第46話 忘れられない夜
一歩部屋へと入り、俯いた顔を上げられないまま部屋の真ん中あたりまできてその場に正座した。
「足痛くない?」
「へ、平気!」
「そ、そう」
先ほど一緒の部屋で寝てもいいかなって自分でも信じられないような大胆な発言をしたあと、すぐに自分の言ってしまったことの恥ずかしさに身を震わせ「変なこと言ってごめん!」とひたすら謝るわたしに鈴村さんは困惑気味だった。
そりゃ、そうだよね。
一緒の部屋で寝るってことの意味がわからないほど子供じゃないし、……でも一緒に寝てもいいかなって言わなかっただけまだマシなのかな。
わたしは一体、何がしたいのかな。
どうしたいのかな。
この人ともっと近づきたいって思ってもそれを焦る気持ちはないの。
でもこのままいい歳していつまでも子供でいいのかなって思う気持ちもある。
だから相手が望むのなら……という気持ちもある。
ピッとリモコンのスイッチが入る音がして肩を震わした。
エアコンが入って静かな部屋にエアコンから送られる風の音がする。
「寒いよね? 何かもう一枚着る?」
「大丈夫。今、暑いくらいだから……!」
「……あ、暑い?」
さっき、鈴村さんはわたしが一人取り乱している間しばらく沈黙していた。
どうしようか、って考えていたのだと思う。
返事を待つ間、とても恐かったの。何が恐かったって、拒否されることが恐かった。
しばらくして「部屋、あまり綺麗じゃないけどいい?」って返事がもらえて、ほっとした気持ちと一気に高まる緊張が混ざって、なんだか色々な感情に振り回されて乗り物に酔ったみたいに少しだけ気持ちが悪くなってきた。
でもやっと顔を上げて鈴村さんの顔を見たら「なんて顔してんの?」って言ってわたしの表情を見て浮かべる笑顔がとても優しかったから、ごくりと息を飲み込んで一度気を落ち着かせることが出来たんだ。
フローリングの上での正座は痛くて、たぶん5分ともたなくてわたしは足を崩した。
鈴村さんはちょっと前に部屋を出て行った。
お布団を探しに行っているのかな。
やっと顔を上げて部屋を見渡せたのは、部屋に入ってからしばらくしてからだった。
物で溢れ返った自分の部屋とは違って、男性らしくすっきりとした部屋だった。
白い壁に黒に近い茶色の家具が置いてあって、本棚にはぎっしりと本が綺麗に……は並べてはなかった。
横を向いていたり倒れたりはしている本はたくさんあるけど、本は一応ちゃんと本棚に置いてあった。
わたしがクリスマスにあげた安眠グッズがベッドの脇に置いてあって喜びを感じる。
どこが散らかっているのだろうと思って床の上を見ると、積み木やブロックなどのオモチャの欠片だったり可愛らしい人形が転々と落ちていて頬が緩んだ。
床にうっすら子供のらくがきも残っていた。
「それなかなか消えないんだよね」
戻ってきた鈴村さんが床を見つめて、わたしのとなりにしゃがみこんだ。
そして「はい」と言って古いアルバムを手渡した。
「これ……」
「さっき見たいって言ってたから。いいよ、見ても」
「あ、ありがとう……!」
どきどきする……。
鈴村さんの子供の頃の写真も家族の写真も見られるんだ。
表紙を見つめたまま感動していると鈴村さんはベッドを指さして「心ちゃん使っていいよ」と言った。
「……えっ? で、でも。鈴村さんは…」
「俺はね、どこでも熟睡できるから大丈夫」
「そんな、わたし別に寝床を奪うつもりなんてなかったんだけど……!」
「えー?」
クスクスと肩を揺らして笑うと「じゃ、おやすみ」と言って立ち上がろうとした。
「えっ、……ち、ちょっと待って!」
「なに?」
「ど、どこへ行くの?」
