一人称が「我輩」の教師にろくな男はいない
「先生。私、思うんです」
「何かね」
「一人称が“我輩”の男性に、ろくな人間はいないって」
「それは、我輩に対する当て擦りかね?」
まるで面白い冗句でも聞いたかのように嗤って、男は、ふうっと煙を吐き出した。長い手指が弄ぶ煙管に刻まれた、複雑怪奇な魔術式。魔法量子力学の教師である彼オリジナルの式で、結局、一文字も解読出来なかった。そのことを、少しだけ寂しく思う。
ああ、窓を開けたい。この研究室にいつも立ち込めている甘い香りが、より一層濃くなった気がするから。
あの煙管に詰められているのは、魔力に満ちた薬草を細かく刻んだもの。だから副流煙にも害はない。そう言って、ふざけて煙を吹きかけられたことだって、何度もあったのに。今ほど、この香りを煩わしく感じたことはなかった。
服に、髪に、染みついたらどうしよう。この甘ったるい香りは、彼そのものなのに。
私の身体の、外といわず中といわず、すべてに染みついて――魂にまで染みついて、この男を忘れられなかったら、どうしよう。
泣きたいような笑いたいような気持ちで、私は首を横に振る。
「いえいえ、まさか。心から敬愛するクソ恩師に、当て擦るだなんて。ああ、でもどうでしょう。もしかしたら、やってしまったかもしれません。私は今、無性に腹が立っているので」
「ほう?続けたまえ」
余裕しか感じられないその横顔を、全力で引っ叩いてやりたい。いや、人生で一度くらい、拳でいってもいいかもしれない。
厳しい淑女教育なんて、結局のところ、何の役にも立たなかった。だったら全部かなぐり捨てて、明日の燃えるゴミにでも出してしまおうか。
そして「もう何もないの」と、この男に泣いて縋ったら――何かが変わったりしないだろうか。
そんな馬鹿げたことを考える自由すら、これからの私には許されない。
「人類の半分を巻き込んだのは、さすがに主語が大きかったですね。訂正します。“一人称が我輩の教師に、ろくな男性はいません”――実際、ろくでなしのクソ教師ですよね。先生って。私の家庭環境を、知らないわけじゃないでしょう?」
「確かに、我輩の耳にも入ってきたとも。何だったかね?ああ、そうそう。――女伯爵だった母親が死んだ途端に、入婿の父親が、愛人とその女に産ませた異母姉を連れ込んで、見事なまでに虐げられし悲運の伯爵令嬢(笑)」
「最後の(笑)やめてもらっていいですか。普通に困ってたんですよ、私は。その状況にも。その状況の私を、構わず助手として顎で使い倒してくれた、どこかの魔法量子力学の教師にも。オールファッキンくそ食らえ、ですよ」
マナーの教師に聞かれたら、鞭打ちの上、テキストの書き写しを何十ページも課されるだろう。そのくらい、ひどい恨み言だった。
なのに、言葉で中指を立てられた先生は、何が面白いのか、小刻みに肩を揺らして笑っている。助走をつけて殴りたい。
こっちは実際に書かされた苦い記憶が蘇って、気が滅入っているのに。あれは異母姉のやらかしの尻拭いの中でも、上位に入る苦行だった。
指の痛みに泣きながら、必死にテキストを書き写して。ようやく終わったと思ったら、お決まりの「返して!」で奪い取られて。
いつだってそうだ。あの女はまるで、私が先に奪ったかのように振る舞う。私は、誰かから何かを取ったことなんて、一度もないのに。だから私には、何もないのに。
もしも私が、まだ何かを持っているとするならば。それはきっと――
「素晴らしい!イカれた語彙力ではないか。君、文筆家でも目指したまえよ。魔法の才能は、君には微塵もないのでね」
「じゃあ何で、そんな私を助手として使い続けたんですか。卒業試験の結果を、盛りに盛ってまで。道理で、最後まで雑用しか出来なくて、すみませんでしたね。まあ、その無才がとうとう父にバレまして。それに見合う無能な夫を宛てがわれたので、本日めでたく家を出されました――私ね。今から、遠くに嫁ぐんですよ」
だからここ、退職します。あ、これ、卒業後何年も雇っていただいたお礼です。私の気持ちの表れですから。買い置きの棚に、置いておきますね。
そう言って、一番安かった輸入品で「口に入れていい味ではない」と噂の、珈琲豆の袋を置く。
これでも飲んで、苦しめばいい。あまりの不味さに顔を歪めて、何年経っても、時々苦々しく思い出せばいい。
この珈琲のひどい味を。そして、そんな物を最後に置いていった、気の利かない助手だった女のことを。
ああ。でもこの珈琲豆を、一体誰が挽くのだろう。私に代わって、次は誰が、あのちょっと変わった形の手挽きミルのハンドルを回すの?
