第22話 嬉し涙
鈴村さんは以前情報番組で見た人気コンビニスイーツのランキングにランクインしていた、モチモチした食感が特徴の菓子パンをいつもコンビニに行くと購入すると言っていた。
今日も買っていた。
「甘いもの、好きなんですか?」
さすがのわたしも時間が経てば少しずつ彼との会話も一緒に過ごす雰囲気にも慣れてきて、先ほどよりはマシな会話ができるようになっていた。
自分から質問が出来るようにもなっていた。
「うーん……どうかな。好きってわけじゃないけど疲れた時とかは意識して甘いものとるようにしてるけど」
「そうなんですね、お仕事大変なんですね」
「え? あ、別にそういうわけじゃないよ。……なんか今の発言はものすごい疲れてる人みたいだったよね」
「そんなことないです」と言いながら頬を緩める。
トクトクと胸の奥底でときめくように高鳴る鼓動を感じながらやっぱり頬を染めた。
たぶん今日のわたしは一日中、顔が赤い。
「菓子パンってそんなに好きじゃないんだけど、このパンだけは大好きで今週も会社で五回は食べたかも」
「た、食べ過ぎ!? おやつにですか?」
「うん、あとお昼代わりとか」
鈴村さんの会社にはわたしの小さな会社とは違ってちゃんとした立派な社員食堂があるみたいだけど、
お仕事が忙しいとそこへ行く時間もとれなくて自席でコンビニで買ったパンとか栄養補助食品を片手に仕事をする人が多いみたい。
そういえば早瀬さんもメールのやり取りのなかで同じようなことを言っていた。
冗談で「心ちゃん、お弁当作って!(笑)」なんてメールが送られてきたこともあったっけ。
「早瀬さんもコンビニの冷たいおにぎりばっか食べてるって言ってました」
「あはは、たまに朝、早瀬と会社近くのコンビニで会うよ。それでいつも『また今日もそのパン買うのか!』って言われてさ。ほっとけよって思う」
「あはは!」
「心ちゃんはお昼いつもどうしてるの? 外とか出たりするの?」
「いやいや、そんなオシャレなことしないです。空いてる会議室を使ってお弁当食べてます」
「手作り?」
「はい! あー……母親の手作り、ですが」
「だよね、朝は忙しいよね~」
ここで「毎日自分でお弁当作ってます」って言えたら胸を張れたんだけど、いい歳して母親の手作り弁当を毎日持参しているわたしには無理だ。
料理だって時々母親の手伝いをするくらいで自分一人で作ることなんて実家暮らしだとほとんどないし、何もかも甘えてばかりだ。
今度一度、自分で会社へ持って行くお弁当を作ってみようかな。
いきなり毎日は無理でも少しずつでも。
「早瀬とは、よく会ったりするの?」
「いえ。この間が二回目でした」
「そうなんだ」
「最初二回目会おうとした時、早瀬さん小さな事故で腰を強打して立てなくなっちゃって……」
「なにそれ、面白いな」
「改めて会おうってなった時に、大橋さんを連れて行ってもいいですかって聞いたらいいよって言ってくれて」
「それが、この間?」
「はい」
この間、鈴村さんが現れた時は本当にびっくりしたな。
改めてあの衝撃の瞬間を思い出していると鈴村さんが、早瀬さんとのことについて質問を続けた。
「じゃあ、また予定合わせて会ったりするの?」
「え?予定はないですけど」
「そっか、でも元は二人で会おうとしていたんだもんね」
「……?」
話しはどんどんと進んでいく。
鈴村さんも変わらず穏やかな様子で、正面を向いたその視線の先には公園で遊ぶ子供たちが映っていて瞳がその子供たちを追っているように見えた。
わたしは一人、不自然に何か胸に引っ掛かるものを覚えた。
「……そういえば昨日さ、」
「あの」
話題を変えようとした鈴村さんの話を止めて、話を元に戻した。
「わたし、若干引きこもりで」
「……へ?」
何を言っているんだろうと堪らなく恥ずかしい気持ちになったけど、これだけは言っておかないとって思ったんだ。
「暇? って聞かれればいつでも暇ですって答えちゃうような、ちょっと残念な人間でして……」
「……あ、うん。そっか」
明らかに反応に困っている。
というか、いきなり「引きこもりです」なんて告白されても返事に困るよね。
若干の後悔は残しつつもわたしは話しを続けた。
「早瀬さんはそんなわたしを応援してもっと外へ出そうってしてくれてたんです」