「もう1時まわってるよ。心ちゃんはいつも絶対に起きてない時間だよね」
「そうだけど……」
彼が部屋を出て行ってしまったら、今日が、この時間がもう終わってしまうんだって思う気持ちが焦りに繋がった。
「わたしって、魅力ない? ……よね」
自然と出てしまった言葉に、向かい合うようにして腰を下ろした鈴村さんがゆっくりとわたしを見据えた。
そしていつも通りの優しい口調で言った。
「どうしてそんなこと言うの?」
どうしてって言われても。
わたしには経験がないからわからないけど、たぶんこういう状況で男女が夜二人きりでいるってことは……
「……あ」
わたしはふと、先日の早瀬さんとの会話を思い出した。
「男の人は、みんな肉食だって……」
「……は?」
「早瀬さんが……あの。言って、だから鈴村さんも……って」
「よく分からないな。何を聞いたの?」
「色々……?」
自分で発言しておきながら、どんどんと恥ずかしさの渦に巻き込まれていくようで最後の方は自分で何を言っているのかがわからなくなった。色々と言うほどのことは聞いていなかった気が…。
鈴村さんは掌で頬を抑えるようにしながら視線を斜めに落としてじっと床を見て何かを考えているようだった。
そしてしばらくして「早瀬が何を言ったのかよくわかんないけど……たぶん若い頃の話だよね」と呟いた。
「俺も男だから……でも肉食って言葉はちょっと違う。それに今はもうそこまで……」
「今はもう? 今はもう女の人に興味ないってこと?」
「そういうわけじゃない」
「……そ、そう」
「……うん」
鈴村さんが「一回この話し止めよう」と言ってわたしはコクリと頷いた。
そしてまた彼が何かを言おうとして一瞬声を発した言葉を遮って、わたしはずっと言えていなかったことを告白した。
「気づいていると思うけどわたし、……いい歳して恋愛経験ないの。……ほら。こんなだから、ずっと縁がなくて」
無理に明るく言おうとすればするほど声が震えて、どんどんと声が小さくなっていった。
「面倒臭いよね」
自分で言っておきながら、情けなくて泣きそうになった。
でももっと面倒臭い女になるのは嫌だと思って涙は必死に耐えた。
静まり返る部屋に、静かな口調の鈴村さんの声が響いた。
「ごめんね、言わせちゃって。……とても勇気がいることだったよね」
優しい言葉に鼻の奥がツンと痛んでその痛みを我慢するようにぎゅっと手を握って俯いた。
「好きな人が出来ればその人のことを知りたいって思うのは当然で、それは抱き合わなきゃ知ることが出来ないこともあると思う」
わたしは俯いたまま頷いた。
少しの間を置いて、今度は少し明るい口調になった鈴村さんの言葉が耳に響いた。
「俺達ってさ出会ってからまだ間もないし、二人でこうやって会うことも数えるほどだよね」
「……うん」
「会うたびに心ちゃんの色んな一面が見れて、すごく楽しいよ。今日だって」
「今日……」
「素顔がとても幼いってことや、赤面する姿は何度も見たけどその最高潮に赤い顔を見れたし、みずほのことを語る時の心ちゃんの顔がとても優しくて子供が好きなんだろうな、とか」
「は、恥ずかしいよ……!」
「あとは、まだ俺に脅えてるってことも」
「脅えてなんか……!」
脅えてるんじゃない。
好きだから意識しすぎちゃうんだよってことを伝えたくて勢いよく顔を上げると、「ようやく目合わせてくれたね」と言ってほほ笑んだ。
「だから同じように心ちゃんにも俺のこと知ってほしいよ」
「……え」
「がっかりするようなこともたくさんあるだろうし、いいところも悪いところも知ってほしい。色々知って、それでも俺でいいって思って気持ちが落ち着くまで待てるよ。子供じゃないからね?」
