ポット出のアクマ
高い戸棚に手を伸ばすと、つかみ取ったレシピ集の一ページからひらりと一枚の紙が落ちた。キッチンの床、背伸びした足元にとまると、拾い上げる前に折り目が自然と開いた。
「なにこれ?」
紙には不思議な円形の紋様が描かれており、黒めの赤は少し不気味さを漂わせていた。気のせいだろうか。少しずつ紋様の赤が明るみを帯びているように見え始めた。観察しているうちにそれが紛れもない事実であると知った。
瞬く間に紋様は光を発し、小さな賃貸を満たした。なんとか目を開けてみると、紋様に何かが現れそうな影が見えた。何とかして塞がなければ、と思っていると手の届く範囲にちょうど重みのある無機質なポットがあるのを見つけた。手に取ったポットを影の上に置いて体重をかけるように押さえつけた。
どれくらい時間がたっただろうか。強烈な光は消えて静かな休日に戻っていた。ポットを押さえつけていた手を離すと、特に変化は無いようだった。
けれど、耳を澄ますとどこからかカタカタという音が聞こえてくる。目の前のポットはかすかに揺れて、中に何かが動いているようだった。
距離をとって様子見をしていると、突然上部の蓋が外れて、黒い塊が飛び出した。
「その体、ヨコセ!」
低く不気味な声とともに黒い塊がこちらに向かって飛んできた。思わず腰を抜かして倒れると、向かってくる何かになすすべなく目をつむった。
「…ん?」
なにも起こらないのでゆっくりと目を開けると、見たことない小動物がバタバタと羽を動かしてこっちに進もうとしていた。
けれど努力むなしく、バネに引っ張られるかのように小さな体はポットの方へ引き寄せられ、勢い余って壁に激突した。
「賃貸なんだけどなあ」
未知の生命体よりも建物の心配をしていると、立ち上がった小動物は訳が分からなそうにあたりを見渡している。
「どうなっているんダ?」
小動物は倒れたポットに歩み寄ると、小さな手でつんつんとつついては絶望したような表情をした。
「キサマ!なんてつまらないモノを依り代にしたんダ」
よくわからないまま怒られたがとりあえず「すみません」と謝ると、落ち込んでいる小動物に近づいて色々と探ってみることにした。
大きさは手のひらに収まるくらいのサイズ。ハムスターに近いだろうか、けれど色は紫交じりの黒で、体形は…二頭身といったところだろうか。大きくてとんがった耳とコウモリみたいな羽が背中に生えている。口と目はハロウィンのかぼちゃのランタンみたいに黄色くて、ぬいぐるみかと思ってしまう姿だ。何より特徴的なのは話せることだろう。本当に言葉を理解しているのかは置いといて、ひとまず会話してみることにした。
「君は何者?」
「しらねーヨ」
「どこから来たの?」
「さあな。まずここどこだヨ」
小動物はうんざりしながらこちらを見ている。
「じゃあ、オマエは誰なんダ?」
「えーっと、僕は、リクだよ。大学二年生」
初めて人間以外に自己紹介したが、相手は興味なさそうに「フーン」と返事した。
威厳はないけれど、物語でしか見たことがない悪魔に似ていたので、ひとまず僕はこれをアクマと呼ぶことにした。
しばらく沈黙が続いた後、この現象について何か知っていそうな友人に連絡を入れることにした。それは、この謎の紙とレシピ本の元の持ち主であるオカルトマニアだ。
連絡を入れて十分後ほどに玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると息を荒げている僕の友人、ケントが立っていた。
「召喚に成功したとは本当か!」
好奇心と情熱にあふれた目線は、彼の太縁メガネ越しでもはっきりと伝わった。先に言うことがあるだろ、とぶん殴りたかった気持ちを抑えて彼を中に入れた。
テーブルの上にちょこんと座るアクマを見るなりケントは飛びつくように近づいた。アクマは接近する脅威におびえて天井まで飛び上がると怯えながらケントを見つめていた。
落ち着きのないケントを一旦椅子に拘束すると、まずは話を聞くことにした。
「それで、この紙はなんなの?」
僕は机の上にインクの薄れた紙を置いた。
