第23話 彼女
星空が一番綺麗に見えるのは、やっぱり冬だ。
子供の頃はよく、学校の授業で覚えた大きくて一目見てすぐにわかるオリオン座を探したものだった。
あの日久々に、見上げた夜空にオリオン座を見つけて、なぜだか急に子供の頃に見た数々の夢を思い出した。
子供の頃に見た夢はすべて叶わなかった。
大人になった今からでも同じように夢を見ることは叶いますか。
叶うのならそれは──
【 光-ひかり- 第四章 ねがい 】
十二月になった。
月曜日の朝がこんなにも明るい気持ちで迎えられたのはこれで二回目だった。
いつもより少しだけ起きる時間を早くしてメイクの時間にあててみた。
いつもはレトルトのスープだけを飲んで済ませる朝食にトーストを一枚加えた。
いつもより少しだけ「行ってきます」と大きな声で家族に告げて家を出た。
いつもより足が軽い。
いつもはゆっくりと余裕を持って駅まで歩くのに、今日は無駄に小走りに走ってみた。
小石につまづいて転びそうになったけれど、なんとか体制を持ち直してぐっとこらえた。
「セーフ!」と心の中で呟くと前を向いて駅までの道のりを走った。
会社の狭いロッカーに着くと、大橋さんと大橋さんより年下の今年入社したばかりの女の子が楽しそうにおしゃべりをしていた。
新入社員の女の子と朝の挨拶をお互いに交わすとわたしと入れ違いに彼女はロッカーをあとにした。
「おはようございます! 秋元さん!」
「おはよう!」
今日も明るい笑顔で目を合わせる大橋さんの顔を見て、そのままじっと彼女の顔を見つめてしまった。
「……?」
少しすると疑問の表情を浮かべる彼女をよそに、わたしは他の事を考えていた。
やっぱり、大橋さんには話した方がいいよね。
鈴村さんとのこと。
大橋さんはもちろん、その前に早瀬さんにも話さないと。
もっと言うと加奈さんにだって。
修ちゃんだって、わたしの恋愛について気にしてくれていたっけ。
わたしはまだ、友人の麻衣子にしか報告が出来ていなかった。
電話の向こうで彼女にしてはすごく高いテンションで「おめでとう」って何度も言ってくれた。
言わなかったけど、麻衣子の震える声に、麻衣子が泣いてくれていたの気づいてたよ。
「秋元さん、見つめすぎです」
「えっ?」
「そんなにわたしのことが好きですか?」
「あっ、う、うん」
「否定してくださいよ!」
「えっと、え? なにが?」
大橋さんは「もーう、秋元さーん!」と言って笑いながら地団太を踏んだ。
その様子にわたしも今日も彼女は元気だなと思いながら自然と笑みがこぼれた。
しまった、他のことを考えて意識が別のところへ行っていた。
「あのさ、話……」
「話しがあるんだけど」、そう言いかけたところで大橋さんの視線がロッカーの入口へと向けられてその笑顔が次にロッカーへと入ってきた人物へ向けられた。
「おはよう! 山岸さん!」
「おはよう! あ。秋元さんもおはようございます」
ロッカーへやってきたのは山岸さんだった。
いつも出勤が早い彼女がわたしより後に会社にやってくるなんてことはじめてかもしれない。
「今日は遅いね」と話しかけようとしたところでその言葉は大橋さんに遮られた。
「ねぇ、決めた?」
「ううん」
「えー? どうして? 聞かなかったの?」
二人の会話にまったく入っていけず、着替えようと背を向けると大橋さんが「山岸さん結局クリスマスのプレゼント彼に何が欲しいか聞くことにしたらしいですよ」とわたしに教えてくれた。
あぁ、この間の話の続きか、と思った。
この会話はわたしが入ってもいい会話だよね。
山岸さんは仕事でクリスマスに会うことができない彼氏のために、プレゼントだけでも用意したいと言っていた。
「日曜日、会うって言ってたじゃん」
「それが……急に会えなくなっちゃって」
「え? マジ? ドタキャン?」
「うーん、そうなんだけど。でも仕方ないの。急な仕事だって」
大橋さんは不満そうに少しの怒り口調で「また~?」と言った。
またってことは過去にも同じようなことがあったってことだよね。
山岸さんは「仕方ないよ、わたしは気にしてないよ」と言って笑っている。
対照的な二人だけど、わたしはこの件に関しては山岸さんの気持ちが分かる気がした。
