第26話 貰ってばかり
鈴村さんに、山岸さんのことを話せば話すほど、胸が痛んだ。
それは彼女のことを思って何も出来ない自分が情けないって思いがほとんどだったけど、本当は──。
わたしは、手の中に収めたグラスの中で弾ける気泡を一点に見つめながら下手な説明だけど一生懸命頭の中を整理しながら話した。
わたしの話を、鈴村さんは運ばれてきた料理に目もくれずドリンクにすら手を伸ばさず、じっと時々わたしの方へ視線を向けながらただ黙って聞いていた。
「わたしそんな風に傷つけられた経験もないし、本当に何も言ってあげられなくて。隣にずっといたのに何も言えなかったんです」
「わたしって彼にとって何だったんでしょうか」と小さく背を丸めて震える彼女の質問の答えをずっと考えていたけど、何を言っても彼女を傷つけてしまいそうな気がした。
少しだけ悔しかった。
自分のことじゃないのに、山岸さんのことを思うと悔しかった。
「大橋さんは、強くて。わたしは男の人ばかり悪いって考えちゃうけど、彼女は見抜けなかった自分が悪いってはっきり言いました」
顔を上げて鈴村さんと目を合わせると、言葉を選ぶようにしてゆっくりと話し出した。
「大橋さんが見抜けなかった自分が悪いって納得したことも、それで納得できたんだったら俺はそれは正しいと思う」
「でも心ちゃんが山岸さんに非はないって、ただ彼女は彼のことが好きなだけだったのにって思う気持ちも、正しいよね。その通りだよね」
続けて鈴村さんは「何も言ってあげられないって言ったけど俺だって何も言えないと思う。今の話だって何が正しいのかなんてやっぱりいくら考えてもわかんないし」と言った。
瞳を伏せた鈴村さんの目が、じっと一点だけを見つめながら一度唇を噛んで小さく息を吸い込んで呟くように言った。
「ただ、信じたいよね。
山岸さんのことを最初に好きだって言った彼の気持ちは、信じたいよね」
信じたい、独り言のように呟いたでもしっかりとした口調で言ったその言葉が自分に言い聞かせているように聞こえた。
「言ってあげてもいいんでしょうか?」
好きだって言ってくれた言葉だけを信じていた自分が馬鹿だと言った山岸さんに。
彼の最初に言ってくれたその言葉だけは本物だったんだよって、そう言ってあげてもいいのかな。
少しは、救われるのかな。
「それはどうなのかな。どう思う?」
「え?」
「心ちゃんだったら失恋してすぐそう言われたら、どう思う?」
鈴村さんの言葉にしばらく時間をもらって、自分の身になって考えてみた。
「きっと今はまだ、余計に諦められなくなってしまいそうです」
もっと時間が経って気持ちが落ち着いた時にそう言ってもらえたら、もしかしたら次に進めるきっかけになるかもしれない。
でも今、落ち込むのはきっとまだ心のどこかで彼への想いが残っているからだ。
そんな時にあの時の彼の気持ちは本物だった、なんて言われてしまったら戻ってきてくれるかもと期待してしまうかもしれない。
わたしは再び、自然と頭が下がって俯きかけた。
でも彼の言葉に俯きかけた視線が再び彼の瞳を見た。
「無理に、何かをしてあげようとか言ってあげようとかしなくてもいいんじゃないかな」
自信がなさそうに揺れるわたしの瞳とは違って、鈴村さんの瞳はまっすぐとわたしを捕えて離さなかった。
「心ちゃんは心ちゃんなんだからさ。人それぞれ分かることもあるし分からないこともある。出来ることも出来ないこともある。山岸さんが心ちゃんに話したのも、ただ話したかったからじゃなくて心ちゃんだから話せて、聞いてあげるだけで今は十分なんじゃないかな」
「今みたいにそうやって彼女のために必死に何かをしてあげようって思う気持ちが大事で、それは十分伝わってると思うよ」
優しくて、どこか力強さを感じるその言葉が直接心に染みるように響く。
後ろ向きな気持ちさえも言葉一つで前を向かせてしまう。
この人は一体、どれだけのものをわたしに与えてくれるのだろう。
わたしも彼に何かを与えてあげることが出来るのかな。
「じゃあ、今の、信じてたいって言ったのは……?」
鈴村さんは山岸さんのことを最初に好きだって言った彼の気持ちは信じたい、と言った。
わたしの言葉に、鈴村さんはじっと頭の中で何かを考えているように視線をテーブルの上に落としたまま少しの間沈黙した。
再び視線をわたしの元へと戻した時はいつもの笑顔に戻っていて「心ちゃんへ向けてのメッセージ」と言って笑った。
「そういう他の人の悲しい話を聞いて、自分まで他人のこと信じられなくなるのは嫌だなって、俺はそう思うから」
その通りだった。
たしかにわたしは、山岸さんと自分を重ねて、鈴村さんの事が信じられなくなることはなかったけど自信を無くした。
不安になった。
「だから俺は山岸さんのこと可哀想だとは思わない。一瞬でも彼の気持ちは本物だったって信じたい」
温かさしか感じなかった鈴村さんの言葉にはじめて、違和感を感じた。
一瞬?
