(1)苦手なの
乾燥した冷たい風が吹くと一気に体感気温は下がるけど、昼間に太陽が出ている日はその日差しが心地よく感じる暖かさの日も。
まだ寒い日と暖かい日の繰り返しの日々。
桜の蕾がぷっくらと膨らんで、あと二、三日もすれば桜も満開になる三月下旬。
休日に結婚式の二次会のゲームで当てた、近場の観光地の宿泊券を使う目的で現地に向かう電車に乗っていた。
二人掛けシートの窓際に座ったわたしは、窓の外に見える木々に目を向けながら言った。
「桜、今日咲かないかな」
「今日は無理だよ」
「おしかったな」
天気は晴れ。気温も予報では昼間は上着がいらない過ごしやすい温度。
それに加えて桜まで満開だったらもっといい旅になっただろうと思うと少し悔しい。
「来週には満開だろうし、来週また、見に行こうよ」
隣に鈴村さんも同じように外の景色に目を向けながらそう言うと、目を合わせた。
車に乗っているときや並んで歩いているときよりも距離が近くて、照れくさくてすぐに目を逸らしてしまったけど、それでも嬉しくて笑顔でうなずくことが出来た。
年が明けてからは鈴村さんのお仕事も落ち着いているみたいで、年末のなかなか会えなかった日々を思うと前よりは会えるようになった。
会うにつれて、少しずつだけどどんどんと距離が近づいているのが分かる。一緒にいる時もお互いに自然体でいられる時間が増えたように思う。特に、わたしは。
前みたいに緊張して取り乱すことは今はもうほとんどないから。
「たまにはのんびりと電車もいいね。眠くなっちゃうけど」
「寝ててもいいよ」
わたしの言葉に鈴村さんは「寝ないよ」と言いながらあくびをしたから噴き出して笑ってしまった。
「……ごめん」
「昨日寝るの遅かったの?」
「いつも通りだよ」
「何時?」
「2時くらいかな」
「相変わらず夜型だよね。でもちょっと遅すぎるよ」
「眠いな~寝ようかな、でも風呂入らなきゃー……って思ってグズグズしてるといつの間にか時間が過ぎてるんだよね。それにいつも会社でもこの時間って眠たくなる時間なんだよ」
「うん。そうだね。たしかに」
お昼過ぎ。電車の振動と外からの暖かい光に眠たくなっちゃう気持ちはとてもよく分かる。
今日、電車で現地まで行こうと提案したのはわたしだった。車の方が早いし便利だろうけど、いつも運転してもらってばかりで悪いしたまにはのんびり電車でお出かけしてみたいなと思って。
だから寝ててもいいよと言ったわたしの言葉は本心だ。
「そうだ! じゃあ眠気覚ましのガムあげよっか」
「ガム?」
「この前新商品だって駅前で配ってたの。食べてみたんだけどすっごく辛くて舌がマヒ……」
「刺激物はちょっと……」
「いいから食べてみてよ。たしかバッグに……」
「いらないって!」
「いいから、ね、ほら!」
ガムを押し付け合うくだらないやり取りもとても楽しくて、笑っていたら目的地まではあっという間に着いてしまった。
目的地の温泉宿は、静かな緑の中に佇み観光地へのアクセスも便利な好立地にあった。
案内された部屋は6畳くらいの和室とベッドルームが隣接した広々とした部屋だった。
「素敵なところだね……」
部屋について思わずそう言葉が漏れた。
部屋に来るまでに見たロビーに流れる小川や窓の外に見える緑豊かな素敵な庭に流れる小川。水の音と風景はこれからはじまる癒しの時間を告げているようで、予想していたよりもずっと素敵な部屋と施設に気分が高揚する。
「さっきフロントに置いてあった冊子をちらっと見たんだけど、6月くらいだと庭の小川で蛍が見られるんだって」
「へぇ、そうなんだ」
「ちょっと残念だったな」
「なにが?」
「桜も咲いてないし蛍の季節でもないし……」
「また来ればいいじゃん」
窓の外の景色に目を向けながら会話をしていると鈴村さんが窓を開けた。
一気に澄んだキレイな空気が中に入ってくる。
「鈴村さん旅行好きなの?」
「意外と好きだよ。国内はもちろん海外へもよく一人旅に……」
「えっ」
「一人旅にいきたいなぁとは思うんだけどなかなか機会がなくて……」
「つまり行ってないわけだね」
「……うん」
「なにそれっ」
クスクスと肩を揺らして笑うわたしを横目で見ながら鈴村さんは「これからどうする?」と言った。
「まずね、温泉には三回入るって決めてきたの。お土産も見たいし、近場をブラブラ散策もしたいし……」
「それ全部できる!?」
「部屋でゆっくりお茶飲んでのんびりもしたいな。あ、部屋で茶香炉を焚いたりできるんだって」
「……そう」
「あ。全部は無理だって顔してる」
何日も前からこの日を楽しみにしていたわたしは、あれもしたいこれもしたいと一人で色々と予定を立てていた。
「そういえば売店に心ちゃんの好きなご当地ものグッズがあったよ」
「えっ……あの、それ」
いつだったか。
鈴村さんにご当地ものグッズのコレクターだと勘違いされてそのままになっていた。好きだけど、そこまで熱心でないことを伝えなくては……!
「行こうよ」
でも、行こうよと言った彼の手がわたしの手をがっちりと掴んで引くから言い出せなくなった。
困ることでもないし、……このまま勘違いされたままでもいいかなって思ってしまった。
手を繋いで売店を見て、帰りに買って帰るお土産の話やまったく別の他愛のない話をしたり終始会話が途切れることはなかった。
それから施設内の緑豊かな庭園をブラブラと散歩して、この時は互いに自然と流れる水の音に目と耳を向けながら口数は少なめで個々で思いふけっていた。
わたしは蕾の膨らんだ桜の木を見て、この時は残念だなと思うよりも来週一緒に見に行けるのが楽しみだなと期待に胸を膨らませていた。
そんな時、
「……へっ、き、きゃぁぁ!」
わたしの目の前の草むらをニョロニョロとした物体が横切ってパニックになって隣の鈴村さんに飛びついてしまった。
「へ、ヘビがいた!!」
「いないよ、ヘビなんて」
「じゃ、じゃ、じゃあトカゲ……!」
「こんな時期にトカゲなんていないよ」
「だめ、だめだめ! にょろにょろ、わたし爬虫類苦手なの!」
「お、落ち着いて……」
はっとしたとき、私は鈴村さんの腕にしがみついて、思い切り引いて、顔を上げると困惑する様子の彼の顔が歩いているときよりもぐっと近くにあって。
自分の信じられない大胆な行動と、あとやっぱり大嫌いな生物の存在が同時にわたしに襲ってきて大パニック。
「いやーっ!」
そしてパニック状態のまま一人でその場を逃げるように走り去ってしまった。
少し走って建物の陰に隠れて後ろを振り返ったとき、自分の失態にまた頭を抱えることになった。
わたしたちのはじめての小旅行はまだはじまったばかり。