「へぇ、早瀬が。そういうの好きそうだよね」
「だ、だから、いい人だなとは思うけど、あの、二人で会ったりするような仲じゃ……!」
わたしは男の人と二人で出掛けるなんて経験ほぼ無かったから、とても特別なことのような気がして。
たしかに早瀬さんと二人で会おうとはしてたけど、決して特別な意味はなくて。
じゃあなんだったんだって聞かれると、引きこもってばかりの自分を変えるためでもあるし、実際早瀬さんにもう一度会いたかったってもあるけど……
あぁ、なんだか自分の言葉だけじゃなくて思考の中までぐちゃぐちゃになってきた。
「あの、心ちゃん? 別に俺責めたりとか……」
「で、ですよね!? な、何わたし、ムキになっちゃってるんだろう!? は……ははは」
「あ……」
「……」
やっと顔を上げて少しはマトモに会話が出来るようになったのに、また逆戻りだ。
恥ずかしさだけが自分の全身を支配したようになってただ顔を赤くしてまた俯いてしまった。
特別なのはあなただけだ。
急に、無性に、この想いを伝えたくなって暴走しそうになってしまったんだ。
「さっきの話に戻るけど」
「……え?」
「そうやって俯いて……どんどん顔を赤くするのって、普段通り?」
鈴村さんの言葉に「前を向いた方がいい」と言った彼の言葉を思い出し顔を上げ、彼の質問に「そんなわけない」と心の中で反論して歯を食いしばって首を横に振った。
こんなにもわたしを緊張、動揺させるのも、顔を真っ赤にしてドキドキさせるのも、もう一人しかいない。
苦しいよ。
空はこんなにも穏やかに晴れて、肌に触れる風さえも気持ちがいいと感じるほどなのに、わたしの胸は押し寄せるように溢れだしそうな想いで胸が詰まって苦しかった。
今再び俯いたら、もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
何の涙だろう?
数々の失言、失態をさらしてきて、さらに泣き出したりしてしまったら……。
それだけはなんとしても阻止しなきゃって思った。
「うぬぼれだったら恥ずかしいけど、特別だって思ってもいいのかな」
その言葉に、もうこの際思いっきり頷いてしまいたかった。
でも今は頷いて俯いたら一緒に、溢れる想いが止まらなくなってしまうから。
だから僅かに震える唇をかみしめてじっと正面を向いて膝の上で手をぎゅっと握りしめていた。
急に、公園内が静かになった。
いつの間にかさっきまでいた何組かの家族連れの姿は消え、若い男女の笑い声も静かになった気がした。
そう錯覚していただけかもしれない。
でもわたしの耳には鈴村さんの声しか届かなかったんだ。
隣で、小さくすぅっと息を吸い込む音がして止まった息の次に言葉が発せられた。
「あのさ、いいかげんに目を合わせてくれないかな。ずっと見てるんだけどな……」
「……えっ!?」
「ごめんなさい!!」と蚊の鳴くような上擦った声で謝った。
彼と目を合わせると、嬉しそうにはにかんだ笑顔へと表情を変えいつもより一層眩しく輝いて見えた。
「今日、こんなこと言うつもりなかったんだけど」
隣同士に座って目を合わせていつもだったら逸らしてばかりいたその視線からも、この時ばかりは逸らすことが出来なかったんだ。
鈴村さんは穏やかな表情のまま照れたように数回瞬きをすると下唇を軽く噛んで一度小さく頷いた。
「俺、心ちゃんのこと気になってるんだ。……ずっと」
「……ずっと?」
震える声を発したら、視界までもが震えてぼんやりとしてきた。
「うん、ずっと」
再び「ずっと」と告げた彼のまっすぐな瞳がわたしを捕える。
「きっと、出会った頃から」
鈴村さんの言葉と同時に、出会った頃の出来事が脳裏を走馬灯のように駆け巡った。
雨の日に傘も持たずに、本当は今にでも泣き出したい気持ちをぐっと抑え込んで一人寂しく休日で賑わう駅前を歩いていた日だった。
わたしは鈴村さんのおかげで冷えた身体は借りた傘でそれ以上雨に濡れることはなかった。
真っ暗に曇っていた心は鈴村さんの優しさのおかげで再び光を取り戻した。
あの日わたしが彼にしてあげられたことが一つだってあっただろうか。
視界の片隅にぼんやりと映った青色に目を向けると、鈴村さんの横にベンチに立てかけられたブルーの傘の先っぽが見えた。
「あの日はよくしてもらってばっかりで、わたしは何も……」