新しく雇った、私より若くて可愛い、素直な助手の女の子かな。
――やっぱり一発。いや、せっかくだから二、三発。ぶちかましてから、嫁に行こうか。
拳を握る私とは対照的に、先生は、煙管を持つのとは逆の手を開いて、大仰に振って一席ぶった。私以外、ここには誰もいないのに。まるで、舞台に立つ役者みたいに。
「かくして伯爵家の乗っ取りは、見事、大成功の大団円!さながら歌劇のようだと思わないかね。ああ、なんという喜劇。いや、当事者の君にとっては、純然たる悲劇かな?実に悩ましい筋書きではないか」
「はあ。もう、どっちでもいいですよ。私の明日は変わらないので。そういうわけで、大変お世話になりました。地獄に堕ちろ、クソ恩師」
相変わらずのろくでなしっぷりに、半分くらい笑ってしまう。もう半分は、安心していた。
良かった。最後に期待した通り、人の心とかなさそうな、ふざけた姿をこの目で見られて。これできっと、嫌いになれる。一年後か、五年後か。それが無理でも、十年後には。
でないと、ここから先は地獄だもの。愛してもいない夫に、残りの人生いっぱい尽くすなら。もういっそ、それしか考えられない方がいい。
叶わなかったこの男への恋心は――いつか必ず、捨ててみせよう。
「まあ、待ちたまえ。若者は気短でいけない。我輩はまだ、君が何に対して腹を立てているのか、聞いていないではないか。……あ、生理だったらマジでごめんね」
「違うよ。死ねよ。……わかるでしょう?無力な自分と、無神経なクソ教師に対してですよ。何ですか、若者って。先生だって、まだ二十代の若輩者のくせに。あーあ!ほんのちょっとでも期待した私が、馬鹿でした。それでは永遠に、さようならっ」
発言に緩急をつけるのは、本当にやめて欲しい。気が抜ける。情緒が、揺れる。
頑張って親族にも国にも窮状を訴えたのに、誰にも話を聞いてもらえなかった過去。そして、死にかけていた私の喜怒哀楽の感情を、強引に引き出した先生との、数年にわたる様々な思い出。
それらが一気にぶわっと浮かんで、それから涙もぶわっと浮かびそうになったので、私は適当に言い捨てて、急いで研究室のドアに向かった――でも、出られなかった。
カァン!と、強く煙管を灰皿に叩きつける音がして、反射的に振り向いてしまったからだ。
ろくでなし。クソ教師。と、私が何年も可愛げなく罵ってきた男は――これまで一度も見たことがないような、真剣な表情をしていた。
「出て行く前に、答えたまえ。君は一体、何を期待していたのかね。我輩の助手を続けること?愛人とその娘を、あの家から排除すること?それとも父親すら廃して、自分が次の伯爵になることかね?この際だ、はっきりさせようではないか」
「――私は。私はただ、先生が。少しでも、私との別れを惜しんでくれたら、それで。どうせ、もう、どうにもならないもの。でも先生は、さっきから全然――この鞄だって、気にもかけてくれないし」
途切れ途切れにそう言って、私は小さな旅行鞄の持ち手をギュッと握りしめた。当座の着替えと、身の回りの物が少しだけ。それが伯爵家においての、私の価値だった。
大切な物なんて、もう何一つ残っていないから。実質、これには何も入っていないのと同じ。
別に、同情を誘いたかったわけではない。けれど、普通なら触れずにはいられないくらい、寂しく惨めな私の旅支度を見て――先生が何と言うかは、正直ちょっと、気になっていた。
「嫁入り道具という名のゴミすら、入っているかも怪しいその鞄かね。可燃物の回収は明日だから、学院のゴミ置き場にでも捨てて行きたまえ」
「私にこのまま死ねと仰る?嫁ぎ先に向かう、乗合馬車の切符も入ってるんですよ。ほら、これ。地獄への片道切符です。先生でも、本物は初めて見るでしょう?」
鞄からわざわざ取り出して見せたのに、先生はそれを一顧だにしなかった。どころか、急に立ったまま目を閉じて、ブツブツと何事か呟き始める。え、ちょっと。
思わず「先生?」と声をかけようとした、ちょうどその時。研究室のドアが唐突に、大きな音を立てて開いた。
「こんな所にいたのね!アンタ、何やってんのよ!?」
この世で二番目に嫌いな女である異母姉の姿に、私はうっかり、舌打ちしそうになった。いけない。燃えるゴミの日は明日だ。淑女教育は、まだ捨てていない。
ちなみに、この世で一番嫌いな女は当然、あの愛人。親子でワンツーだ。
ああ。ついでに血が繋がっているなんて信じたくもない父親と、三人まとめて、明日のゴミにでも出してやれたら。どれだけスッキリすることだろう。人間だもの。油をかけたら、燃えるでしょう?
