユビキリ・ゲンマーン社という事である。
しかし、その「実験」はこれまでにない危機に直面していた。
この巨大な実験用のドームは機密事項ということもあり、そう滅多に入れるものではない。内部に設置され、ドーム内に存在するの全てを監視しているハイパーコンピュータ……長年の研究を経てついに完成した、スパコンをはるかに凌ぐ演算能力を持つ存在が、許可されたもの以外の来訪者……というよりも侵入者を認識し、徹底的に排除するのである。軍事衛星すらその内部を見ることは出来ないと言うことも既に実証されている。だが、現在そのドームの中には研究者も社員も誰一人として存在していない。存在することが、物理的に出来なくなったのである。
「それじゃ、お願い」
『博士』からパイロットに託されたのは、前時代的なフロッピーディスクの姿を模した鍵。内部に刻まれた暗号情報をドーム内のハイパーコンピュータ、通称「ハイコン」に送信する事で自身が何者かを認識させ、秘密の入り口へと案内する仕組みである。量子暗号と呼ばれるこの暗号が意味を成さないということは、宇宙の法則が乱れる事態に等しいほどあり得ない……はずなのだが、数週間前からこのドームにいくら暗号を送っても、秘密の入り口の扉が開かなくなっているのである。
何度も挑戦したが一切効果が無く、内部で何が起きているのか全く分からない。破壊も出来ず、かと言って機密情報のために放置するわけにも行かない。研究は失敗したのではないかという空気まで流れ出す中で、責任者である『博士』自身が身を張って内部に向かうことを決意し、そして今に至るという訳である。当然、242回目の暗号送信となるであろう今回も、ドームは銀色の外壁を見せ続けたまま沈黙を保ち続けているであろう、ヘリコプター内の二人はそう考えていた。
ところが、次の瞬間に車内に聞こえてきた音に、博士もパイロットも驚きの顔を隠さなかった。何度やっても意味を成さなかった暗号が、突如としてドームを「眠り」から覚まさせたのである。そして、ヘリに内蔵されている自動操縦プログラムの中に、今回生成した秘密の入り口への進入ルートが刻まれていった。
「自動操縦、切り替え良し……それにしても、突然ですね……」
「一体何がどうなってるの……?」
『博士』の頭脳を持っても理解が及ばないまま、ヘリコプターはハイコンの指示に導かれ、やがてドームの裾に現れたヘリポートに羽を下ろした。ここから先、この場にいるもので内部に入ることが許可されているのは、ハイコン実験の責任者であり実質的な生みの親である『博士』だけである。幸運を祈ってくれたパイロットに礼を述べ、彼女は砂漠から巨大なドームへとその身を移した。
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科学に新たな進歩をもたらすのは、機転やアイデアに満ちた頭脳である。常に前向きに新しいことを求め、様々な知識を得ることを有意義に感じる心を持っていればどんな人でもその頭脳を有する資格はあるのだが、特に得ることが出来るのは、どんなときでも脳内の鞄の中にまだ若干の余裕が存在する若い人たちかもしれない。その代表例が、この『博士』である。
「……うーん……」
トンネルを越えた先は白い雪に包まれた世界というのはもうお約束だが、ドームの内部に繋がる入り口を潜り抜けた先に広がるのは、砂漠の中とはとても思えないほどに緑で満ち、そしてそれ以上に銀色や白、茶色などで覆われた巨大な建造物がドームの天井に届かんと延びる巨大な「町」である。しかし、砂漠の外にあれば間違いなく大都会とされ、数多くの人たちが行きかうはずのこの場所には、空中に延びた歩道を歩く『博士』以外、誰も人影は居ない。うっかり外部に忘れてしまった財布を取りにドームから一旦出た研究員を最後に、数週間の間ここには誰一人として入ることが出来なかったのである。
自分の体についた汚れを撒き散らさないように着用している白衣をたなびかせ、彼女は人間の気配をが無いゴーストタウンのようなドームの中を歩き続けた。
