第10話 夕焼け空
早瀬さんとの約束の日、午前中は雨だった。
午後から美容院の予約をしていたわたしが家を出る頃は降っていた雨も止んで、秋の澄んだ青空が広がっていた。
いつもより服を選ぶ時間は長かった。
メイクの時間は、どうだろう。多少は長かったかも。
髪は今から切って綺麗にセットしてもらうから、
片側だけどうしても治らない寝癖がついて毛先がハネているけど気にしない、いつものことだし。
家を出て今日は晴れていたから徒歩で駅まで向かった。
いつも駅前にある同じ美容院の同じ美容師さんを予約時に指名する。
ずっと伸ばしていたからいつもおまかせで全体的に軽くしてもらったり、整えてもらったりするだけだった。
今日は一つ注文をしようと思う。
ずっと伸ばしてきたけど、久々に短くしようってそう決めてきた。
ちなみに、今更失恋したからって切るわけじゃないんだよ。
わたしの失恋なんてもう、ずっと前から分かっていたことなんだから。
ただ、もうマネをするのを止めようって思った。
どんなに憧れて羨ましくても、わたしは、その人にはなれない。
やっと分かったのかな。
あれ、結局髪を切る理由……失恋になるのかな、これって。
美容院が目前に迫った時、バッグの中の携帯が鳴った。
早瀬さんからの着信だった。
「もしもし?」
『心ちゃん!! ごめん!!!』
「ぅわあっ! び、びっくりした…」
耳元にあてた携帯から急に大きな声が聞こえて驚いて声を上げてしまった。
なんでも。
午前中、洗車中に足を滑らせて乗っていた台から落ちて腰を強打して、今立つことが出来ないらしい。
ものすごくお気の毒な話だったけど……「大丈夫ですか」と心配をする声をかけながらもなんだかちょっと笑ってしまいそうになった。
「あー、わたしのことは、もうそんなの全然気にしないでください」
『今度は必ず今日の謝罪も意味も込めて…』
「フルコースでいいですよ?」
『何の!?』
「あはは!冗談です」
もう一度「お大事してください」と彼に告げ電話を切った。
何度も謝られてこっちがなんだか申し訳ない気持ちになってきた。
仕方ないよ、だって立てないんだもん。
「……ふぅ」
自然とため息が漏れた。
携帯を見ると美容院の予約の時間ぴったりになっていた。
目前に見えている美容院まで小走りで走った。
午後三時に予約していた美容院はこの日とても混んでいて、
カットするだけなのに、二時間もかかった。
今は毛先に重みのあるボブが流行りらしい。
美容師さんにそう説明され雑誌を見せてもらったら可愛いモデルの子が美容師さんの言うその髪型をしていた。
自分がこの髪型にしても、このモデルさんのようには決してなれないってことは分かってるのだけど。
分かってるんだけど……なんだかなれそうな気がして、いつも髪型を変える時は雑誌のモデルさんを見て、髪型を決める。
肩より少しだけ高い位置で切りそろえられた髪は、いつも片側だけハネていたけど今はちゃんと右も左も内巻になっている。
美容師さんも自然に内巻になるように切ったと言ってくれた。
いつもそう言ってくれるけど……これきっと明日になったら絶対に片側だけハネる。
でもさっぱりして、気分もなんだか変わった。
大人っぽくなった気がする。
……って、いい歳した大人が何言ってるんだか。
美容院を出ると、せっかく髪も綺麗にしてもらってるし、この後の予定がなくなって一人で買い物でもして帰ろうかと思った。
でも暮れ始める空を見たら暗くなる前に帰ろうってそう思って、家の方へと足を向けた。
家に向かう途中で通り道にある公園に差しかかった時、元気に走り回る子供たちの声が聞こえてきた。
自分も昔、よくこの公園で遊んだっけ。
赤とんぼが舞う夕陽で赤く染まった公園を見て、なんだか懐かしい気持ちになった。
公園を外から覗いていると数組の親子が手をつないだり、母親がベビーカーを引いて公園から出て家へと帰って行く。
公園の中のベンチが空いたのを見て久しぶりに公園の中に入ってベンチに腰を下ろしてみた。
まだ数組残る母親と子供たち。
目の前にある砂場で遊ぶ子供たちはたぶん小学校入学前の五、六歳くらいかな。
そういえばと、大学の卒業を前に妊娠をして結婚をした友人がいることを思い出した。
ずっと会ってないし、時々子供の写真つきのメールが届くくらいの付き合いしか今はできていないけど、ふと彼女のことを思い出した。
毎日一緒に笑って楽しい学生生活を過ごしていた彼女がもう、あんなに大きな子供のお母さんなんだなって思ったら、少しだけ寂しくなった。
冷たい風が頬を撫でる。
秋の気候は昼間こそ過ごしやすい気候だけど、夕方になると急に冷える。
特に、髪を切って開いた首元に冷たい風が染みる。
空を見上げると真っ赤に鮮やかに染まった夕焼け空が広がっていて、
あんなにも空は暖かい色をしているのに、肌を撫でる風は冷たくって、もうすぐ冬が来ると思ったらなんだか物悲しい気持ちになった。
今日だって少しの勇気を出してみたけど、見事に不発だったし。
なんだか色々、うまくいかない。
俯くわたしの視界に、しゃがみ込んでわたしを見上げる無垢な瞳が目に入った。
小さな、五歳くらいの女の子だった。
「こんにちわ」
「こんにちわ!」
わたしの挨拶に無邪気に元気な声を発して、瞳を目一杯にぎゅっと瞑って照れくさそうにして笑っている。
可愛い……。
もう恋愛も結婚もしなくていい、相手もいらないから子供だけ欲しいな。
そんな危険な考えをしてしまうほどに、目の前に突然現れた女の子は愛らしくて可愛かった。
「みずほ~そろそろ帰るよ~」
男性の声に反応して振り向くと、ちょうどその方向は夕陽の光が男性を背中から照らして眩しくてよく見えなかった。
次第に近づく足音と、女の子の「まだあそびたい!」の声。
視界に入った男性の姿に、無意識のうちにわたしは腰を下ろしていたベンチから立ち上がっていた。
現れたのは、あの時と同じ笑顔だった。
「俺、そろそろ帰りたいんだけどな」と言って優しい笑顔で女の子の頭を撫でている。
わたしの視線を感じてか、こちらに振り向いて目を合わせた彼の口元が「あっ」と声を発っすることなく形だけを作った。
「お久しぶりです。あ、えっと……僕のこと、覚えてますか」
「はい、……覚えています」
少し嬉しそうに照れたようにほほ笑むその笑顔も、声も、優しい瞳も全部。
忘れるはずもない。