「それはなあ、吾輩が開発していた“召喚紙”というものだ。別次元に巣くう存在の召喚のため、様々な文献を漁りながら描いたのだ」
ケントはこれまでの功績を意気揚々と語っている。彼はよく本屋に行っては、いわゆるオカルトブックを漁って買い占めているのだ。
「しかしまあ、何度儀式をしても反応がないので、処分したつもりだった。しかし、一枚レシピ集に紛れ込んでいたようだったな。スマン」
反省の色がない謝罪にまたイラっと来たがひとまずあのアクマをどうするかについて話し合うことにした。
「どうすればいいの。あの…アクマ?みたいな動物は」
「吾輩の鋭い推理と考察によると、しばらくすれば効果は切れて勝手に帰ってくれるはずだ。
だからそれまでの間…」
「まさか預かっておいてだなんて言わないよね?」
「よく分かったな」
「…」
アクマの方を見てみるとキッチンの調理器具に触れては揺らして何かを確かめているようだった。もはや呆れて怒りすらなくなって、あのアクマをしばらく預かることにした。
「動物の世話だってしたことないのにな」
アクマの世話の仕方、なんて検索しても出るはずもないから、何を食べるのかもわからなかった。
そんな時、となりで大きなお腹の音が鳴った。
「おっと、スマンな。急いできたから腹が減っていてな。おやつでもないか」
わがままなケントだが今はタイミングが良かった。レシピ集を取り出したのはお菓子作りをするためだったからだ。
「いいよ。ちょっと待ってて」
冷蔵庫から取り出した材料を台に置くと裾をまくった。
最初は暇そうにしていたアクマも、甘い香りがしだすと次第に近くで見るようになっていた。
「おチビさんも興味津々ですな」
「誰がチビって言っタ!」
二人がじゃれあっている間に僕は最後の工程に入っていた。三人分のお皿を出してそっと乗せる。
「できたよ。スイートポテト。ケントのレシピのね」
二人は目を輝かせ、先にかぶりついたのはアクマの方だった。
「うまいなコレ」
「さすがだな」
リク自身も口にすると程よくあまく芋の香りが立つ仕上がりとなっていた。
「ケントのレシピもすごいね。味のバランスがすごくいい」
「吾輩の祖母から受け継がれてきた至高の塩梅だからな」
ケントの隣には満足そうにしているアクマが寝そべっていた。最初は横柄な小動物かと思ったけれど、猫みたいなものだと思えば、しばらく一緒に暮らすのも悪くないのかもしれない。
二日間ほど、観察してきて分かったことがある。この小動物ことアクマと名付けた存在は触れるし動くけど、普通の動物とは違うみたいだ。人間と同じ食事はするけどトイレをする様子はないし、羽があるけど羽ばたかなくても飛べるみたいだ。そして、このアクマは“依り代”と呼ぶ僕のポットから一定以上は離れられないようだ。無理に離れようとすると何らかの張力が働いて、痛い目を見ることになる。
「なあ、何してるんダ?」
僕はこっそりアクマの特徴をメモした紙を講義用のノートで隠した。
「経済の勉強。明日テストがあるから」
「ケイザイ?テスト?」
アクマは頭をかしげる。言葉は話せるけれど、多くの単語を知ってるわけではなさそうだ。
「経済っていうのは、簡単に言うならお金のやり取りのお話。そしてテストはしっかり勉強しているかを確かめるものだよ」
「アア、カネなら知ってるゼ」
アクマは知っている単語を聞きつけて嬉しそうに答えた。
「他の奴らがそれを聞いては楽しそうに笑ってるんダ」
「他のやつら?」
ほかにもアクマの同類がいるということだろうか。そういえば彼の、つまりアクマの出自についてはまだ何も知らない。
「ここに来る前の場所はどんなところだったの?」
「ンー。ここと大して変わらねーゼ」
「こういう建物がある場所ってこと?」
「ソウソウ。でもオマエみたいなやつは初めてダ。羽も角もないなんてナ」
「仲間がたくさんいるなら、楽しそうな所みたいだね」
アクマはしばらく沈黙した。そのあと小さく「アァ」と答えた。
「オレはあっちでも新入りだったからナ。これ以上話せることもないゼ」
