コロナ禍までのプロローグ
私は本編に入る前に少しだけタグについて話したいと思う。タグの中に変なワードがところどころ入っていたと思う。それは「歴史書」と「遍歴時代」だ。「歴史書」というワードは前の話を読めば理解できるはずだ。この作品は歴史書としての役割を果たすことが目的であるということを。しかし、「遍歴時代」は理解できないだろう。ここでは「遍歴時代」について語ろうと思う。
このタイトルは三島由紀夫先生の『私の遍歴時代』から影響を受けている。しかし、この作品自体は『私の遍歴時代』の影響をあまり受けてはいない。これは現在の私のイデオロギー、精神的状況を私自身が評価した際、この時代が根源にあったことを知った。そして、なぜこの時代が根源になったかを考えた。するとコロナという強烈な経験があったことに気付く。この歴史的な運動により自身の生活、人生を直接歪められるということは戦争、大災害の他に例を知らない。こんな経験をすることは無いわけだ。このことを示す良い言葉はないだろうか。
そう考えていると割と最近読んだ『私の遍歴時代』を思い出した。この作品は三島由紀夫先生の人生の中で自身の文学運動に最も影響を与えた20代の話を「遍歴時代」と位置付けて書かれた随筆である。この作品は三島由紀夫先生の太宰との確執の根源や共産党の入党の勧誘を受けた話などさまざまであるのだが、今現在の私にとって「私の遍歴時代」はいつだろうか。そう考えた。すると、今の思想の全てはコロナ禍に結びつくことが分かった。そのため、わたしはコロナ時代を「遍歴時代」と捉えた。そして「遍歴時代」というタグはこの考えを表す言葉として選んだ。
コロナが初めて確認されたという一報を受け取ったのは2019年の冬。私は小学六年生であった。確か、朝のテレビのニュースの報道だった。当時は原因不明の肺炎であった。「中国の武漢にて原因不明の肺炎が発生」というような感じだ。ただ、ここは日本。中国の武漢で原因不明の肺炎が発生とか言われてもあまりピンとこない。確かに武漢は長江の上流の大都市ではあれど上海とか北京とかのような日本人ならみんな知っているとかいう地名でもない。私も地図帳で武漢と書かれていたということしか記憶にない。誰も大事だとは捉えていなかったように感じる。いや、みんながこれを大事だと、歴史を揺るがす大事件になりうると気付いていればコロナ禍は起こらなかっただろう。起こってしまったのは結局のところ、我々、当時の人々は対岸の火事と見ていたのである。
私自身もこのニュースを見て「武漢をウーハンと読まずにぶかんと読むのか」とかいう重箱の隅を楊枝でほじくるようなことを思っただけだった。そして、それを以てしてマウントをとろうとした。武漢の中国語の発音を知っているということだけで。また、学校でも話題にはなっていた。しかし、誰も大事には捉えておらず、みんな平和そうに対岸の火事として話していた。誰も此処までの大事になるとは知らなかったのだ。
ところで、当時の私は小学六年生であった。色々と不安定だった時期ではあるが、その最たる理由の中に中学受験という当時の私にとって人生の分かれ道というべきものがあった。特に当時の私はこれに落ちたら大学も高校もいけないのではないかという謎の不安があった。それは当時の原因不明の肺炎に対する不安を遥かに凌駕していた。冬休みは基本的に受験の為に通った塾で冬期講習に行っていた。元日の一日だけ休みがあり、そこでゲーム三昧とかいう受験生として不合格なことをしていた。しかし、その日以外は冬期講習に時間が吸われ、ゲームをする余暇は存在しなかった。自宅での勉強は記憶の上ではバランスよくしていたと思う。苦手な算数、国語を塾のテキストで猛勉強し、得意な理科社会も問題を解いたりしていた。思えばこの時から、「自習=問題を解く」というイコールの関係ができていたように思う。因みにだが、普段の塾の授業では国語、算数、理科を受講して、超得意で大好きすぎる社会は自習という体制をとった。これは塾代の節約と社会を勉強しまくり算数や国語などの苦手な科目の勉強がおろそかにならないようにした結果である。
なんやかんや受験勉強していた中で2020年1月9日に原因不明の肺炎の病原体が明らかになったそうだ。それはコロナウイルス。しかし、記憶は何分古いものでいつ武漢の肺炎の正体を知ったかはあまり覚えていない。というか当時、この肺炎はまだ遠い遠い外国での話であった。学校ではかねてより噂となっていた「武漢の肺炎の原因がコロナウイルスであった」という話題が注目されていた。ただ、彼らはその病魔を自分たちに降り注がれるものになるとは思っていなかった。彼らは遠くの国の話をさも雑学の自慢大会の如く話していたのだ。私はコロナウイルスが原因であると知って少し大変な病気が増えてるんだなぁとか思った。「もしかしたらこれが世界中で流行して人がバタバタ死ぬかもしれない」とこの病魔を憂いたが、SF作品のようにしか思えなかった。マスクさえもしようと思わなかった。
順調に勉強を続け1月18日の土曜日。遂に中学受験が始まった。朝、眠い目を擦るとテレビには最後のセンター試験が実施されるというNHKのニュースがあった。センター試験。当時の私はどのようなものかは知らなかった。しかし、なにやら大学受験で大事なテストらしいことは知っていた。ここで自身の中学受験を思い出し緊張し始める。その緊張はお腹の蠕動運動を促進させ、腹痛が起こる。一先ずトイレに行きある程度の量の便を出す。尻を拭いて、水に流して、出るとまだセンター試験の話をしていた。そして、またトイレに籠もる。この繰り返しが延々と続いた。私はまともに入試直前の受験勉強ができなかった。