わたしの笑顔を誘いだすように得意気に笑うと、ゆっくりと表情を変えて真剣なまなざしでわたしを見た。
「何でも……傷つくのは女性だから。心も、身体も。こんなの初めてだよ。大事にしたいって思ってるんだよ。……だから、自分は面倒臭いとか魅力がないとかそんなこと言わないでほしい」
わたしは瞳を伏せ震える唇を一度噛み締めた。
ゆっくりと頷きながら、瞳を閉じた。
「……はい!」
頭を下げるようにしてたった一言だけだけど大きな声で返事をした。
自分の頭に鈴村さんの手が乗せられてしばらくの間、顔を上げることが出来なかった。
きっと今、さっき鈴村さんが最高潮だと言った顔よりもさらに真っ赤になっていてその顔を見せたくなかった。また何か言われちゃうと思って。
でもね、ずっと堪えてた涙は一粒も落ちてこなかったんだよ。
しばらくすると鈴村さんの手がわたしの腕を掴んで少し強引に立ち上がらせた。
「ほら、もう寝るよ」
「えっ、え?」
わたしをベッドに座らせると豆電球を残して明るい電気は消されてしまった。
「ほ、ほんとにわたしここで寝るの……?」
「大丈夫、この間洗濯もしてたし休みの日は外に干してたし。親がね」
「そ、そういう問題じゃ…」
足を上げベッドに乗ってはみたものの、とても横にはなれなかった。
「ここに一人……で? 眠れないよ……!」
「心ちゃんが眠るまでここで見ててあげるよ」
「余計眠れない!」
鈴村さんがベッドに肘を立てて楽しそうに笑っている。
そして「冗談だよ」と言うと立ち上がって「おやすみ」と言った。
深夜になっていたから少し強引にでも立ち去るつもりだ。
「ちょっと待って!」
一個だけ、この日最後に伝えておこうって思ったことがある。
「一緒にいてこれからがっかりするとこがあっても悪いとこを見つけてしまっとしても、それも好きになれると思うよ。自信がある」
「……」
「それにとっくにもう、鈴村さんならいいって、わたしにはあなたしかいないって思ってるよ」
鈴村さんはベッドに手をついて腰かけ、身体をわたしの方へと向け目線の位置を合わせた。
そしてとても幸せそうな笑顔を見せると「ありがとう」と言って少し照れたようなはにかんだ笑顔を見せた。
きゅんと高鳴る胸がくすぐったくて何も言えず、同じように意味もなく笑ってみた。
そして再び立ち上がる鈴村さんを見上げると同時に、彼の右手がそっと頬に沿えられた。
身を屈める気配を感じながらゆっくりと瞬きをしてまつ毛を伏せた時だった。
唇にとても優しくて心地のいいぬくもりを感じた。
すぐにその熱は去って伏せた瞳をゆっくりと開ける。
「ごめん、我慢できなかった」
そして状況が理解できない私の目の前で、鈴村さんが間近で表情を崩してまるで少年のようにいたずらな眩しい笑顔を見せると「おやすみ!!」と一言大きめの声で告げてた。
わたしはただ無言で瞬きを繰り返し背を向け部屋を出ていく彼の背中をじっと見つめて、やがて部屋の扉が静かな音を立てて閉まった。
「……い、いま」
わたしは僅かに震える両手で自分の唇に触れた。
そのまま両手で顔を覆うとパタンと仰向けに倒れた。
倒れた瞬間、ふわりと鼻をかすめる優しい匂いに鈴村さんに包まれているような感覚に陥って今度は身悶えた。
わたしがこの日一睡もできなかったことは言うまでもない。
何度目を閉じても優しくて穏やかな鈴村さんの表情が、暗闇の中でも光を発したかのような鮮やかな残像となってわたしの心に焼きついて離れなくて、眠れなかったの。
とてもとても長い夜だったけど、一生忘れられない胸いっぱいの幸せに満たされた夜になった。
【光 -ひかり- 第六章 終】