「このグズが!向こうの家から催促の手紙が来たんだから、早く嫁に行きなさいよっ!」
「知りませんよ、そんなの。それに、どう考えても無理ですって。今日の朝に家を出されて、乗合馬車は午後の便なんですから。何をどうしたって、これ以上は急げません」
「口答えすんじゃないわよ!伯爵家には、アンタを売った金が今すぐ必要なのっ!ここまで育ててもらった恩を、ちゃんと全部返しなさい!」
この女に「返して!」と言われると、反射的に胸倉を掴んで、思いっきり揺さぶりたくなる。それはこっちの台詞だと、声を限りに叫んで、怒鳴りつけてやりたくなる。
だって奪ったのは、そっちなのに。私には、必要なものすら、満足に与えられなかったのに。それでも何一つとして、取ってなんかいないのに。それなのに――
「返してやったらどうかね?」
唯一、自分に優しくしてくれた先生にまでそう言われて、私は目の前が暗くなった。この男ですら、それを言うのか。
私が何かを奪ったと。だから、異母姉に返せと――彼もまた、そんな風に言うのか。
すっかり打ちのめされてしまった私を、ふわりと甘い香りが包み込む。思わず顔を上げると、ろくでなし教師はいつの間にか隣に立って、煙管を吹かしながら嗤っていた。
その蔑むような眼差しは、私――ではなく、対峙する異母姉に向けられている。
「こんなにも、返して欲しがっているのだから。全部、返してやりたまえ。責任も、義務も、負担も。君が要らないもの、すべて。返してしまって身軽になって、我輩と共に行こうではないか」
「先生」
地獄への片道切符。もとい乗合馬車の切符を、するりと私の手から抜き取って。彼は私が持つ小さな旅行鞄にそれを戻すと、そのままそっと、私の背中を押してくれた。
その手に、励まされるように。その動きに、導かれるように。
気がつくと、私は――小さくて、けれどやたらと硬い材質で出来た鞄を、振りかぶっていて。
「そういえば、まだ見ぬ夫も切符もこの鞄も。全部、奪ったような気がしてきたわ。だから!」
憎たらしい異母姉の顔面目掛けて、あらん限りの力で投げつけた。
「――お返ししますっ!」
ゴッ!という鈍い音が、室内に響く。そして、不本意ながらも半分だけ血が繋がった大嫌いな女は、声もなくその場に崩れ落ちた。
え、死んだ?と一瞬思ったけれど、よく見るまでもなく、ただ鼻血に塗れて気絶しているだけだった。
でもそこに落ちているのは、もしかしなくても、異母姉の歯――ま、まあ。必要なら魔法で治せるでしょう、たぶん。
「あ、先生。魔法といえば。さっき私の背中に触って、身体強化か何か、かけましたよね?」
「はて?一体何のことかね。若輩者の我輩には、皆目見当もつかないが――君もそろそろ、魔法量子力学の奥深さというものを知りたまえ」
「うわ、絶対使ってる。そして若輩者呼ばわりを、地味に根に持ってる」
私はさり気なく視線を逸らして、本棚に並ぶ大量の書籍のタイトルを、意味もなく眺めた。先生は放っておくと、すぐに机の上や、ひどいと床の上に、本を開いたまま放置するから。
その度に私が閉じて、分類通りにきちんと戻して、毎日埃だって払ってきた。それから珈琲を淹れて、彼の言動にツッコミも入れて。
そうだ。たかが雑用といったって、全部必要なことだった。だから先生は、私に「共に行こう」と言ってくれたんだ。
どこに行くかは知らないけれど。そこだって地獄かもしれないけれど。
それでも私は、彼と一緒の方がいい。自分で選んだ地獄なら、きっと納得できるもの。
先生が放った、たった一言。その誘いを耳にしただけで、反抗することすら諦めていたはずの異母姉を、私は手ひどく跳ね除けた。
今も、伸びて床に転がった無様な姿を、こうして平然と見下ろしている。
随分とまあ、ろくでもない女になってしまったものだ。これもある種の悪役令嬢、あるいは悪女と呼べるだろうか。
そして、私をこうした責任を取ってもらわないといけない、ろくでなし教師は。
「――構築完了。大陸間転送魔法陣、起動開始――」
先程からまた目を閉じて、中断した呟き、というかどうやら、呪文の詠唱を再開していたから。私はそれを邪魔しないよう、今度は大人しくしていたのだけれど。
(え?大陸間??転送って何???)