それからアクマはポットの中へ帰ってしまった。昨日の夜初めて見たが、ポットの中が彼の今の小さな家であるようだ。少し窮屈な入口からすっぽりと中に入っては器用に蓋を閉じるのだ。
なにかまずいことを言ってしまっただろうか。少し申し訳なくなったが、テストが迫る自分の身の方が今は優先しなければならなかった。
テスト明けの日、僕は羽を伸ばすついでに買い物に来ていた。いつも通り夕飯の準備と趣味のお菓子作りの材料をそろえるためにショッピングセンターの中を歩いていた。なんだかいつもより荷が重いように感じていたが、ただの違和感ではなかったらしい。ポケットの中がモゾっと動いて思わず人前で情けない声をあげてしまった。赤面しながらポケットをゆっくり開けると案の定、アクマが潜んでいた。
「ヨー」
黄色く光る眼をこちらに向ける。ポケットから出てこようとするアクマを手で抑えながら人気のない場所に走った。アクマの姿を見られたくはないのはもちろん、これ以上恥ずかしい思いはしたくなかったのだ。
外に出て周りに人がいないことを確認すると、息を切らしながらもう一度ポケットを開いた。
「ナンダヨ、乱暴ダナー」
呆れ口調でアクマは言うと、あくびをして体を伸ばした。
「狭いけど暖かい場所だったゼ」
「どうやって入ってきたんだよ。というかポットから離れられないんじゃないの?」
持ち物を確認するが、もちろんポットなんて持ち歩いていなかった。
「コレだよコレ」
アクマはポケットに小さな両腕を突っ込むと、取り出したのはポットの蓋だった。さすがにこれは盲点だった。ポットの一部でもあればいいだなんて。
「はあ、僕はいいとして他の人に見つかったら大変だよ。ネットに晒されるなんてまっぴらごめんだから」
けれど来てしまったのは仕方がない。ここから誰にも見つからずに帰ればいいだけだ。幸いこの町には人通りの少ない道がいくつかある。
見つからずに、そう思ったとき背後で何かがバサッと飛び立った。思わず後ろを振り向いたが、そこには何の痕跡もない電柱がそびえ立っていただけだった。
「なんだ、鳥か。人だったらどうしようかと」
そんな風に独り言をつぶやいたけれど、背中に残る鋭い視線はただの気のせいだろうか。
「おい、あそこに行きたイ」
アクマはそんなこと気にせずに一軒の洋菓子店を見つめていた。遠くからでも風に乗って甘い香りが感じられる。
「あの洋菓子店?お菓子なら帰って作ってあげるから、我慢して」
なだめたつもりだったが。アクマの残念そうな顔は消えなかった。それ以上アクマは何も言わなかったが、しょんぼりとした顔のまま連れ帰るのはなんだか申し訳なかった。
僕はそんなアクマに負けて洋菓子店に足を運ぶことになった。
「すみません。タルトを…二つください。」
家に帰って箱を開けると、巧みに飾り付けられたタルトのケーキが二つ並んで入っていた。せっかくなら家で作るのが難しいものを頼んでみたが、やはり店ならではのこだわりを感じる品だった。
「ありがとナ」
アクマはそう言いながら飛びつくようにタルトにかぶりついた。相変わらず甘いものが好きなんだな、と思っているとホイップクリームの香りが僕の食欲をそそる。スプーンをとって生地をすくう。
「やっぱり僕の作るお菓子とは全然違うな」
僕のよりも、なんて思うとあの顔が頭に浮かぶ。つまらない嫉妬だと分かっていても、やっぱり心にツンと痛みが走る。
僕のスプーンを握った手がぴたりと止まると、アクマは僕の方を見つめた。
「オマエのも美味いゼ」
クリームを口につけながらアクマは言う。アクマの甘言ってこういうのかな、と思うとクスっと笑えた。もう一口食べても、変わらない甘さだった。やっぱりおいしい、ただそれだけでいいんだ。
いつも通りベッドから起きると洗面台に向かった。鏡を見てみると珍しく寝ぐせがついておらず、顔を洗ってキッチンに向かった。
「おはよう」
ポットに向かって挨拶してみたが、返事は返ってこなかった。まだ寝ているのかと思ってポットの側面をつついてみる。
「朝だよ」
それでも起きないので仕方なくポットの蓋を開けて中をのぞいた。
「どうしたの?」
アクマは身を縮めて僕の方をみた。