凹凸の少ないすらりとした体つきに背中まで伸びる長髪、白のブラウスに黒のズボンと言う外見。それが20代「独身」である『博士』の勤勉さや真面目さをより強調している。巷で流れている言葉で表せば「クールビューティー」とでも言うのかもしれない。当然ながら、今回の実験で冷静かつ大胆な指揮や作戦をとる彼女に対して好意の目を向けた人は多かった。何度も何度も告白された過去もあるようだが、この巨大な実験都市を築くきっかけを作り、実質ハイコンの生みの親ともなった頭脳に持ち前の美貌が重なれば、そうなるのも当然かもしれない。
いくつか町の様子を一望できる場所を訪れてみたのだが、やはりこの場に存在する「人間」は自分だけ。後は少量の植物やそれに繋がる昆虫などの動物たちくらいしか確認することは出来なかった。一体何故このようなことになったのか、よくあるSF作品だとこういう場合は何かしらコンピュータに不調が起こり、反乱のようなものを起こしているという場合が多い。今回も間違いなくハイコンに予測できなかった異常が起きているのだろう、と『博士』は推測していた。ただし……
「あー、なんだか喉が渇いたなー」
実際に飲み物が欲しくなったので少々棒読み気味で願望を言った直後、近くの床から機械仕掛けの腕と共に飲み物入りの紙コップが出てきたのを見る限り、少なくとも自分を含めた人間に悪意を持っているわけではないということは分かった。内部に入っているものも毒は一切入っていないお茶であることもその裏づけになった。
ずっと前に来たときと変わらず、このドームの中は人類の理想郷を保ち続けていた。『博士』が日本に居た頃に愛飲していたブランドのお茶だった事も……いや、これは一つの変化であろう。このハイコンは、以前よりもどこか気が利くようになっている可能性がある。何度も失敗を重ねるうちにより顧客のニーズに合うような形を導かせる、『博士』の理論が生み出した、ドームの中に隠された究極の企業秘密である。
ともかく、この緊急事態の真相を知るためには自分たちが作り出したこのハイテク実験場の地下中央に存在するコンピュータの元へと向かう必要がある。飲み終わったコップが機械仕掛けの腕によって回収され、彼女が動き出そうとした、まさにその時だった。
一瞬、遠くの建物に人影のようなものが見えたのである。もしかしたら、中に取り残されている人が居るのかもしれない、と考えた『博士』だが、絶対にそうだと導き出すことは難しかった。左手に持つ鞄に収納されたレスキュー用の生存者確認装置には、人間と同じ構造を持つ生命体はこの場所にいない、という結果が示されていたからである。すると、あれは一体なんだろうか、見間違いだろうか……そう思った直後であった。
「……!」
今度は確実だった。空中を貫くこの通路の向こう、オフィスビルを想定した巨大な建造物の横に、人間のような何かが隠れる様子が見えたのである。
一体あれは何なのか、確かめるべく『博士』は急いで走り始めようとしたのだが、靴まで正装にしてこの場所に臨んだのが少々まずかった。高いヒールに足を取られそうになり、速く走れないまま人影を見失ってしまったのである。壁にもたれかかって少し息切れしているというところを見る限り、もともと体力が無いというのも災いしたのかもしれない。そんな彼女をあざ笑うかのように、再び別のビルの傍から何かの人影が見えてきた。間違いない、この場所に自分以外の「何か」がいる。
だが追いかけようにも先程の消耗が回復しないままだったので、またもや息切れ状態になり、とうとう近くのベンチに座り込んでしまった。ついさっきまで存在していなかったのを見る限りは、一応ハイコンの機能は人間の補助という観点においては正常のようである。
これからどうすれば良いのか、あの人影を追うのが先か、中心部に行くのが良いか……そう悩んでいた時であった。
「大丈夫?」
右隣から、何かの「音」が聞こえてきた。
最初、彼女は耳を疑った。あまりにも聞き慣れすぎている声なのだが、こうやって外部から聞くという機会は滅多に無い。ただ、今の『博士』はそれを望んでいないはずである。人間が望まないものには手を出さない、そういう規制をハイコンにはしっかりと身に付けさせたはずである。では、隣に聞こえた声は何なのか。そして、自分の横、同じベンチに座ったのは誰なのか。体中を悪寒が襲いながらも、『博士』は恐る恐る、声の主の方を向いた。
そこにいたのは……
「うふふ♪」
……自分の横で笑顔を見せる『博士』だった。