もし自分が同じ立場だったらと考えたら理由が仕事ならやっぱり仕方ないって思うし、怒ったり不満に思ったりなんてしない。
そりゃあちょっとは残念だなぁとは思うけど。
「クリスマスも会えないって言うし、あんまり仕事仕事って……ほんとかなぁ?」
「もう、またそういうこと言うんだぁ」
大橋さんはいつものように明るく「ウソウソ! 冗談じゃん!」と調子よく笑うと「おっと、今日お茶当番だった。お先に!」と言って慌ててロッカーを出て行った。
今の時間からでは、始業時間までにお茶の準備は整わないような気がするのだけど……。
山岸さんと二人、並んで大橋さんが出て行ったロッカーのドアを無言で見つめていた。
「彼氏とは結構会ったりするの?」
「え? あ、はい。あんまり約束して会うってことはないんですけど、時間ができれば連絡くれて会って……」
「そうなんだぁ」
「昨日は、付き合ってはじめてだったんです。その、会う約束をして一日デートするって。だから本当はちょっと残念でした」
そう語る彼女の横顔を見ると残念そうな感じが表情に表れていて、わたしの視線を感じた彼女が目を合わせると気を遣うようにしてほほ笑んだ。
「大丈夫?」
自然と出た言葉だった。
そう問いたくなるようなそんな表情だった。
「え? 何がですか?」
再びにこやかにほほ笑む彼女を見たら、わたしもなぜ「大丈夫?」なんて聞いてしまったのかが自分で分からなくなった。
「ご、ごめん……なんでもない。わたしが大丈夫じゃないかも?」
「あはは、秋元さん今日も面白いです」
いつも通りの山岸さんだった。
気のせいかな。
さっき一瞬だけ、わたしと目を合わせた時大きく瞳が不安そうに揺れた気がしたんだけど。
「代わりに、今日の夜会うんです」
「へぇ! そうなんだ。いいね、デート」
「あ、はい……」
「うらやましいな」
笑顔を向けると、ほんのり頬を赤くした山岸さんが俯いて「からかわないでください」と言った。
あの土曜日を思い出す。
わたしも終始こんな感じだったのかなって。
顔をもっと赤くして、下を向いて俯いてばっかりだったよね。
今度時間がある時に、山岸さんにもちゃんと話そうって思った。
そして一緒に恋の相談とかしあえたらいいなって、そう思ったら自然と顔がニヤけてしまい彼女に「どうしたんですか?」と不思議な顔をされてしまった。
この日の夜、自分の部屋で机に携帯を置き読みかけの小説を読んでいたらマナーモードの携帯が震えてワンコールで飛びついた。
メールだと思ったら、着信だった。
「もしもし!!」と気合いの入りすぎた声で電話に出たら、電話の向こうで「うわ! ビックリした」と驚きの声が響いた。
次からは、出来るだけ静かに電話に出ようと思った。
電話の向こうから聞こえた声に、自然と頬が緩んだ。
実際会って話しているわけではないのに、緩んだ頬は赤く染まっていく気がした。
「今帰りですか? お疲れ様です」
机の上に置かれた置時計を見ると午後九時をまわっていた。
メールのやり取りをはじめてからは日が経っているから分かる。
これでも、きっと彼にとっては早い帰宅時間だと思う。
鈴村さんからのメールの返信はいつも時間が遅かったから。
彼は年末だからとかは関係なくてたまたま忙しいと言っていた。
わたしの務める会社も男性は忙しい時期だと午前様、なんてこともあるみたいだけど……でもうちの会社は小さいし残業代も半分もつかないって聞いた。
鈴村さんの会社みたいに定時で帰れる日なんてものもないし。
『メールにしようと思ったけど電話の方が早いと思って』
「あ、あのわたしの送ったメールとか忙しかったら無視しちゃってくれていいですからね」
『どうして? あまり昼間は返せないけどどんどん送ってよ』
「でも、鈴村さんってあまりメール好きじゃないですよね?」
なんとなくだけど、好きじゃないと言うか……苦手っぽい気がするのはわたしの気のせいかな。
実際に会って話す彼と、メールだとまったく違う人物とメールのやりとりをしているかのように彼のメールは素っ気ないというか、簡素だった。
それでもわたしは全然いい。
だって本当の彼がどんな人なのかは全部ではないけど、少なくとも本人の優しさも温かい笑顔も知っているから。