頭の中が疑問符でいっぱいの私と、彼を中心に。器用に異母姉の周囲は避けて、血のように赤い大型魔法陣が、研究室を覆い尽くす勢いで一気に展開した。
「先生?何ですかこれ?まさか本当に、国外への転送魔法陣?――いや、赤の大型って軍事用ですよね!?こんな高度な儀式魔法を、どうやって一人で。あの、ちなみにどこに飛ぶ気ですか?」
「我輩の実家」
「え」
「正確には実家の、我輩の私室だがね。女官ではない女性を通すのは、君が初めてだ。遠慮なく喜びたまえ」
魔法陣が放つ赤い光に照らされながら、混乱する私を見て、先生は煙管を燻らせ笑っている。
知らなかった。先生って、外国の出身だったんだ。それも、別の大陸の。一体どこの国だろう。
外国人教師なんて、排他的なこの国ではとても珍しいのに。何故今まで、噂にも上らなかったのか。
先生の見た目も名前も、この国ではごくありふれたものだから、誰にも気づかれなかったのかな――そう考えて、ハッとした。
おかしい。彼の言葉には、他国出身者がこの国の言語を話す時の、独特な発音の癖がない。いくら練習を重ねても、一人称と語尾にだけは、微かに残るはずなのに。
ああ、でも彼の口調は、少し変わっているから。それで上手いこと、誤魔化されて――どうにもならない発音の癖を、そうまでして相殺したの?どうして?
不自然なほど、この国で生まれた人間としか思えない名前。髪の色。目の色。そして言葉。なのに、外国出身だという男が、国が極秘で開発・管理・運用しているはずの、大型転送魔法陣を起動している。
ねえ。これって確か――我が国の軍事機密じゃなかった?
「ふむ。気づいたかね。悪くない洞察力ではないか。我輩は諜報、おっと。調査活動で入国した身でね。残念ながら、これまでの経歴はすべて、仕事が捗るよう作り上げた偽りだった――と言ったら、怒るかね?」
「髪も目も、魔法で色を変えていたんですか?名前も、今名乗っているそれは、本名ではない?」
「然り」
先生は、ひどくあっさり肯定する。そしてそのまま、じっと私を見つめた――この真っ直ぐな目の色が、嘘?
そんなの、とても信じられない。でも彼は、謝罪も訂正もしない。どうやら、ふざけているわけではなさそうだ。
なら、他は?他のことも全部、嘘だったの?
正直なところ、どうせろくでもない男だから、少しくらい真実と違ったって私は構わない。でも、どうしても譲れない点が、いくつか――
「せ、性格は?顔と、あと、年齢は?あんなに楽しそうだった、魔法量子力学の研究は?」
「それらは全部自前だね」
「――あ、じゃあいいです。その辺りが嘘でないのなら。怒りたい気持ちは、特にありません」
想像よりもずっと問題がなかったことに、心の底から安堵する。なんだ、良かった。ただの、我が国の軍事機密を盗んで流用しているだけの、外国の諜報工作員か。
まあ、このろくでなしのクソ恩師だったら、そのくらいは普通に有り得るだろう。さすがに少し驚きはしたけれど、十分想定の範囲内だ。そう思って、私はつい、笑ってしまった。
「ほら、やっぱり。言った通りじゃないですか。“一人称が我輩の教師に、ろくな男性はいません”でしたね」
「――君のその、急にアクセルをベタ踏みしたような思考と言動に切り替わる一面は、本当に興味深くて好ましいがね。我輩以外に見せるなという忠告は、今後も真摯に守りたまえよ」
私を魔動車の運転に例えた彼は、呆れ顔で煙管を揺らすと、溜息と共に紫煙を吐いた。私がこうなってしまうのは、先生が絡んだ時だけなんですが。知ってるでしょう?