「ナ、なんでもナイ」
声も少し震えていて何かに怯えているようだった。あたりを見渡したが特に異常な点は見つからなかった。
「…とりあえず朝ごはんにしよう。トーストでいい?」
アクマは小さく返事をするとポットの蓋を少し開けて同じように周りの状況を確認した。
バターを塗って砂糖をまぶし、小さく切ってからポットの中に入れてあげた。しばらくポットが使えないので、僕は市販の麦茶と同じトーストを食卓に置いた。
一息つくと、どこからか視線を感じた。ポットの方を見るが、もちろんアクマは顔を出していない。次に窓に目線を移すと、小さな影が飛び立った。不穏に思いながらも僕はトーストを食べ終わると、外出する準備をした。
「それじゃあ、いつも通り留守番よろしく」
アクマにそう言ってからドアを開けた。六つの目と僕の目が合う。白いハトが三羽、目の前の塀にとまっていた。赤いくちばしに黄色い瞳。一度も見たことがない清らかな鳩だった。
鳩は僕を視認すると、ドアの奥の部屋に向かって飛んできた。僕は急いでドアを閉めて、翼のぶつかるドアのカギをかけた。
「どうしたっていうんだよ」
しばらくすると物音は止んで、鳩は飛び立ったようだった。恐る恐るドアを開けて、鳩がいないことを確認するとドアを閉めてバス停に走った。空いた席を見つけると腰を下ろして落ち着きをとりもどした。
「何だったんだろ、あの鳩」
それから昼休みまで特に何も起きなかった。
昼食のサンドウィッチを食べていると、カバンの中で何かがうごめいた。まさか、と思って急いで外に出ると、やっぱりアクマがカバンから顔をだした。
「どうしたの?昼食は作り置きしていたと思うけど」
「ソウじゃなイ」
アクマは変わらず震えており、僕の袖にしがみついた。
「アイツらが来ル!」
僕のポケットのスマホに一件の通知が届いた。不明なアドレスからの一つのメッセージだった。
「そいつをこちらに引き渡せ」
メッセージを確認した瞬間、三匹の鳩が空から舞い降りた。鋭い風が首元を吹き抜ける。
「さっきの鳩…」
僕はアクマをカバンに隠すと、鳩たちの方を向いて構えた。
「僕に何の用?」
鳩たちは答えなかったが、再びメッセージが届いた。
「その存在はここにいてはいけない」
「下層に返さねば」
鳩たちは一歩ずつ僕に近づいてくる。人気のない隅には逃げ道も助けを呼べる人もいない。
「…アクマを取り戻しに来たの?」
僕はしばらく考え込むと、カバンに向かってささやいた。
「アクマは、帰りたいの?」
沈黙が続いた末、アクマは答えた。
「マダ、イヤダ」
アクマの小さな返答のあと、僕は決心した。
「君たちが何者かは知らない。でも、僕はお願いするよ。どうか、僕らを見逃してくれないかな。ちょっとの間だけ目をつむってもらえればいいんだ」
なぜだろう、こんなにもアクマのために必死になってお願いしているのは。最初は面倒ごとを押し付けられたと思っていたのに、今ではまだ一緒にいたいと思っている。僕の作る料理を美味しそうに食べてくれるだけなのに。
「アクマは、ちょっとわがままだけど、悪いことはしないし僕がちゃんと見てるから、だから…」
いつの間にか顔がこわばっていたのかもしれない。僕の顔をみるなり、鳩たちは歩みを止めてそれぞれ見つめあっていた。
しばらくして、鳩たちは飛び去った。完全に見えなくなると僕は一息ついてカバンを開けた。
「もう大丈夫だよ」
僕がそう言うとアクマは顔だけを出して周りを見渡した。最後に僕の顔を見つめて
「ありがとナ」
と言って笑った。
「五日間」それが送られてきた最後のメッセージだった。
「そろそろ一週間が経つが」
「経つけど…」
僕とケントはアクマの方を見る。ちょうど窓から日差しが当たって暖かそうなところでぐっすりと眠っている。
「効果が切れる兆候は見られないな」
「なんだかすっかり住み着いてる感じ」
もしかするとずっとこうやって同じ屋根の下で暮らす日々が続くのだろうか、なんて思ってしまうほどに時間はゆっくり過ぎていった。
ケントは麦茶を片手に持ってきた資料を整理している。
「そのプリントはなんなの?」
