第二節
「お姉様!」
振り返れば、愛しい弟が手を振り駆けてくる。
シェルシードの湖畔。
城の裏側に位置する内苑は、丁度湖のほとりに位置していた。
年の離れた、まだ己の腰までしか背のない弟の体を抱き止めて、リゼは笑みを交わし合う。
遠くにはティーセットを前に微笑む母の姿。
政務にいそしむ父のいない昼間に、三人で遊ぶこの時間はリゼにとって代わるもののない至福の時間だった。
母と語り、弟に絵本を読み聞かせ、時には使用人も巻き込んではしゃいだ時間は、
今でもはっきりと思い出すことができる。
父は忙しくても、時には顔を出し、気まぐれに馬術などを教えてくれた。
母は優しくても、時には厳しく叱り、教え、導いてくれた。
弟は弱くても、時には強く在ろうとし、王としての自分を自覚していった。
「お姉様は僕が守るよ」
そう言った彼は故郷に一人。
父は討たれ、母はなぶられ、自分は遠い敵国に渡された。
あの日々は戻らない。戻らないからこそやらねばならない。
全ては壊れた。
今は無き、鏡面湖畔の国。
湖の水が赤く染まったあの日。残してきた決意を。抱えた憎悪を。
故に今は、このままではいけない。
「ん……」
朝日に寝台から身を起こし、夢の残滓を払う。
リゼは敵国の地で遠くを眺めて、在りし日を想った。
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レーベンスとの一夜から数日が経ち、屋敷の生活にも慣れてきた。
勝手がわかるにしたがい、ここの異常さが目に見えるようになる。
レーベンスが誇っていた使用人の数は思ったより少なく、屋敷の仕事は彼らに完全に任されていた。
屋敷の中は侍女長メイラが中心となって切り盛りしているが、外には掃除番などなく外壁は荒れ放題。
庭があれだけ立派なのは庭師の老人の趣味のようなものだった。
適当にして奔放、そして自由。
リゼの見る限り、ここでは家人が主人にかしずくといった光景は見られなかった。
口調は丁寧だが、皆の瞳には強いレーベンスへの憎しみが見え隠れしていた。
皆が狙っているのだ。皆が競っているのだ。
その日、リゼは遠出するレーベンスの見送りに出ていた。
途中、屋敷の廊下で子供ほどの大きさの壺が吹き抜けの二階から降るのをかわす。
庭で飛来したノコギリを受け止めて、レーベンスは前門へと辿りつく。
「いやはや、騒がしい朝だ」
面倒そうに言うが、この屋敷ではいつものことだ。
おかげで彼と歩く時は半歩後ろに下がるのがリゼの習慣となっていた。
場数を踏めば殺気にも慣れるものだと、リゼは自分に呆れる。
殺意の行き先が自分でないことはわかりきっているので、最近は何が起きようと脅えることはなくなった。
レーベンスの態度は当然のごとく変わらず、あの夜のことなど、なかったかのようだった。
前門から外へ。踏み出した瞬間に銀線が舞った。
そうとわかった時には刃同士の間に火花が散り、二人は互いに距離を取っている。
またか、とリゼは呆れながらも、このままではいけない、と危機感を募らせる。
「ついに正道は諦めたようだな、ゼルシン」
「怨嗟の剣とはいえ、騎士である私にも通す道がありました」
屋敷の守備隊、その隊長である男が鎧を揺らす。
「あった、ということは騎士の道は諦めたのか?」
「ここに縛られている以上、私はもう騎士ではないでしょう」
ゼルシンは無念そうに無精ひげを歪め、仕えている主人に剣を向ける。
「騎士とは主に忠誠を誓うもの。私が仕えているのは自らの怨念に他なりません」
「それでも、お前は今まで騎士の道を通していたはずだが」
レーベンスが笑う。
すでに見慣れた、わざとらしい嘲りの笑みだ。
「今までは以前の主のためであると、それを忠義にしていました。だがそれでは勝てない。騎士の道ではあなたを殺せないのです」
この数日でほぼ毎日。リゼはレーベンスと守備隊長ゼルシンとの決闘を見ていた。
ゼルシンが持ちかけ、レーベンスが受ける。
表面上は騎士道の義にのっとった決闘だったが、
ゼルシンが振るう剣はその心情を表すかのようにいつもどこか精細を欠いて荒々しく見えた。
「殺せない。その時に得た感情を、あなたは良く知っているでしょう。憎しみにとらわれている自分を知ったとき、私は、自分がもう騎士ではないことを思い知りました」
ゼルシンが不意打ちのようなマネをすることはこれまで一度もなかった。