「さてと。そろそろ我輩の荷物への魔印付けも完了だ。新たな地獄へ御招待といこうかね。ああ、切符は要らない。安心したまえ」
「ご実家を地獄と呼ぶなんて。もしかして先生も、私のお仲間でした?」
「いや?我輩はそこそこ楽しくやっていた。だが、軽く何千年も魑魅魍魎が蠢く、愉快極まりない伏魔殿なのでね。近頃は多少静かになったが。まあ、君も退屈しないのではないかね?」
どんな家だよ。と思わずツッコミを入れようとした私を、先生が片腕でグッと抱き寄せる。彼が纏う甘い香りが鼻腔をくすぐって、頬が一気に熱くなった。
間近で見る煙管に刻まれた魔術式は、相変わらず複雑過ぎて、まるで解読出来る気がしない。いつかは読めたらいいけれど。一文字でも、五文字でも。それか出来たら、十文字全部。
先生は、床に蛙のような姿でひっくり返ったままの異母姉を一瞥して嗤い、それからどこか試すような目で、私を見た。
「転送発動までの待機時間、残り三十秒。最後に何か、言い忘れた恨み言はないかね?必要なら、記憶を弄るついでに叩き起こすが」
記憶の書き換え――そうか。機密情報を入手して、何年も潜入していたこの国から、悠々と引き上げるのだから。当然、証拠なんて一切残さず、すべて抜かりなく手配した上での撤収だろう。
きっと先生はこの学院も、退職どころか、最初からいなかったことになっているはず。それは少し寂しいけれど、でも本人と一緒に行けるのだから、私は大丈夫。いや、むしろ――
「先生。それより私も最初から、この国にいなかったことになりませんか?出来る範囲でいいんです。ただどうせなら、お揃いの方がいいなって」
「何ともイカれた発想だ!語彙力だけではなかったと。だが、悪くない。種は埋め込んであるのでね。発芽させて行こうではないか。君、用意周到な我輩に感謝したまえよ」
そう言って、先生はとても満足そうに笑った。その顔を見ていると、なんだか私まで嬉しくなってくる。
私に優しくしてくれたのも、私を喜ばせてくれるのも、いつだって彼。彼だけだ。
父も愛人もそこの異母姉も、親族もそれ以外も全員嫌い。伯爵家も顔すら知らない夫も、国も学院関係者も、全部要らない。
私が知らないところで皆、没落したり滅亡したり、とにかく不幸になってしまえばいい。それを見届けたい気持ちすら、もう私には欠片もなかった。
「ありがとうございます、クソ恩師。何かお礼もした方がいいですか?」
「ほう?素晴らしい心掛けではないか。――ちなみに、この研究室の資料の山だがね。あちらに転送すると、面倒なことに、床一面に散乱する」
「うわあ……わかりました。私が片付けます」
「それは重畳。いやマジで。実によろしい。ならば、晴れて出奔と洒落込もうかね」
先生は煙管を咥えて深く吸うと、そのまま逆の手に持ち替えた。そして普段、煙管を持つ方の利き手の、中指と親指を強く擦り合わせて――パチン、と破裂音がした瞬間。
「転送発動」
赤い大型魔法陣が、さらに真っ赤に輝いて。私の視界のすべてを、鮮烈な血の色に染め上げた。
そして、伽藍堂になった研究室には。
額に半透明の花が咲き、すぐに枯れ落ち、消え失せたことにも気づかずに、失神したままの女一人と。小さな血塗れの旅行鞄一つと。
――わざと印を外された「口に入れていい味ではない」珈琲豆一袋だけが、残された。
「ふむ。無事に息はしている。健康状態は問題なし。となると、やはり睡眠不足か。覚醒まで二時間、といったところかね」
長椅子に寝かせた令嬢の口元に手を翳して自発呼吸を確かめ、男は愁眉を開いた。大陸を二つ飛び越える超長距離転送魔法が、あまり魔術適性があるとは言えない彼女に負担をかけたかと危惧したが、幸い杞憂であったようだ。
彼女が恐らく一睡もしていないだろうことは、最初から気がついていた。言動も情緒も、普段以上に不安定だったので。
(今朝方、家から出されたのであれば、嫁げと命じられたのは昨夜か。恋慕う「先生」との別離の悲嘆に暮れて、まんじりともせずに朝を迎えたと――ああ、可哀想に)