「これはなあ、吾輩が悪魔について研究した結果をまとめたものだ」
ケントはオカルトの話になるといつも興奮気味に話す。でも彼の話は聞いていて飽きず、時間があればいつでも研究とやらに没頭する熱情には心打たれるような気分になる。
「吾輩が文献を読み漁った中で、悪魔に対する解釈はこれが最も有力だと考えているぞ」
ケントは一枚の紙を差し出した。いくつかの付箋とマーカーがつけられ、分かりやすく注釈付けもされている。
悪魔とは❘魂において最も純粋な部分の像である。
生き物から生命が失われると、やがて魂は記憶、理性、本能に分かたれる。記憶と理性は上層へ、本能はかつての媒体として下層へと流れていく。
分離しきれなかった一部は媒体の中で影となり、やがて像として意思を持ち出す。それこそが、彼らが悪魔と呼ぶ存在である。
最後に引用元を添えて、そのテキストは締めくくられていた。
「えっと、つまりこれが言うには、アクマは下層というところから来たの?」
「そうだな。この解釈はあのアクマが言葉を話せる理由だけでなく、その他さまざまな怪奇現象を説明することができる。だからこそ吾輩はこの考えをもとにアクマの考察を進めたのだ」
ケントが次に取り出したのは見覚えのあるインクが染みた紙だった。
「これ、もしかしてあの時の」
僕は麦茶を飲みながら思い出す。あの時のアクマはすこぶる怖かったけれど、今となっては猫みたいにかわいいやつだ。
「この紙は普段干渉できない重なり合った空間どうし行き来できるようにするものだった。だが、実際のところ吾輩も詳しい原理は分かっておらん」
僕は少ししおれた紙を手に取ると、インクの部分に触ってみた。固まったインクの感触以外に特に感じ取れるものはなかった。
「つまり、下層っていうのはあの世みたいなもので、悪魔っていうのは…」
「かつて生きていた魂だったものというわけだな」
アクマは寝返りをうって寝言を吐いている。
ほのぼのと暮らしている彼もまた、かつては何かの動物だったのだろうか。それともあるいは
「人間だったとしたら、どんな感じだったのかな」
まあきっと、人間だったとしても猫みたいに気ままな人物だっただろう。
そんな談笑をしていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「はーい」
宅配を受け取ると、中にはいくつかのクッキーの袋が入っていた。
「誰からだ?」
「僕の兄からだよ」
「え、お兄さんがいたのか」
「言ってなかったっけ?」
僕は小皿に一袋クッキーを出すと、テーブルの中央に置いた。ほのかに小麦とバターのにおいが漂う。
「ムニャ」
においにつられてアクマも目を覚ましたようだ。寝起きのふらふらとした飛行でゆっくりとテーブルに着地した。
「なんだコレ、美味いゾ!」
アクマは口にクッキーを含んだ瞬間、半開きだった目を開けてそう言った。
「確かにうまいな。もはやプロなんじゃないのか」
「実際にパティシエだから」
「なに、それは実にうらやましいな。毎日高品質の菓子が食べ放題ではないか」
「そうだね…」
確かに、こうやって時々手紙付きでクッキーやらを送ってくれる。幸せな立場にあるといえるのかもしれない。一口かじっただけで自分の作るお菓子との違いを感じた。
「…もともと僕が最初にお菓子作りを始めたんだ。みんなに喜んでもらえるのがうれしくて、レシピ集も買って、いろいろ作ってきた。そしたら兄さんも一緒に作るようになって、いつの間にか兄さんの方がうまくなってきてたんだ」
僕はクッキーの上に乗ったジャムを見つめた。ずれなくきれいに塗られている。
「昔から器用さも兄さんの方が良くて、もちろん本職にした今では料理の腕で勝てっこなんてないけど、それでもたまに悔しくなるな」
ケントは難しそうな顔をしてクッキーを一枚口に入れた。サクッという音が小さな部屋に響く。いつもは周りなんて気にせず食べるアクマも、今は珍しく僕の方を見て同情したような表情をしている。
「オレモ…」
何か言いかけたアクマだったが、クッキーと一緒に続きの言葉も飲み込んでしまった。