「ずっと俺のこと濡れないようにって気遣ってくれてたよね」
「そ、それはだって……傘の持ち主が濡れちゃったら変じゃないですか」
「本当に偶然だった。たまたまあの日傘も持たずに歩いている心ちゃんを見つけて、でもなんだかとても悲しそうな顔をしてたね」
「あ……」
「別に普段は俺おせっかいとかじゃないんだけど、気になって。雨に濡れて傘を貸しても俺が折り畳みを探してもたついてる間、気づいてた?」
「え?」
「雨に濡れて寒さに震えて、それでも必死に小さな身体で腕を伸ばして申し訳なさそうにしていて、その姿がとても可愛く見えて」
「からかわないでください……」
「あ、ごめん。でもからかってはないんだけど」
鈴村さんは微かに照れた笑いを顔に浮かべると、続いて二回目に会ったこの公園での再開のことを語り出した。
「驚いたよ。時々ふと心ちゃんのこと思い出していたから、余計に」
「え……」
「あの時はすごく笑ってくれたよね」
「だって、楽しかったから……」
「それなのに傘を返したいって追ってきた時はまた、脅えたように自信なさそうに俯いて」
「だって、すごく緊張して……!」
「うん、ごめんね。たぶん、あと三秒遅かったら俺が心ちゃんのところへ戻っていたと思うんだけど」
鈴村さんの表情から笑顔は消えていて、でもわたしを映すその瞳だけは出会った時から変わらず優しい。
「だから今度は俺から言わせてよ」
「……え?」
「三度目に会った時、自分の想像通りの人だって知って確信した」
「あぁ、俺この人のこと好きだなって」
なんだろうこの感情。
「優しくて健気でいつも一生懸命で、それを周りに認められなくても卑屈になったりしないで」
「そんなこと、全然……卑屈になってばっかです」
「ううん。なんて綺麗な心をしている人なんだろうって思った」
「名前が心ちゃんで、さらに驚いた」
なんだろうな。
例えるならまるで、友人の結婚式に出席した時みたいな感情。
大好きな友人たちが純白のドレスに身を包んで幸せにそうにほほ笑む姿を見て、わたしは何度も涙を流してきた。
「うん。……やっぱり好きだよ、心ちゃん」
空を見上げた。
昔から涙が出そうになった時は空を見上げた。
でも明るい太陽の光が眩しくて目を細めたら、細めた瞳の淵からこぼれ落ちるようにして涙があふれ出した。
嬉し涙なんて、他人のために流すものだと思っていた──。
ポロポロと静かに涙を流すわたしをじっと見ている鈴村さんの視線を感じる。
「ごめん、どうしたらいいのかわかんないんだけど……」
涙のフィルターでぼやける視界の先に映る鈴村さんの表情は、困ったような発言をしながらも優しい瞳でわたしのことを見ている。
わたしの頬に彼の伸びてきた片手の指が控えめに一度頬に触れた。
そして頬を包むような大きな手が頬を撫でるようにしてわたしの涙を拭った。
少しだけくっきりとなった視界に人懐っこく笑う彼の表情が映った。
「ハンカチ、持ってなくてさ」
「これが本当の手拭い……?」
「な、なんだって!?」
一度ぎゅっと目を閉じたら絞り出すようにして出た涙がこぼれた。
でも、もう一度目を開けた時はきっと、今までで一番幸せな笑顔を見せられたって思うの。
嬉し涙を流させるのも、幸せいっぱいの笑顔を引きだしてくれるのもこの人がはじめてだ。
心の中がポカポカと温まるようだ。
出会った頃から、寒くて暗かったわたしの心を、あったかい光で照らすようなそんな存在だった。
こんな夢見がちな子供みたいな台詞、とてもじゃないけど言えないからこの気持ちを全部ひっくるめた言葉だけは絶対に伝えたいって思った。
「わたしも……はじめて会った時から、ずっと好きでした……!」
生まれてはじめて言葉にできたその言葉に一人勝手にまたこみ上げてくるものを感じて涙がこぼれた。
鈴村さんの「手拭い」はわたしの涙でびちょびちょに濡れてしまってもう使い物になる状態ではなかった。
でもあったかい笑顔と頬に触れる温かい手がわたしの心を刺激してあっためて、やっぱり自然とすぐにわたしの表情も笑顔になる。
生きていれば心に残るような特別な思い出が積み重なっていくものだ。
この日の思い出は過去も未来も他のどんな思い出よりも深くわたしの心に刻まれて一生輝き続けることだろう──なんてね。
でも、そうだといいな。
【光 -ひかり- 第三章 終】