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光 -ひかり-  作者: 美波
番外 : 春はすぐそこ
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(2)勇気を出して

 日があるうちから温泉につかって、身も心もキレイになる。なんて贅沢な時間なのだろう。

 開放的な露天風呂で緑が香る景色に囲まれてわたしは至福のひと時を満喫……


「……はぁ」


 満喫するにはほど遠い心理状態で露天風呂ではなく内風呂の大浴場で項垂れていた。

 鈴村さんとは出会って半年。さすがに半年も経てば最初のころのように一緒にいるだけで緊張することもないし、会話だって自然な雰囲気で楽しむことができるようになっているのに。

 それなのに……さっきは突然の苦手な生物の襲来に久々に取り乱して失敗してしまった。しかも実際にはヘビもトカゲもいなくて、ただの木々が作った影だった、とか……。

 ブクブクと泡を立てながら顔半分までお湯に浸かってそのまま頭の先まで潜る。二、三秒で息切れを起こしてぷはっと息を吐いて顔を上げた。

 いつまでも落ち込んでなんていられないよ。

 今日は勇気を出すって決めてきた。こんなにも長い時間を一緒に過ごせることなんてないもの。前に一度鈴村さんの家に泊ったときは、夜は別々に過ごした。その時にあと一歩のところで叶わなかったこと。


「……蒼生くん」


 ポツリと呟やいた声は温泉の中で流れるお湯の音にかき消されてしまった。

 別々に過ごした夜に一度だけ鈴村さんを名前で呼んだことがある。でもあの時は震えるほどの緊張に気持ちの許容量を超えてしまって、その後も継続して彼を名前で呼ぶことは出来ないままだった。

 今日はたくさん時間があるもの。

 そうだ、慣れるまで何度も何度も挑戦して……鈴村さんは夜寝るの遅いし、わたしも今日はがんばって夜更かしして、なんなら徹夜して……!

 結局、わたしは鈴村さんと一緒にいてもいなくても、彼のことを思って気持ちが高ぶると軽い暴走を起こしてしまうのだ。

 まったく、成長していなかった。



 身体が熱くて頭がぼーっとする。もしかしたら自分の頭からモクモクと湯気が出ているんじゃないかって思うくらいに。


「……心ちゃん、大丈夫?」

「……うん」

「はい。これ」

「ありがとう」


 冷たいミネラルウォーターが注がれたグラスを受け取って頬に当てた。

 長風呂で完全にのぼせてしまったわたしは、浴場に隣接するロビーラウンジのテラス席に座って、外の冷たい風に当たっていた。


「ごめんね、遅くなって」

「ずっと入ってたの?」

「……う、うん」


 気づいたら長い時間が経過していて、慌ててあがって待ち合わせをしていたこのラウンジに来るとすでにあがっていた鈴村さんは本を読んでいた。


「……はぁ。気持ちいい。ちょっと落ち着いてきた」


 頬に当てた冷たい水が自分の熱を吸い取ってくれるよう。その水を一気に飲み干せばさらに気分は楽になった。


「心ちゃんお風呂好きなんだ」

「いや、そんなことないんだけど……普通だよ」


 普段は意識して湯船には浸かるようにはしているけど、基本はお風呂に入って身体を洗うという目的を果たしたら必要以上に長居はしない。

 今日は……ちょっと、ね。色々と考え事があったのだ。わたしは話題を逸らすように鈴村さんに問いかけた。


「何読んでたの?」

「あぁ、これ。ここに置いてあった本だよ。このあたりの観光地が載ってて……」


 本のことを語る鈴村さんはいつもとは違う雰囲気。理由は簡単、浴衣姿だからだ。

 シックな柄と色合いの浴衣は、落ち着いているけどまだ若くて瑞々しい印象のある彼に少しのクールさをプラス。火照って、まだ髪も半乾きの自分とは違って、さらっと涼しげな雰囲気もクールな印象を増長させているのかもしれない。


「なに? じっと見て」

「なんだか、浴衣姿が大人っぽいなって」

「大人ですけど」

「じゃあ、……色っぽい!」

「やめてくれ!」

「あははっ」


 鈴村さんはわたしにつられて笑ってくれたけど、すぐに反撃に出た。


「色っぽいと言えば心ちゃんの方が」

「……はっ!?」

「髪は濡れてほっぺは赤くて……」

「や、やややめてよ! わたし色気ゼロで有名なんだから!」

「どこで!?」

「修ちゃんにさんざん言われて……!」

「仲いいなぁ、ほんとに」

「いやいや、感心するところじゃないから」


 からかわれて子供みたいに必死になるわたしに、鈴村さんは優しく「ごめんごめん」と謝ると、空いたグラスと本を持って立ち上がった。


「もう大丈夫そうだね。外は冷える。そろそろ行こう」

「うん。お腹空いたな。ご飯楽しみ!」

「あ。今何時だ?」

  

