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第三節

「兄さん」


 振り返ると、弟が常の利発そうな顔をして微笑んでいる。

 トリスヴァレア三子息の末弟、カストスは身体こそ弱いが頭のいい子供だった。

 四歳で小難しい小説を読み、七歳で辞書を読破し、十の頃には大人でも理解の難しい学術書を制覇していた。

 背が小さく、妖精のように可愛らしい顔立ちをしたこの弟がレーベンスには自慢だった。

 金髪碧眼というトリスヴァレア人本来の特徴を持つ二人の兄弟。

 男前の兄と愛らしい弟の間で、レーベンスの容姿は平凡に過ぎず、銀髪黒眼の異端だった。

 だがレーベンスには人より頑丈な体と、将としての才があった。

 戦場の趨勢は手の平の上。自分が出れば覆る、自在の盤面でしかなかった。

 此処こそ自分の居場所だと、確信するまでに時間はかからなかった。

 その才に気付いた父が他国に侵攻をけし掛けても、なんの疑問も持たなかった。

 ただ自分の場がそこに在ると、言われるままに兵を動かした。

 武に優れる次男と智に優れる三男を持ち、父王は鼻高々だったが、それにより居場所を失ったのが長兄シャンデスだった。

 文でも武でも、弟達には敵わない。

 そんなシャンデスがしがみついたのが王宮内の権力争いだった。

 己に残された最後の力だとでも言うように。

 国内におけるしがらみに取りつき、指揮権を得て、貴族の力を取り込んだ。

 そしてシャンデスは、そういった事に興味のなかった三男を手にかけた。

 目障りなコブ。日頃から周囲にもてはやされるカストスを彼は妬み、憎んでいた。

 戦で国外に出ていたレーベンスには止めようもなかった。

 内外には病死と告げられた突然のカストスの死を、レーベンスは即座にシャンデスの仕業だと断じた。

 三子息の中でレーベンスはカストスを愛し、カストスはレーベンスを頼っていたが、シャンデスは二人を憎んでいた。次は我が身と、そう思う前にレーベンスの心は激情にのまれていた。

