第44話 どうしたらいいの?
男女の恋愛について知識がまったくないわけではない。
28年間生きているのだから経験はなくても、他人から聞いた話や雑誌やテレビの記事で何度も目にしたことがある。
でも、彼の実家でまさかお風呂を借りることになった時に、どうしたらいいかなんて……どこにも書いていなかった。
せっかくお風呂を用意してくれたけど、とてもゆっくりつかる余裕なんてなくてとりあえず身体を流して雪でベタベタになった頭だけを洗って出ることにした。
ボディソープもシャンプーも何種類か置いてあって、お風呂に入る前に鈴村さんはどれでも好きなのを使っていいって言っていたけど正直迷った。
お姉さんやお母さんのものだとしたらその人たちが居ぬ間に勝手に使ってしまっていいのかと余計な気がまわってしまってしばらくの間お風呂の中で立ちつくしていた。
ふと、ボディソープの横に置いてあった、水に濡れても使えるクレンジングが目についた。
「……はっ!!!」
わたし、すでにもうシャワーを頭からかぶって顔は水びたしだけど……そう、顔! 顔はどうしたらいいんだろう!?
普段からそんなに厚化粧ではないけど……今ここで化粧を落としてしまったら、明日家に帰るまでスッピンだ。
28歳……まだ、スッピンで外を歩いてもいいのかな。許される? というか、好きな人の前で素顔を晒してもいいのかな!?
曇った鏡に映る自分の姿をちゃんと確認してみたくて、手で鏡を拭いて自分の顔を見てみたらすでに化粧はほぼ落ちてノーメイクの状態だった。
「は、ははっ……」
笑うしかなかった。
ううん。……笑えないよ!
わたしはお風呂にいた時間のほとんどを、ただ戸惑ってうろたえて過ごした。なんだかとても疲れた。
湯船につかってもいないのに長風呂と十分言える時間をお風呂場で過ごしたわたしは、お風呂を出ると用意されたタオルと着替えに手を伸ばした。
着替えはさすがに今日着ていた洋服のまま夜を過ごすのは厳しかったから借りることにした。
鈴村さんの中学の時の体操着のジャージだった。白地で学校で使うジャージにしてはオシャレだと思った。
自分の学生時代の体操着なんてくすんだ紫色のジャージだった気がする……。ワンポイントになぜかピンクの花の刺繍が入っていて……あの色とデザインはありあえない。
他にわたしの身体のサイズに合う物がないって申し訳なさそうにしていたけど謝らなきゃいけないのはこっちのほうだよ。
中学に入学してすぐに背が伸びてほとんど使わないまま着られなくなりほぼ新品のまま残っているこのジャージを最近見つけたらしくて、捨てようと思って部屋の外に出しておいたら母親が勘違いして洗濯してまた自分の元へ戻ってきたんだって。
袖を通すと……これは柔軟剤の匂いかな。
とても優しい匂いに囲まれて思わず赤面した。
鈴村さんと一緒に居る時に、とても近くに彼を感じる時に香る優しい香りと同じだと思った。
ど、どうしよう。
またどきどきしてきた。
彼は「何もしない」と言ったけれど、本当にそれでいいのかなってさっきからずっと頭の中で考えてみたけど答えは見えない。
ただ嫌われたくないし愛想をつかされたくないって、その思いだけだった。
タオルドライだけで髪がまだ半乾きのままリビングに戻ると、テレビの音だけが部屋に響いていた。
鈴村さんの姿を探すと、
「……あ」
テーブルに身体を預けるようにして伏せていた。
……寝てる?
恐る恐る指で背中をつついてみたけれど動かなかった。やっぱり寝ているみたいだった。
横から、正面から、いろいろな角度から彼を見てみたけれど、机に伏せて完全に隠れて寝顔は見ることができなかった。
「………」
どうしよう、このまま放置するわけにもいかないと思って彼の肩に手を置いて声をかけてみようと思った。
背後からわたしの手が肩へと触れようとしたまさにその瞬間、急に鈴村さんが起き上がってわたしは驚いて「わぁっ!!」と声を上げてそのまま後方へと尻もちをついて倒れた。
「……?」
「い、いたたた……」
「あれ。心ちゃん、いつのまに」
「きゅ、急に起きるからびっくりしたよ……」
鈴村さんはわたしの大きな声に少しも驚くこともなく、しかもまだ意識がはっきりしないのかテーブルに肘を乗せて両手で顔を覆って俯くと再びそのまま固まった。
見たことのない彼の姿に、興味津々だった。もしかして、寝起き悪いのかな。
「……あれ、今俺寝てた?」
「たぶん……」
鈴村さんはぼーっとした様子で時計を見上げ「あ、もうこんな時間だ」と呟いた。
「心ちゃんはいつももう寝る時間?」
「はい?」
「客用の布団とか、……どこにあるんだろう。ちょっと探してくるね」
「お、おかまいなく!」
起きているのか、まだちょっと寝ぼけているのか判断が難しいところだったけど、立ち上がろうとする鈴村さんを止めた。
「お風呂行くでしょ?待ってるよ。一人で…はいどうぞ、おやすみなさいって言われても…」
「……そっか」
「まだお話も……したいし」
「うん」
「……」
「……」
沈黙の間、不意にまたこみ上げてくる恥ずかしさから顔が上げられなくて俯いていると、じっとこちらを見ているような視線を感じた。
「な、なに?」
「そのジャージ、サイズよかった?」
「うん、ぴったり」
「格好が違うからかな。いつもと雰囲気が全然違うよね」
「……あ」
ゆっくりと視線を上げて目を合わせると、すっかり目が覚めたであろう鈴村さんがわたしをじっと見ながらパチパチと瞬きをした。
「か……顔が違うかも…ね?」
相手から指摘されるより先に自分で言ってしまった方がいいと思って自らスッピンだということを告げたのはいいのだけど、なかなか相手の反応が返ってこなくて堪らず口を開く。
「ぶ……不気味な顔してるよね!?」
「えっ、えぇ!? 不気味!?」
「いいの、気を遣ってくれなくていいの! 本当のこと言って……!」
「一回落ち着こう、うん」
両手で顔を覆って、首をブンブンと振って。
まるで子供みたいだ。
嫌だな、顔を見られて恥ずかしいところに更に恥ずかしさが増すようだった。
「でも、不気味って……」
一人赤面して動揺していると、鈴村さんが片手で自分の顔を覆って肩を揺らして笑い出した。
大爆笑に近い笑い方だ。
……泣きたい。
「ぜ、全然不気味なんかじゃないよ……! なんていうのかな、その……」
「……なに?」
「いつもより幼く見えるなって思って。あ、褒めてるんだよ?」
「……」
「どっちもいいけど。素顔の方が好きかも」
「……え」
鈴村さんはゆっくりと立ち上がると、背伸びをして「俺も風呂行ってこよ~っと」と言ってマイペースにリビングを去って行った。
一人残されたリビングに座り込んだまま、息苦しさを感じて胸を抑えた。
やばい。心臓が尋常じゃない音を立てて動いている。