くつくつと肩を震わせて嗤う男は、端から彼女を手放す気などなかった。猶予期間は、もう終了したのだ。不自由な間諜の身で、それでも出来る限り、あれだけ発破をかけてやったのに。誰も彼女を救わなかったから。
入婿に鼻薬を嗅がされ過ぎて、最後まで動こうとしなかった、伯爵家に連なる親族たち。そして、令嬢からの痛切な陳情を握り潰した、腐り切ったあの国。――奴らには、この女の才能は活かせない。
ならば己が使ってやろう。大切に囲って、存分に甘やかして。泣いて縋ったとしても、けして逃がしてはやらない。
男は、案の定私室の床一面に散乱した、資料や書籍の山に視線を向けた。施した認識阻害魔法を解けば、あの中には複数の国の機密情報が紛れている。
それらの多くは難解な暗号で記されているが、伯爵家から連れ出したこの令嬢ならば、読み解くのは容易いだろう。それ程までに、彼女の言語に関する才能は傑出している。
以前試しに、この皇国でかつて使用されていた旧式暗号を解読させた時のことを思い出して、彼は肩を竦め、また嗤った。
匿名でくれてやった警告通りに痴れ者どもを廃して、この令嬢を女伯爵にしておけば。あの家が、国が、数年以内に歴史の闇に消え去る未来は、避けられたかもしれないのに。
「まあ、すべては今更だがね」
やれやれと首を振ったところで、騒々しい足音が複数、この部屋に近づいて来るのが耳に入って、男は思わず眉を顰めた。
音を立てて開かれる前に、こちらから扉を開けて室外に半身を出す。そして駆けつけた、見知った顔の近衛官たちに向かって、彼はスッと、人差し指を口の前に立てる仕草をして見せた。
『静かにしてくれ。中で妻が寝ている』
『つ、妻!?一体いつご結婚されたのですか、第四皇子殿下!』
『そのうちする。それよりも、大規模魔力が観測されたから、原因を探しに来たんだろう?事前に報告した通り、手に入れた大陸間転送魔法陣で帰還した。その魔力残滓だ。問題はない。兄貴たちにも、そう伝えてくれ。ああ、この伝言もな。“話は三時間後”だ。――俺は少し寝る。絶対に起こすな。マジで疲れてんだよ』
言いたいことだけ言ってさっさと扉を閉めると、近衛官たちは騒めきながらも去って行ったようだ。これで良し。起きた頃には「四番目の皇子が結婚して妻を連れ帰った」と、皇宮中の者が知っているだろう。外堀は埋まった。
長兄が神前式で祝詞奏上しようと禊をしたり、次兄が歌を詠み始めたりしそうだが、知らん知らん。三兄は――末っ子が先に結婚するな!と騒ぎそうだが、その対応は、三時間後の己に任せるとしよう。
魔力枯渇寸前の気怠い身体を押して、私室と内扉一枚で繋がっている寝室へと足を向ける。寝台から上掛けを剥ぎ取って、私室へ取って返し、長椅子で眠り続ける女に、そっと掛けてやった。
窺った顔色は、少し赤みが差して、先程よりも良化している。
僅かな懸念も晴れた男は、山積した荷物の中から灰皿を引っ張り出した。次いで、床の上の紙束を適当に足で退かすと、彼女が眠る長椅子の横に、座る場所を確保する。
そこに腰を下ろして、利き手に馴染んだ煙管を持って。火皿に残った薬草の残骸に顔を歪めた彼は、それを灰ごと、灰皿に叩き出した。
皇国産の五品種を混ぜ、極細に刻んだ煙草の葉を、箱から一摘み。丸めて入れる。煙管を咥え、指先に灯らせた火魔法で着火して、待望の本物の味と香りを、ゆっくりと吸い込んだ。
(あー…美味いな。堪らない。一仕事終えた後のは、マジで格別)
最高の一服を楽しみながら、男はふと思い立つ。
煙管に刻んだ増幅の魔術式を指でなぞり、魔力で上書きして、一部を書き換え反転させた。これで匂いと、受動喫煙の問題は解決だ。
眠る女を横目でちらりと見てから、舌で味わった煙を、ふうっと吐き出す。
それにしても、あの魔力を帯びた薬草の味は、本当にひどかった。