一瞬でいいのかな。
わたしは……
わたしは、一緒に過ごせるこんな穏やかな時間が永遠に続けと願わずにはいられないのに。
鈴村さんの言葉の真意が掴めないまま彼が言葉を続けた。
「落ち込んでるのは山岸さんのためになんとかしてあげたいって気持ちだけじゃないよね」
鈴村さんはとっくにわたしの胸の内なんて見抜いてしまっていたようだ。
「あの、別に鈴村さんのことを疑うとか信用してないとかそういうわけではないんです、決して」
「うん」
「ただ、楽しい明日が急になくなっちゃうこともあるんだなって、そう思ったんです。それだけです」
こんなことを言ったら子供みたいだって思われてしまうだろうか。
でも、恐いけどありのままの自分を見て欲しいって思う。
「あの、さっきも言ったんですけど……わたし、こういう経験がないので」
「こういう?」
「………こういうの、全般の……」
「え?」
な、なんて言えばいいのかな。
恋愛経験がない?
まるで恋の告白しているみたい。
告白した後の相手の反応が気になって、心臓がドキドキとうるさく鳴り出した。
「あ、レバ刺し食べないと鮮度が落ちるよ。鮮度が命だってさっきお兄さんが言ってたよ」
「は、はいっ」
彼に促され一口だけ口にしてみたけれど、味も鮮度も分からなかった。
ただ体中から変な汗だけが滲むようにして出てきたような気がした。
「言葉ほど不確かなものはないから、俺は出来るだけ態度で出して行こうと思うんだけど」
「……へ?」
移った話題に少しほっとしたけれど、急に変わった話題にすぐについていけなかった。
わたしの様子を察した鈴村さんが「さっきの話に戻すね」と言った。
信じるとか、信じないの話だろうか。
「態度でとか言いながら俺こう見えて、正直マメではないんだよね。薄々感づいてるかもしれないけど……」
「そ、そんなこと」
「メールの返事も、会社にいる時は実験とかで地下室に入っちゃうとそこ電波が届かないし一日そこにいることもあって……って言い訳だよね。外出ろって話しだよね」
「あの、わたしメールとかホント全然気にしてないです! 平気です」
「昔から何かに夢中になると他のことって忘れちゃって、あ、でもそれは決して心ちゃんに夢中じゃないってわけではなくて」
鈴村さんは頭を小さく横に振ると「何かが違う」と言った。
一度咳払いをすると改めて笑顔の消えた、でも見つめるとどこかほっとするような安心できる瞳がわたしを捕えた。
「誠実でいたいというか…傷つけることだけは絶対にしたくないって思う」
「だから電話でもメールでもいいからなんでも話して欲しい。不安になったりしたり言いたいことあったら言って欲しい」
「こうやって会った時なら気づけることもあるけど、会えない時間の方が多いからそういう時は言ってくれなきゃわからないから」
本当に、貰ってばっかりだ。
嬉しいことも幸せなことも、貰ってばっかりだ。
どうしよう、また嬉し涙が出そうだ。
溢れだす気持ちを飲み込むようにして何かお返しできることはないかと思って身を乗り出した。
「あの、わたしにも出来ることありますか!?」
「え?」
「何か、して欲しいって思うこと、ありますか!?」
わたしの言葉にグラスに残ったお酒を軽く飲みほした鈴村さんが「そうだな~」と言って一度目線を上へと向けると思いついたようにして再び視線をわたしへと戻した。
「心ちゃんのわがままが聞きたい」
「は、はい?」
「なんでもいいよ?」
はにかんだ笑顔を見せたのちに鈴村さんは店員のお兄さんを見つけると呼び止めて追加のドリンクを注文した。
わたしも何かを頼むかと聞かれたけど、まだ半分残っているから首を横に振った。
今でも胸がいっぱいで詰まって苦しいほどの幸せを感じているのに、わがまままで言ったらバチが当たりそうだ。
でも今思い浮かぶことと言えばたった一つだけ。
「あの、次はいつ会えますか?」
「ん?」
「鈴村さんのお休みの日に……予約を入れたいんですけど」
「予約制!?」
少しの間を置いてやがてテーブルの上に崩れるようにして笑うと「心ちゃんらしいね」と言った。
そして目の前にある枝豆の器を手に取って「はい」と言ってわたしの方へ差し出した。
「渋いよね」
「何がですか?」
「好きなもの頼んでいいよって言って、レバ刺しと枝豆ってなかなか渋いと思って」
「あ……」
飲まないくせに、お酒のおつまみは昔から大好きだった。
しまった、またわたしはチョイスを誤ったのかもしれない。
「好きだけど」
彼のその言葉に「レバ刺しと枝豆ですか?」と返事をしたら「まぁ、うん。そうだね」と少しだけ歯切れの悪い返事が返ってきた。
「あ、そうだ。次の休みなんだけど」
いつの間にか、数時間前まであんなにも曇っていたわたしの胸のうちもこの時間ばかりはすっかり晴れていた。
いつもみたいにときめくように高鳴る心臓に加えてなんだかくすぐったい気持ちになった。
でも一人になると思い出すのは今はやっぱり山岸さんのことだった。
翌日の朝、ロッカーで会った山岸さんは昨日と変わらず暗い表情をしていた。
「最近寒くなってきましたね」と一言だけの会話を交わすと彼女は去って行った。
でもこの日は、何も出来ない自分を責めて彼女と一緒に落ち込んでいても仕方がないと思った。
仕事で彼女が頼ってきた時は今まで通り精一杯力になりたいと思った。
話を聞くことだけで彼女の助けになれるなら何時間だって一緒にいてあげたいと思った。
わたしに出来ることといったら限られるけど、それがわたしが今彼女にしてあげられる精一杯だ。