常に正道。決闘の名乗りを忘れず、礼儀を尽くすことを信条にしていたその彼が、
騎士道を捨てて結果を望んでいる。
「私が誓ったのは忠誠ではなく自らの憎しみです。これを復讐者と呼ばずなんと呼ぶでしょうか」
苦悩するゼルシンをレーベンスが笑う。
楽しそうに。どこまでも、どこまでもわざとらしくあざ笑う。
「ああそうだ。だから言っただろう。お前こそこの場所の守護者にふさわしいと!」
街の離れにあるこの屋敷を王都の人々がなんと呼んでいるのか、この時には既にリゼも知っていた。
余人曰く、必罰園〝カストーレャ〟。
荘厳華麗な庭園に集う、狂った主と復讐者たちの宴。
仕える家人が主人に復讐の誓いを向ける舞台。
どういう訳かは知らないが、ここはそういう場所なのだ。
「さて、不意打ちにも失敗したお前の次なる復讐を見せてもらおうか」
そして今日もまた黒くて赤くて汚い。
必死なだけの剣劇が始まった。
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「いってらっしゃいませ」
侍女長メイラが深く頭を下げる。
剣戟の中盤に現れて眉一つ動かすことなく終わるのを見守っていた彼女は砕けた鎧を押さえてうずくまるゼルシンには目もくれず、レーベンスに無言でタオルを差し出す。
こちらも無言で受け取ったレーベンスは振り返ることなく小姓の少年の用意した馬車に乗り込んだ。
「今日も昼前に帰ることになるのかな」
苦く言った彼に、御者兼小姓と見える少年は頷いて手綱を取る。
見送ったリゼはゼルシンに手を貸そうとしたが、そこには既に赤い染みしか残っていなかった。
「勝手にはしゃぐんですよ。いつものことです」
珍しくメイラが自分から口を開いたので、リゼは内心驚いて振り返る。
「姫様も、待っているだけでは番は回ってきませんよ」
言い置いて屋敷に戻っていくメイラの背中に、リゼは汗ばんだ手を握り締めた。
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連絡が入ったのはその日の午後のことだった。
リゼが食後にメイラの入れた紅茶を楽しんでいると、
呆れたような顔をしたゼルシンが二人のいるテラスへと姿を見せた。
「またユキミチがやらかしたらしい。ここのところ毎回だ」
ユキミチという名が小姓の少年の名であることをリゼは思い出す。
「やらかしたって……事故か何か?」
後ろでメイラが呆れのため息を落とすのに首を向ける。
「馬車での移動は彼の番、という事ですよ」
視線を受けて答え、メイラは確認の言葉をゼルシンに向ける。
「今回もまた崖から、ですか」
「ああ。王城までの道、例の場所で馬と車を切り離して馬車だけ落としたのだろう。さっき王城から王子の遅参届けと共に事後処理費の請求書が送られてきた」
昼間の怪我は既に手当てしたらしい。
リゼのことを姫と呼びながら、ゼルシンは彼女の前では普段通りの素の態度を見せる。
「まったく。馬車一台、いったいいくらすると思っているんだ。加えて今回は逃げ出されないように戸を固めたというのだから呆れる。一度閉めたら開けられない細工など考える前に馬の世話をきちんとしろというものだ」
「その辺りは彼もわきまえているでしょう。手先が器用というだけで馬番を任されているわけではありませんし」
「……それより扉を封じられて彼はどうやって脱出を?」
一番の心配をリゼは訊いた。
「馬車の荷台をくり抜いて飛び出したそうだ。たいした剣の腕だが、曲芸めいている。帰ってきたら姫様にはさぞ大層な苦労話と自慢話が待っているでしょうな」
自らが閉じ込められたと知ったレーベンスは落下の寸前に厚い馬車の木壁を切りぬき脱出。
そのまま馬車を引いていた馬に乗って本城へと向かったらしい。
吐き落とした息が安堵のものであると、リゼは自分で気付かないふりをする。
窓の外を見ると小姓ユキミチがもう一頭の馬に乗って前門に帰ってきたところだった。
「このために毎回、不要な馬具を馬に付けるよう命じているのだから主も相当モノ好きだ」
「レーベンス様がモノ好きなのは今に始まったことではないでしょう。でなければ私達は今ここにはいないのですから」
違いない、とゼルシンが顔をしかめる。
と、彼は唐突に真剣な面立ちになってリゼに向かった。
「姫も、今は我々と同じ立場だ。こんな事を言うのは騎士の領分ではありませぬが、規約通りに主とご結婚なされるのであれば、お命じください」