儀式魔法を一人で発動させるため、煙管を通して、日々増幅した魔力を身体に取り込み続けてきたが――いくら吸っても慣れることのない、人体が受け付けない次元にまで達した蘞味に、何度隠れて吐いたことか。
あれこそ、まさに「口に入れていい味ではない」の極地だろう。次点が、うっかり置いてきてしまったあの珈琲だが。
彼女の母国に潜入する前に滞在していた国の豆なので、当時、話の種として、一度飲んではみたものの。一口で無理と諦めて、残りは珈琲党の三兄に送りつけた記憶がある。
あの珈琲豆の袋が棚に置かれたのを見た時は、ちょうど激不味の煙管を吸っていたこともあり、思わず「君は、我輩に死んで欲しいのかね?」と口にしかけた。
心中ならともかく、己だけ殺されるというのは勘弁願いたい。愛した男のいない人生を、心を殺して生きられるほど、強い女ではないくせに。
「とはいえ、あれで我輩に幾許かでも爪痕を残そうとした、そのいじらしさは評価に値するがね」
弱くて、健気で、可哀想で、可愛い女。そして、このろくでなしな男が絡むと、途端にブレーキがぶっ壊れる、愛しい女。
彼女が育ったあの閉鎖的な国は、平民だろうが貴族だろうが、生まれた子には必ず首輪をつける。
生涯に渡って国に縛りつけ、厳正な管理下に置き続けるための――魔力で出来た、目には見えない厭わしい首輪。
それを強引に外すには、大規模な魔法をあえて少人数に行使することで、発生した魔力の余波を用いて、首輪を消滅させる以外に方法はない。
男だけなら、国外に出るための手段は、他に幾らでもあった。だが、惚れた女も連れ出したいなら、ああする他に打つ手はなかった。
(ただし、もう絶対に、二度とやらん。あの薬草の不味さは、マジでしばらく夢に出る。座右の銘が「死ぬこと以外は擦過傷」だから、何とか折れずに耐え切ったが――あとは、まあ。あの甘い香りは、悪くなかった)
彼女も気に入っているようだったから、今後あの草は、香炉で焚くことにしよう。手元の煙管からゆったりと、緩やかに立ち上る煙を眺めながら、彼はそう心に決める。
行き先が毎回ダーツ次第の、趣味と実益を兼ねた「諸国漫遊!諜報活動の旅」は、しばらく休止する予定だった。
兄たちから再三にわたり、いい加減帰国して公務を手伝ってくれと泣きつかれていたし、あくまで己の本業は、魔法量子力学の研究者だ。さすがに、そろそろ論文も書きたい。
それに何より、ようやく少しはマシな地獄に辿り着いた元・悲運の伯爵令嬢(笑)を、ゆっくり休ませてやりたい気持ちがあった。まあ、他国の機密情報の暗号解読はさせるが。
「まったく。君は実に運がない。散々奪われて、黙殺されて。挙句の果てに、頼った教師がこんなのとは!悪い男に目をつけられて、捕まって――君は前世で、一体何をやらかしたのかね?」
王子を誑かして、婚約破棄させただとか。病弱な幼馴染みとして、婚約者より優先されただとか。聖女を貶めて、国外追放させただとか。
ああ、異母姉にすべてを奪われ続けていたのだから、逆に「お姉様、ズルい!」と騒ぎ立てていたのかもしれないが。
完全に面白がる眼差しで彼女を見つめながら、男は静かに手を伸ばした。寝顔にかかる前髪を優しく払って、形の良い額を露わにする。
「誇りたまえ。君は、最初から正答を告げていた。先生が、花丸をあげよう。――たいへんよくできました」
額に、そっと丸を描く。触れる指先の感触が、この女をあの国から、確かに掠め取ってきたのだという実感を強くした。思わず肩が震えて、哄笑を噛み殺すのに苦労する。
その時、昏々と眠っているはずの彼女が、ほんの少しだけ微笑ったように見えて。
堪らず、男は額に描いた花の中心に、柔らかく触れるだけのキスを落とした。そして嗤う。
誘拐。略取。人攫い。何と言われたって返さない。
いや、ここはやはり――
「浪漫的に、“駆け落ち”ということにしておこうかね」
――大正解だ。
一人称が「我輩」の教師に、ろくな男はいない!
ところで先生、寝なくていいんですか。