そういえば前も同じように暗い表情をしていたのを覚えている。もしかすると、悪魔の世界もここと同じように甘くはない場所なのかもしれない。
手元のかじったクッキーをかみ砕いて飲み込んだ。
多分夢だろう。ほっぺをつねっても痛くなかったから。僕の目の前に一羽の白鳩が現れた。
「そろそろ限界だ」
「なんのこと?僕は平気だよ」
僕はキョトンとしてよくわからないまま答えた。
「違う。お前の心配をしているのではない」
白鳩は僕の目をまっすぐ見ている。
「もうすぐあの悪魔は消滅する」
その言葉を最後に僕は目を覚ました。だらしない格好で横たわっている体を起こすと、頬を涙が伝った。最初はあくびのせいかと思ったけれど、最後の言葉が今も僕の頭の中で反響している。
「ねえ、アクマ」
僕はアクマを呼んだ。しばらくしてポットの蓋が外れるとアクマが眠そうな目をこすりながらこちらに顔を向ける。
「なんダ?」
いつも通りの声でふわふわと飛んできて、僕の枕元に降りてきた。
「なんで泣いてるんダ?」
「いや、なんでもない」
僕は目元の涙を拭きとると小さな違和感に気づいた。いつもよりもなんだか、アクマが一回り小さくなっているような。
「ナ、ナニをすル!」
僕はアクマを掴んでみた。もちもちとした感触はやっぱり変わらない。
「ご飯にしよう」
それから僕はいつも通りに食パンを焼いて、さらに目玉焼きをのせてアクマ用の皿に置いた。変わらず元気そうに食べるアクマを見てほっとしたが、胸の気持ち悪さは拭えなかった。
「それじゃあ今日も留守番を…」
かかとを靴に入れる途中でふと思いとどまった。アクマは僕の後ろをふわふわと浮いている。
「ンア、行かないのカ?」
「あー、ポットの蓋を持ってきてもらえる?」
それを聞いてアクマは「イエイ」と言って飛び跳ねると、両手でポットの蓋を持ってきた。
「講義中は静かにしておいてくれよ」
そうは言ったものの、アクマは時々カバンから顔を出しては僕のノートを覗いたり、折れたシャーペンの芯で落書きしたりしていた。僕がおやつのラムネをひとつ取り出してあげると、アクマはしばらく落ち着いてくれたので、それで何とか乗り切った。
午前中限りの今日の講義が終わると、僕は駆け足で駅に向かった。
「オイ、家はソッチじゃねえゾ」
「大丈夫。今日はこっちに用があるんだ」
僕は片道切符を二枚買うと一枚を改札に通して電車に乗った。初めての電車に興奮気味のアクマだったが、幸い人の少ない路線だったのと、平日ということもあって誰もいない車両に乗ることができた。
「ナア、あれっテ」
「海だよ」
傾いた太陽に白く照らされた海を、アクマは僕の頭上でパタパタと飛びながらガラスに顔を張り付けて見ていた。
駅に着くと僕らは駆け足で砂浜に向かった。まだ誰も足跡をつけていない砂の上を走って、潮の香りを大きく吸った。
「デッケエ水たまりダナ!」
「ああ待って。塩水だからしょっぱいよ」
アクマは口に含んだ海水をペッっと吐き出すとしょんぼりとした顔でこっちに飛んできた。
「泳ぐにはまだ早いけど、足をつけるくらいならいいよね」
カバンを置いて素足になって海水につかると、流れる水と砂が足の指の隙間を通ってくすぐったかった。今度のアクマは慎重に海に片腕を突っ込んだ。
悪魔の体が軽いせいで、波に流されてはずぶぬれになって飛び上がった。
「アハハ」
思わず笑ってしまった僕を見るとアクマは怒って海中に飛び込んだ。飛び跳ねた水しぶきが僕の顔にかかる。
「やったな」
手で水をすくうと、飛び回るアクマをめがけて水鉄砲をお見舞いした。見事直撃したアクマはまた僕に水しぶきを浴びせてきた。
そんなことをしているうちに空はだんだんとオレンジに染まってきた。水辺から上がった僕らは砂浜に腰を下ろして波の音に耳を傾けた。
「心地がいいよね。この音」
いつも元気そうに遊ぶアクマも少し疲れたのかこの時は僕の隣に座って同じようにじっとしていた。
「マダ、帰りたくないナ」
「それならもう少しここにいよう」
アクマは首を横に振った。
「アッチの世界に帰りたくなイ」
「どうして?」