貫禄を持った男の強い眼差しに正面から見つめられ、リゼは息を詰める。
「主の覚悟と生き様をどう受け止めるのか。それだけは真摯に考え、肝に命じておくよう。ご忠告と共にお願い申し上げます」
臣下の礼として膝をつくゼルシンに、リゼはまた、このままではいけないと再三思ったのだった。
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それから一週間。日々は変わらず、恨みはつのる。
レーベンスはいたる所で首の皮一枚の目に合い、リゼはその度に肝を冷やす。
自分がどうしてこんなにも焦っているのかもわからずに、傍らで彼の無事を喜ぶ自分を認める度に、リゼは自分が少しずつ黒ずんでいくような気がしてならなかった。
このままではいけない。
焦りがつのる。
彼は、わたしが――
思いつつも、リゼは再びレーベンスを襲うことができずにいた。
ゼルシンでもダメなのだから自分になど無理だと理由づけて、リゼはただ彼の傍らに在り続けた。
そんな彼女をレーベンスはしかし、辛抱強く待ってはくれなかった。
ある日の夕食時。
いつも通りの対面の席で他愛ない会話をふっていたレーベンスが不意に語勢を正した。
「さて、覚悟は決めたか?」
急な話題の変わりようについていけず、リゼは手を止めて顔を向ける。
「俺の隣に在り続ける覚悟だ。ここでの生活から俺がどんな国を作ろうとしているのか、わかってきただろう」
強い断定の口調だった。
現在のトリスヴァレア王座にあるは彼の父。実権を握るのはレーベンスではない。
それでも戦場での悲劇のほとんどはレーベンスの手によってもたらされたものだ。
次期国王が誰かと問われれば、王の嫡子が彼しか生存していない事実を除いたとしても、多くの国民が彼の名を出すことは想像にかたくはなかった。
だが当然のことながら、突然の話題にリゼは戸惑い、明確な答えを持たぬままに言葉を返す。
「何を今更なことを。わたしがあなたの妻になることは既に決まったことでしょう」
「そういうことを言ってるんじゃない。誰が敗者で、誰が勝者か。そんなことはどうでもいいことだ」
「……侵略者は随分な物言いをしますね」
「俺がお前をどうして妻に選んだのかわかるか?」
再度の問いに、リゼは小さく首を横に振る。
正装をしたリゼに向かって、「戦争をする気か?」などと言う彼だ。
容姿一つで選んだわけではないことはわかりきっていた。
「アゾル、レヴィン、シェルシード。トリスヴァレアがこれまで飲み込んできた三国の内、最も憎しみ深いのがお前だ。現王はさらして処刑され、王妃は慰みものに飼われ死に、後継ぎの王女は身売り同然に渡され、弟の王子は侵略国の傀儡となる」
確かめるように。戒めるように。
レーベンスは食器を置いて身を乗り出す。
「お前の憎悪は尽きたのか? 感じないほど鈍いのか?」
リゼをのぞきこむ瞳に、いつもの煽るような嘲りの色はない。
「俺にはわからん。ただ戦の結果だけで女を縛るような、そんな誰かのようなマネを俺はしない」
敵国を滅ぼし、資材を奪い、女を飼う。
それがこれまでのトリスヴァレアの政治だ。
飲み干し、啜り、一片の肉片さえ残さず喰い尽くし、捨てる。
「これまでの結果をつなぐ姿勢を、俺は見せているつもりなのだがな」
「……まだ日は浅く、この国を出歩いたことなど数度しかありません。それでこの国を背負った気になったなどと言えるほど、軽い女ではありません」
これまでの日々で何を見ただろう。ここでの覚悟を、皆に加わる覚悟を持っていただろうか。
リゼは自問し、自答する。
初めは持っていた。
ここに来た時は、何も考えず復讐し、終わらせるはずだった。
けれど阻まれ、家人の皆を見てからは何かが変わった。
懐には父の形見の懐剣がある。そこにもう、手は向かない。
存在を意識するだけのものになり下がっていた。
今のリゼには上っ面の答えを返すことしかできなかった。
「俺はお前自身の覚悟を訊いているんだがな。……まあいい」
唐突に言い、レーベンスは席を立つ。
「三日後だ。その夜、俺の寝所に来い。見せるものを見れば、それでわかるだろう」
言い置いて食堂から出て行く。彼の後姿をリゼは呆然と見つめる。
夜伽を命じられた。
そんな雰囲気など微塵も感じられずにただ呆とするリゼの後ろで、メイラが静かに息を落とした。
読了ありがとうございます。