第17話 ふたりきり
右方向に全精神が集中する。
視線を感じても目を合わせることもできないで、でもこのままじゃダメだって思って先に口を開いて言葉を発したのはわたしだった。
「あの、ごちそうさまでした!」
「え?あぁ、早瀬に払わせておけばいいよ。俺は何も……」
「そ、そうなんですね……」
さっきも伝えたけれどあとで早瀬さんに改めてお礼を言っておかなきゃと思った。
今日はわたしも大橋さんも一銭もお金を払っていない。
「でも驚いたよ。なんだか、まだ信じられない」
「え?」
「今更だけど、急に慣れ慣れしくなかったかな?なんか、すいません……」
「え?いえ、そんな全然……かまいませんこっちはまったく……」
「それなら、よかった……です」
二人きりになって急にお互いによそよそしくなった気がする。
鈴村さんは一度咳払いをすると再び隣から彼の視線を感じた。
「年下、だったんだね。一個だけだけど」
「年上に見えます?」
「そういうわけじゃないよ。ただ……名字以外何も知らなかったし」
「そ、そうですよね」
「あの、大丈夫?あまり緊張しないでね。こっちまでなんか緊張してくるんだけど……」
「ご、ご、ごめんなさい……!」
「謝らないでよ」と言って小さく噴き出すように笑う彼の顔を見ることができないけれど。
その表情を想像するだけでわたしの心臓はうるさく音を立てて全身が痺れるようなそんな感覚に陥る。
地下鉄の改札までの道を俯いて歩くのは、前からぶつかってくる冷たい風をよけるためなんだから。
でも本当は、熱くなった頬を撫でる風が気持ちが良いから前を向いて歩きたいのに、うまく顔が上がらないだけなの。
「そういえば早瀬とはどういう関係なの?」
「えっと、えっと……幼馴染の婚約者の友達が早瀬さんで……」
「で、俺はその早瀬の同僚。な、なんか、……すごいね」
「は、はい」
鈴村さんのすごいね、の言葉に頷く。
あの冷たい雨の日に偶然出会った人と、再びあの夕陽で真っ赤に染まった公園で再会できたのも奇跡みたいなものだったのに。
まさか次は、知り合いの同僚として再び会うことになるなんて……。
二人きりになったこの時間で何度目かの視線を感じて勇気を出して隣を歩く彼を見上げた。
目が合うと、少しだけほっとしたような笑みを浮かべた。
「何も知らなかったって言ったけど……でも、心ちゃんは想像した通りの人だった」
「……ど、どんなですかそれは」
鈴村さんは「うーん」と言って視線を外すと、再び視線を合わせてからかうようにしてほほ笑むと「秘密」と言った。
ゆっくりと合わせた視線をはずし見上げた顔を正面に向けると息を吐いた。
自然と手は胸をおさえて「落ち着け」と何度も心の中でうるさく高鳴る心臓に言い聞かせた。
「あのー。顔が、赤い気がするんだけど……大丈夫?」
「お、お酒です!わたし、弱くて……」
「あ、そっか。あんまり飲まなかったよね」
「やっぱり……」
「え?」
「やっぱりお酒は飲めた方がいいですか!?」
飛び出した言葉の勢いに任せて再び彼を見上げると、「別に飲めなくてもいいんじゃないかな」と言って軽く首をかしげた。
わたしが聞きたいのは、お酒が一緒に飲める女の子の方がいいかなってことだったんだけど……どう聞いたらいいのかが分からない。
「さっき一人で飲むって言ってたけど、そうなんですか?」
「うん。夏場とかは家で一人でプロ野球中継見ながら飲むのが好きで」
「……そ、そうですか」
「あ、今オヤジっぽいって思ったよね」
「そっ、そそ、そんなこと……!」
「いやでもね、俺結構飲みながら食べるしさ。このままだと確実に将来メタボになるから何とかしないととは思ってるんだけど」
「め、メタボって……あははっ」
「オヤジだしメタボだしいいとこないよね」
「あはは! 今はまだ大丈夫ですよ!」
「……今は、ね」
なんだか、この間も少し思ったけれど面白い人だ。
自分のことをオヤジだメタボだ、と言って一緒になって笑っている。
全然そんなことないのに。
鈴村さんはわたしのことを想像した通りの人だと言ったけど、鈴村さんはわたしの想像と違う面がいくつかあって…。
優しくて穏やかな雰囲気は今も変わらないけれど、もっとなんて言うのかな大人しいタイプの人だと思っていた。
休日は姪っ子と過ごしてのんびりしてのほほんと過ごしているような……勝手なイメージだけど。
でも実際はお酒も、禁煙したと言っていたけどタバコも……
はっ! 酒、タバコときたら……女?
そういえば、彼女がいるとかいないとかそんなこと考えたこともなかった。
「心ちゃん?どうしたの?」
「……は、はひぃ!?」
考え事の最中に名前を呼ばれ、声を裏返らせた返事をしてしまった。
「大丈夫?」と言いながらクスクスと笑っている様子が隣を振り向かなくても声色だけで伝わってくる。
あぁ……なんだか今日も、いつものことだけどうまく行かない。
「階段、足元気をつけてね」
「あ、はい」
話しをしているうちにあっという間に地下鉄の入り口まで来ていた。
階段を下りながら鈴村さんに「どこまで乗るの?」と問いかけられて自宅の最寄りの駅を答える。
鈴村さんが急に立ち止まったからわたしが一段先に進んだところでどうしたのかな、と思って振り返った。
彼は瞳をパチパチと瞬きさせて「すごい、ほんと……」と呟いた。
一段進みわたしに並び、口を大きく横に広げて歯を見せて笑うと「同じだよ、駅」と言った。
続けて「最初に会った駅も、次に会った公園も。もしかしたら家が近いのかなとは思ってたけどさ」と言って彼は階段を下って行く。
何なんだろう……
こんなに偶然や奇跡や……今日は何かな、神秘的? 違うな。
神憑り的なこと!? あぁ、よくわからないけれど。
こんなにも嬉しい偶然が次々と重なってしまったら、勘違いしてしまう。
もしかしたら、どこか何かが繋がっているのかなって……勘違いしてしまう。
動けずにその場に立ちつくしていると鈴村さんが振り返った。
「そうだ。連絡先、交換しておこう?」
「あ、はい」
そして続けてもう一言、口元と目元に優しくてあったかい笑顔を浮かべて告げた。
「土曜日、また会えるの楽しみにしてる」
「……はいっ!」
はじめてこの日、彼に向かって自然な笑顔でほほ笑むことができた。
この日携帯のアドレス帳に新規メモリが一つ増えた。
彼のアドレスを知った。
鈴村 蒼生。
彼の、フルネームを知った。
ただこれだけのことでも、死ぬほど嬉しかった。
――やっぱり。
もっともっと、彼のことを知りたいと思った。