鈴村さんはわたしの質問にメールはうまく意思が伝わらないからあまり好きじゃない、みたいなことを遠回しに言った。
『あ、でも、受信は好きだよ』
「そうですか……」
『本当に気にしないでね。返事なくても送ってくれていいし、出来る限り返すし』
「はい!」
『心ちゃんからのメールって楽しいし』
くすぐったくて穏やかな気持ちになる。
楽しいと聞いてふと、昼間に送ったメールを思い出して一気に慌てた。
恥ずかしい打ち間違いをしてしまっていたからだ。
「そういえば今日のメール、変でしたよね!?」
『え?』
「「おいしかったです」のつもりが「おいしかったどす」って……」
『あぁ、うん。なんか急になまってたよね』
「……」
何度も読み返してから送信しているんだけどな……。
電話の向こうでクスクスと笑っている気配を感じて、恥ずかしいけど嬉しいような複雑な気分になった。
『でも心ちゃん結構多いよね、文字の間違い』
「ほんとすいません!以後気をつけます……!!」
『ぜ、全然いいんだよ!?』
項垂れるわたしの耳元に「面白いし」と言った鈴村さんの声が響いて、その表情を想像したら胸の奥がぎゅっとなって身体が熱くなった。
きっと優しい瞳と言葉で無邪気な笑顔を見せて、穏やかな空気でわたしを包むんだ。
『あ、そうだ。肝心の要件なんだけど』
「あ、はい」
『次いつ会おう』
「……へ?」
『決めておいた方がいいと思って。その方が楽しいよね。どう?』
「は、はい!!」
嬉しすぎて、大人気なく興奮してしまい電話に出た時より大きな声で声を発してしまった。
『日にちなんだけど、急に行けないとか嫌だからな~』
「わたしが合わせます」
『ごめんね』
たぶん、仕事のことを気にして言っているのだと思う。
わたしはいつでもいいけど、鈴村さんはそういうわけにもいかないもんね。
『平日は水曜日なら絶対大丈夫。土日も今週は大丈夫。いつがいい?』
「いつでも大丈夫です!」
『そう、だったね』
鈴村さんが今笑っている理由はなんとなくはわかるけど、でも今この時は、自分が忙しい彼の予定に合わせられるくらい暇人でよかったって、心からそう思った。
『じゃあ一番近い水曜日にしよう、楽しみだね』
「はい、とっても!」
『じゃあ、そういうことで』
「はい」
会話が終わろうとした時、どうしても聞いておきたいことがあって「あの!」と言って切れようとする電話を止めた。
でもうまく言葉にならなくて。
何て言ったらいいのかが分からなくて。
『どうしたの?』
どうしたの?と聞かれても何も答えられなくて。
でも電話じゃなきゃ、絶対に聞けないことだった。
面と向かってはとてもじゃないけれど、聞けることではないと思った。
「あの……わたし……、鈴村さんの、か、か…彼女ってやつなんでしょうか……?」
彼女という馴染みの薄い単語に動揺して語尾に行くにつれて声が小さくなった。
言葉を伝えたあと耐えがたい恥ずかしさが身体の内側から爆発するように襲ってきて倒れそうだった。
わたしのぎこちない言葉がうまく通じなかったのか鈴村さんは電話の向こうで無言になった。
「ど、どうしたんですか?」
『え? あぁ、いや。照れてる心ちゃんの気持ちがものすごい伝わってきて、なんだかこっちまで恥ずかしくなったんだけど……』
鈴村さんももしかしたら今、わたしのように顔と身体を熱くして汗を滲ましたりしているのかな。
一緒なのかなってそう思ったら、恥ずかしさと緊張でカチカチに固まった表情も次第に和らいだ。
『彼女とか彼氏とか、言葉にすると照れくさいけど心ちゃんは俺の彼女だよ』
和らいだ表情はそのまま崩れ、鼻の奥がツンと痛んで目をぎゅっと閉じた。
不覚にも泣きそうになって声が震え、必死に隠そうと大袈裟な深呼吸をした。
鈴村さんの「俺は心ちゃんの何なのかな?」という少し意地悪な質問に、「彼氏」なんて夢のような縁のなかった単語、とてもじゃないけど口にすることは出来なかった。
感動に震えるわたしを察した様子の鈴村さんが「今すぐに傍に行ければいいのにな」と呟くのが聞こえて、嬉しくて、そしてわたしの気持ちは十分に伝わっているのだと思って安心した。
早くまた、会いたいよ。