第6話 心に差し込む光
わたしの肌を濡らした雨を遮るブルーの傘の持ち主は、
わたしをその傘の中へと入れるとわたしの表情を伺うようにもう一度控えめに声を発した。
「風邪、引いちゃいますよ?」
「……あっ」
男性の言葉に肩を僅かに震わせて、自分の髪に手で触れるとしっとりと湿っていた。
この日着ていた地味な色の服も、水分を吸ってさらに暗く地味な色へと変化していた。
彼を見上げて瞳を合わせると彼が少しだけ困惑した瞳でわたしを見ていた。
「ご、ごめんなさい!!」
「いいえ。雨、急に降ってきましたもんね」
「傘、持ってないんですよね?」
「あ、はい…」
手ぶらで肩から斜めに提げた小さめの肩掛けのカバンには、お財布とハンカチ、自宅の鍵と携帯しか入っていない。
傘を持っていないことは一目了然だった。
「あの、どこか屋根のあるところまで一緒に歩きませんか?」
「あ、いいです。わたしの家ここから歩いて帰れる距離なんで。走ります」
彼が差し伸べてくれた傘から抜け出そうと一歩下がると、彼の腕が僅かに伸びてわたしをまだ雨から守った。
目の前の彼の肩が濡れるが見えて一歩再び前に出た。
休日で賑わうこの景色の中で彼はスーツ姿だった。
「よかったら、この傘使いますか?」
「え?」
「この傘会社の置き傘で、僕今日折り畳み傘持ってますから」
彼は傘を持つ手とは反対側の手に持つ通勤カバンを持ち上げて微かに目元に笑みを浮かべた。
「そんな、悪いです! 大丈夫ですから」
「別にあの、安物なんで……。僕よく外回り中傘忘れて買うから会社に置き傘がたくさんあるんです」
今度は白い歯を僅かに見せて恥ずかしそうに少し俯きながらほほ笑んだ。
ほほ笑みながら差しだされた傘の持ち手に自然に手が伸びてしまった。
普段だったらこのような他人からの好意には、
気持ちだけを受け取ってたぶんわたしは逃げるようにしてこの場を去ったことだと思う。
初対面の他人から、こんな好意を受けたことがなかったから実際のことはわかんないけど。
彼から受け取った傘を今度はわたしが持ち、さらに雨足の強くなる雨から二人を守る。
一人で使う小さめの傘だったから、その中に二人が入ったらどうしても雨には濡れてしまう。
わたしは出来るだけ彼をかばうようにして腕を伸ばして彼の方へと向けて差した。
彼はカバンの中から手探りで折り畳みを取り出すとわたしの方を見ながら「ごめんなさい、すぐ出るんで」と言っている。
彼の方へと傘を差し出しているからわたしが濡れていることに気を遣っているらしい。
謝るのはわたしの方なのに。
「その傘……」
「あ、あぁっ。こ、これは……」
男性がカバンから取り出しひろげた折り畳み傘は、うさぎのキャラクターのとても可愛いく女の子らしい小さな傘だった。
「これは、その。姉の子供の傘だ」
「はぁ……」
「今日、急遽出勤が決まって慌てて出てきたから……」
「そ、そうですか、おつかれさまです!」
「……」
「……」
しばらくお互いに俯いて沈黙が続いた。
先に顔を上げたのはわたしの方だった。
「あの、やっぱり傘……」
「いいんです、いいんです僕はこれで」
せめて今私が差しているブルーの傘と交換しませんかと提案しようかと思った。
でも借りておいてそんなこと言うのも失礼にあたるかと思ったし、折り畳みがお姉さんの子供のものならなおさらそんなこと言えなかった。
彼は小さな傘を差してわたしの差す傘の中から抜け出した。
「じゃあ、僕はこれで」
「あの、本当にいいんですか!?」
去ろうとした彼を一度引きとめると目を思いっきり細めて穏やかにほほ笑んだ。
「風邪、引かないようにしてください」
彼のその笑顔は。
どんよりとした暗く厚い雲に覆われたこの空の下でも明るく輝いているように見えた。
「ありがとうございました!!」と深々と頭を下げ、次に顔を上げた時には彼はたくさんの人が街行く景色の中に消えていた。
しばらくその場に立ちつくしていると、次第に傘に落ちる雨の音が耳に響いてきた。
俯いて、雨に濡れて真っ黒に光るアスファルトを見たらまた急に気持ちが切なくなってきた。
急に肩が震えて寒さを感じた。
結構、濡れちゃったからな。
冷たくて切ない感覚を忘れさせるような力が彼の笑顔にはあったんだ。
まるで闇に覆われた暗いわたしの心の中に、小さくて儚くて、でも優しくて穏やかな光が差し込んだみたい。
あんなにも鮮やかに瞳に映ったブルーの傘は、
改めてよく見てみると百円ショップで購入できるような安っぽい、ビニール傘だった。
それでも。
雨に打たれて身体は冷えてしまったけど、傘の持ち手だけがなんだかあったかい。
【光 -ひかり- 第一章 終】