アクマの表情に少しの寂しさが混じる。
「オレは強くないかラ、アッチじゃ誰も遊んでくれナイ」
「そんなことないよ。君は優しいからきっと…」
僕の励ましは意味をなさなかったようだ。アクマの顔は下を向いたまま動かない。丸まった後姿を見ていると、なんだか僕まで心苦しくなってきた。
これはただの同情ではないらしい。兄のスイーツの香りが漂う中で覚えのある気持ち、僕よりも優れた人がそばにいるときの感情。僕の存在価値すら奪われてしまうような感覚。間にある差が形となって目の前に現れるたびに刺さったとげがより深くなっていく。
そうだったのか。アクマはここに来て、自分自身を見てもらえる人と出会えた。僕らはお互いに、認め合える関係になれたんだって。
「君が来てから、最近すごく楽しいんだ」
この言葉を聞くとアクマの耳はぴくっと揺れた。アクマはニッと笑うと、僕の目の前を飛んで背伸びをした。
「ありがとナ」
オレンジの光が悪魔の体を透き通って、ステンドガラスみたいにその先の海を映した。
「え…」
僕はその時気づいてしまった。アクマの体が透けている。揺らめくその体は、何とか形を保っている煙のようだった。
「限界」
その言葉が僕の頭の中でささやかれた。“消滅”だなんて嫌な言葉も浮き上がっては必死に忘れようとした。それでもやっぱり、アクマの体は変わらず消えてしまいそうだった。
鳥が羽ばたく音がする。夕刻を知らせるチャイムが鳴り響く。
「消えないで」
僕が小声でそういうとアクマは振り返った。相変わらずのほのぼのとした表情に少し辛い酸味が足されたよう、そんな顔をしていた。
僕もなんとなくだけど分かっていた。このまま残り続けたら本当に消えてしまうということを。それでもアクマは最後までここにいたいと願っているのだろうか。
「また君に会いたいよ。だからこそ今は」
強い潮風が二人の間を吹き抜けた。雲は過ぎ去り、日は影を伸ばす。
「さよならだ」
僕は笑顔を作って手を振った。しょっぱい水をふき取って、彼が帰るのを見届けるのだ。
「またナ」
白い羽が風に乗って流れると、アクマはいつの間にか姿を消していた。
空っぽになったポットの蓋が、風に揺られて円を描いた。
「リクとアクマよ、吾輩が来たぞ!」
ケントはいっぱいに詰まったビニールを片手に僕の家を訪れた。
「いらっしゃい。はいっていいよ」
エプロン姿の僕はケントを中に入れた。
「ん、あのアクマはどこに行ったんだ?」
「ああ、この間帰っちゃったんだ」
「なに! それなら挨拶をしに行けばよかったなあ」
僕は代わりに「ごめんね」と言うと、空っぽのポットに水を注いでスイッチを入れた。
「久しぶりにこのポットでお茶を入れられるよ。紅茶でいいよね」
ケントは買ってきたスナックをテーブルに広げると、胸から取り出したメモ帳も置いた。
「アクマの好みについて研究しようと思ったのだが…帰ってしまったなら仕方がない。新たな菓子作りの研究でもするとしよう」
「それがいいよ。また悪魔を召喚したら怒られちゃうから」
ケントは僕の顔を見ると何かを感じ取ったのか、真面目そうな顔をしだした。
「そういえば、あの後さらにアクマの研究を進めたのだが…。アクマは魂の器、ゆえに形を変えてお前に会いに来てくれるかもしれんぞ」
「それってつまり、転生ってこと?」
ケントは首を縦に振る。まあきっと、僕を元気づけるために言ってくれたことだろうけども。
僕はティーカップにポットで入れた紅茶を注ぐと、お菓子と一緒にテーブルに置いた。
「もしかするとまた、ポッと僕の前に現れて、お菓子を要求してくるかもしれないね」
僕は紅茶を一口飲んだ。そのとき、どこからかあの声が聞こえた気がした。
「オイ、オレの分はねーのかヨ」
読んでいただきありがとうございました。
「ポット出のアクマ」はあまり書いたことがない短編小説ということで、いろいろ試行錯誤しながら制作してきました。「ポッと出る」と「ポットから出る」という語呂の良さから思いついたのですが、想像していくうちに何とか形にすることができました。
気に入っていただけたら嬉しく思います。