 鈴村さんについて立ち上がって、隣に並んで歩幅を合わせて歩き出す。

 夕食の食事処は2種類から選べた。チェックインの時に選んで時間も予約して、施設内に設置してある時計の針がその予約した時刻を告げようとしているところだった。

 わたしたちはその足でそのまま食事処へと向かった。



 満腹ほろ酔い気分で部屋に戻ってきたのはそれから二時間後。

 畳の和室でテーブルを挟んで向かい合って、わたしは温かいお茶を飲みながらのんびりと過ごしていた。

 時々ふわりと部屋のカーテンを揺らして入ってくる夜風。鈴村さんは立ち上がると、ここに来たばかりの時に開けた部屋の窓を閉めた。夜の風は肌寒い。


「そういえば今日は、家の人にはなんて行ってきたの?」

「今日はちゃんとほんとのこと言ってきたよ。……って、嘘をついたことは一度もないけどね」

「そっか」


 前に一度外泊したときは親が勝手に女友達と一緒にいると勘違いをしたんだ。


「もう子供じゃないから。何も言われなかった」

「でも。お父さんはきっと今頃泣いてるよ」

「えー?」


 クスクスと笑いながら自分の空になった湯呑にお茶を注いだ。


「お父さんってやっぱそういうもんなのかな? 娘に彼氏……。みずほちゃんが男の子連れてきたら泣く?」

「俺はお父さんじゃないよ……」

「あ、そっか」


 鈴村さんは小さく噴き出すと、そのまま「忘れてたんだ。コンタクトはずしてくる」と言って洗面所へ向かった。

 わたしは時計に目を向けた。部屋でのんびりとして過ごしていたら思ったよりも多くの時間が経過していた。

 いつもならそろそろ寝る時間だけど今日はまだ眠たくない。

 一人になって気分が落ち着かなくなって立ち上がる。でも行き場がなくて、窓際に立って外を見たけど真っ暗だった。


「心ちゃんもう寝るよね?」


 眼鏡をかけて戻ってきた鈴村さんがわたしの隣に来て同じように外に目を向けて「真っ暗だよね」と呟いた。


「街並みが見えるのは、逆側なんだろうね」

「明日この辺ぶらっとしてから帰ろうよ。観光地だし色々あるみたい」

「うん」


 隣に並んで会話をするとき、わたしより高い位置からじっと見下ろす瞳はいつでも優しい。

 きっとそれは出会ったころからで、それなのに最初のうちは目をまともに合わせることもできなかった。でも今は違う。

 合わせた視線に引き込まれるようにして口を開いた。


「今日はね、心に決めてきたことがあるの。……蒼生君って、呼んでもいい?」


 わたしにしてはスムーズに、自然な形で伝えることができたと思う。

 鈴村さんは一度照れくさそうに微笑んだけど、でもずっと視線は合わせたまま。そして頷いた。

 ほっとしたわたしは少し大げさに胸を撫で下ろした。


「はぁ……。ずっと言いたかったんだけど、呼び名ってなかなか変えるの難しくて。だから思い切ってまずは宣言しておこうと思って……」

「心に決めてきたって……何かと思ったよ。でも決心してきたにしてはあまり緊張した様子なかったね」

「うん……」


 自分でも不思議な感じだ。さっきは意気込み過ぎてお風呂でのぼせるという失態を犯していたのに。いざ目の前にして言ってみると思ったよりも簡単だった。


「蒼生君」

「なに?」

「大丈夫みたい。……ははっ、簡単なことだったね。もっと早くから言えばよかった」

「いいんじゃない? ゆっくりで」


 ゆっくりで。その言葉が嬉しくてにんまりしながら頷く。ありえないほどのスローペースの恋愛なのに、そんなわたしを受け入れてくれていることがとても嬉しい。


「俺も変えてみようかな。呼び方」

「変えるって」

「……こころ?」

「……」

「やっぱ、心ちゃんは心ちゃんだな!」

「ふふ、わたしも蒼生君に心ちゃんって呼ばれる方が好き!」


 お互いに面白いこと何も言ってないのに、こんなたわいのない話でわたしたちは笑顔を通り越して軽い爆笑。そこには互いに照れくささが含まれているのだけど、このくすぐったさは大好き。

 今ならわたしもう一歩踏み出せる。ううん、今じゃなくても、出会った時から。後ろめたさを感じることはなかったんだよ。28にもなって子供みたいな自分を恥じて悔やむこともなかったんだ。

 だって蒼生君は、


「あーあ。結構遅くなっちゃったな。そろそろ寝よっか」


 ただの一度だってわたしを傷つけるようなことはしなかった。もう分かり切ったこと、何度も確認したこと。わたしには蒼生君以外は考えられないのだ。


「まだ眠たくない」


 わたしは蒼生君の浴衣の袖をぎゅっと掴んだ。



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