 よくもと、拳を握る。

 よくもと、刃を振るったことをレーベンスは後悔しない。

 この感情が何かと理解する前に、三子息は自分を残して息絶えていた。

 なぜ、と思う間もなく理解する。

 なぜ、と問う間もなく得心する。

 ああ、これが憎しみだと。

 血縁も関係なく、愛情も凌駕して、衝動のままに失わせる激情。

 噛み切った唇をつたう鉄の味。

 これがそうだ。復讐の味だ。

 その味はどこまでも甘美で、どこまでも至福に満ちていた。

 必死に何かを目指すだけという快楽にレーベンスは身を震わせた。

 そして同時に、レーベンスは終わった後の空虚さを知った。

 みんな消えた。兄を殺して、弟は殺された。

 誰のせいだ。きっとそれは、失わせた自分のせいだ。

 何が残った。きっとそれは、どうしようもない空白だけだ。

 この時初めてレーベンスは思った。

 失わせたことで憎しみが生じるのなら、自分が今まで戦場でつけてきた空白はいったいどれほどのものだっただろうかと。

 その時既に国を二つ滅ぼしていた自分は、英雄であり悪魔だ。

 ならば、その復讐を終わらせてはならない。

 ならば、その激情を枯れさせてはならない。

 失った人がそれを訴えるのは当然の権利だ。

 なら応えよう。

 次に国を継ぐのが自分なら、これまで生んだ憎悪を受け止めよう。

 次の時代の王がいるのなら、これまでの行いに終止符を歌おう。

 そうして作った楽園の中で、レーベンスはそっと目を覚ます。

 殺気ではない、戸惑いと躊躇いを含んだ足音が、彼の横で立ち止まった。




‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡




 リゼはできる限り足音を殺してレーベンスに近づいた。

 懐に常に忍ばせていた懐剣が、今は無い。

 父の形見は母の残してくれた衣装と共に、持ってきた鞄の奥で眠っている。

 あの夕食からの迷いがリゼの足をつき動かしていた。

 レーベンスは庭にある池のほとりで木の根を枕に腕を頭の後ろに回して横になっていた。

 寝息は静かで、起きているかはわからない。

 テラスから彼を見つけた時、リゼにはどうしてか、ほうっておく事ができなかった。

 言われたことが響いていたわけではない。

 ただこのままではいけないのだと思い、ここまで来た。

 緊張のまま、彼の隣に膝をつく。

 本来なら懐に在るはずの目的の事など忘れ、リゼは自分を持て余していた。

 ……どうしよう。

 穏やかな風が彼の髪を撫で上げ、天頂を過ぎた太陽が暖かな木漏れ日を落とす。

 具体的な手立てなどなく、リゼは彼の頬に手を伸ばした。

 艶のある、端整な肌ざわりに驚く。

 戦場でついたと思える小さな火傷の痕が指先にひっかかってくすぐったい。

 どこまで、やってきたんだろう。

 自分にも、彼にも、そう思う。

 三国を滅ぼしてきた彼はこれまで何を得てきたのだろう。

 勝者であるならば、どうしてこんな場所で、こんな顔をしているのだろう。

 どこまでも落ち着いて、だがどこか張りつめた顔をして眠る彼をリゼは眺めていた。


「……続きをしにきたのではないのか?」


 急の声に、リゼは座ったまま小さく飛び上がった。

 レーベンスが胡乱気な目で彼女を見る。


「てっきり期限の前に決着をつけに来たのかと思ったんだがな」


 リゼは自分の頬に熱が上がるのを自覚して顔を背けた。

 その熱がどちらの質のものかもわからない。羞恥か、憤りか。


「続きって……そんなに四六時中襲われてないと気がすまないの?」

「すむすまないの話じゃない。ただお前の取るべき行動がそれだというだけだ」

「わたしの事を勝手に決めないでくれる?」

「はっ、それは結構。湖畔の薔薇の棘は痛いな」


 レーベンスは失笑を通り越して無邪気に笑う。

 実のところ『湖畔の秘め薔薇』の異名はリゼの性格などが由来となってついた名ではない。

 湖畔に咲く花のように可憐で、人の噂の絶えなかったリゼに各国の王族子息はこぞって求婚したが、当時のシェルシード王はその接触を何人(なんぴと)たりとも認めようとはしなかった。

 可憐な薔薇には守る棘がある。それ故の薔薇であり、棘だ。

 だが今のリゼにはそんな事を気にする余裕はなかった。

 レーベンスの見せた険のない初めての笑みに、リゼは無意識のうちにその瞳を覗きこんでいた。

 寝ている間さえ、先の何気ない昼寝の間でさえ緊張を解かない、解くことをしない彼の初めての感情を見た気がした。


「……なんで」

「ん?」

「なんで、そんな風に生きるの? あなたは――」


 躊躇い、しかし言う。


「あなたは、いつ休めるの?」


 レーベンスが虚をつかれたような顔をする。

 言ってからリゼはひどく後悔した。

 つい口をついて出た問いだった。

 何を言っているのかと、今度こそ羞恥に顔を染める。


「いつ休む、か。俺にはそんな時間は許されないだろう」


 答えは淡泊に、ともすれば気軽とさえ言える口調で。


「俺が生み出してきた空白がある限り。それが当たり前で、あるべきで、自然だ」


 今の彼にとってはそれが当然なのだろうか。でも、


「それじゃあ」


 全てを失った、あの日を思い出す。

 あの時、自分はどうした? 

 諦め、逃げて、そして――


「あなたはいつ泣けるの?」

「さあな。泣きたい時に泣くさ。隙を作らずな。もっとも、そんな無駄な時は来ないだろうが」


 レーベンスが腰を上げる。

 リゼには見上げる事しかできなかった。

 彼の顔がひどく遠い。


「丁寧が取れたな」

「えっ?」

「口調だ。ずっと皮肉のように馬鹿丁寧に振舞って。当てつけにしては露骨すぎだぞ」


 ここに来てからこれまで、最初に言われたことに反発するかのように続けてきた抵抗さえもいつの間にか忘れていた。

 皮肉気に笑うレーベンスに、リゼは返す言葉も失くしてうつむく。

 レーベンスは気にせず、屋敷へと戻っていく。

 去り際に一言。


「今夜だ。それで決めろ」


 彼の姿が完全に視界から消える。

 一人残されたリゼは誰に聞かせるでもなく呟く。


「このままで、いけないのは――」




‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡



 

 初日と同じく、浴槽につかりながらリゼは二度転び、三度苦悶し、十四度ため息を落とした。

 あの頃はよかったと、今更ながらにここに来たばかりの頃の自分を振り返って思う。

 あの頃はただ、一つの目的だけを考えればよかった。

 今はどうだ。

 迷ってばかりで、何に迷っているかもわからず、それでも煩悶はなくならない。

 レーベンスの真意はわからない。

 ただそれが平穏なものでないことは彼の真剣味を帯びた顔を見ればわかった。

 このままではいけない。

 また思い、浴室から出ると窓から入ってきた夜気が火照った頬を撫でた。


「……ここの窓は普段、掃除のとき以外閉め切っていたはずだけど……?」


 メイラが何かしているのだろうか。

 不思議に思い、首を傾げた瞬間、爆音がした。


「えっ!?」


 空いた窓に張り付き、階下を眺める。

 外壁に面した庭先から、黒の煙が濛々と立ち上っている。


「いったい何が……」


 疑問に思った数瞬後、そこから見える下階の廊下の灯が一斉に消えた。

 暗闇の範囲が少しずつ広がって来るのを見てとり、その行き先に検討をつける。

 窓枠から手を放し、リゼは走り出す。

 離宮の主、レーベンスの寝室へと、一直線に。

読了ありがとうございます。

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