妹のおわします神棚を拝み、自身の受験の合格を祈願した。普段あまり拝まないのにこういう時だけ拝むというのは日本人的宗教観の表れなのか、記憶もはっきりしない時に生まれ、旅立った妹が虚構のように感じていたのか分からない。ただ、当時の私は妹の神棚に手を合わせることはほとんどなかった。坂の下に受ける学校があるのだが、道中に古びた祠がある。もう神もおらず、扉がビラビラと開いて、だらしがない。そんな祠にも手を合わせた。大阪の街を下に見て坂を下る。すると、志望校に着く。玄関で靴を履き替え、高校校舎の4階に上がる。教室に着く前にもう一度トイレに行き大量の便を出し、教室にて最後の受験勉強をする。この受験勉強は言ってしまえば御守りのようなものである。意味があるのかないのかは実際によくわからない。受験の直前にするプリントみたいなものを塾で配られており、歴史の年表を見たり、漢字を見たりした。ただ、どれだけ頭の中に入ったかはもう覚えていない。
少しづつ席も埋まり、いつしかすべての席が埋まっていた。1ダースの鉛筆の束と消しゴムを机に出して少しずつ張り詰める空気の中で勉強する。休憩に教卓を見ると相合傘があった。そうこうして過ごしていると試験監督が教室へと表れた。声の甲高い中年のおばさんだった。風貌から体育の教師ではないかなどと邪推した。今にして思うとこれらの行為、思考は徹底的に受験という恐ろしい現実から少しでも目をそらそうとする画策だったのかもしれない。試験官がテストを配る。そして受験が、当時の私にとって最大のイベントが開催されたのだった。テストが終わると受験生は教室を一度出る。そこで、またお腹が痛くなりトイレをする。すっきりはしないもののマシになった。この何とも言えない不快感の中で次に科目が始まる。
こんなことを何度か繰り返していると遂に午前のテストは終わりを告げた。「社会の問題が先生の趣味で染まっていたなぁ」とか「塾でやっていない公民分野でなかったなぁ。授業でやらなかった分結構頑張ったんだけど。」とか「算数の説明問題書いたはいいけど取れてないだろうなぁ」とかくだらない事ばかり思い浮かべながら母と共に一度家に帰る。昼ご飯にサッポロ一番味噌ラーメンを食べた。今思えばかつ丼を食べるという受験生らしいことをすればよかったかのように思う。
ラーメンをすすり窓から見える景色を眺めていると時間もよろしくなってまた、同じ学校へ行く。試験会場に着くと先にトイレに行く。お花を摘んでから外に出ると同じ小学校の問題児である須磨(仮名)という少年と会った。少年は滑り止めでこの学校に来ていた。私は見栄を張ってもっと偏差値の高いキリスト教系の大学までついている所が第一志望であると息巻いていた。少年は
「北阪はもっと頭がいいところに行くんだもんな」
と言った。私は見栄を張らなければよかったと後悔した。後悔しながらまた、国語と数学の試験を受けた。国語の問題の中に確か震災のことを書いた小説が問題に出ていたことは遥か昔の記憶とはいえ今でも残っている。これはどう考えても自分と関わりのあるものではない。確かに日本に住む以上地震と無関係ではない。関西では南海トラフが起こす巨大地震がいつ起こるかなど知るはずもない。だから無関係ではない。しかし、この事象のみについていえば私とは離れた事件である。そして、当時の私にとってこのような歴史の事件の中に自分がいる姿を想像することができなかった。
午後の試験が終わり空を見上げる。空は墨で塗りたくったように黒く、校内の電灯が所々で灯っていた。帰って家でこたつに入りながらゴロゴロとしていた。時々テレビの方を見て丁度やっていたブラタモリを見たりした。食卓は何だったかは覚えていない。ただ、いつもより豪華だったということは言うまでもない。親は私のこの一日を労っていた。食事をとりを得ると明日のために少し勉強してから眠った。
翌日は電車に乗って終点まで行く。そこで報徳学園の試験を受けた。なんか二つのグループがあり、頭のいいグループに入ることを狙った。終わるとJRの路線で山を越えて三田に着く。そこでファミレスに行きそこで時間を潰し、中学受験最後の学校となる三田学園へと行く。神戸電鉄に乗ってその学校へ。電車は結構揺れると思っていた。その疑念は確信として当時の私の頭の中に残っていた。数駅進み、三田学園の最寄り駅へと着く。試験が始まる1時間ほど前に。時間をどう潰そうかと母と相談して公園で時間を潰すことにした。小学校の時分、私はただの公園で4時間は時間を潰すことは造作もなかった。ある程度時間が経ってそろそろ学校へと向かうその時に母はスマホで「昨日のテスト結果が見れるようになった」ことを私に言った。私はそれを恐る恐る確認した。すると、午前の試験は見事に合格だった。午後の試験は不合格だったが落胆することはなかった。私は有頂天になり遂には天に行くのではないかと思えるほどに地を蹴って飛び跳ねていた。母は私が狂喜乱舞するを抑えるように言った。当時の私は今とは比べようにならないほどに素直だったのでそれに従う。そして、次の学校の試験を受けるかどうかという問題に突き当たる。ここで私は一応来たことだし受けると言った。
この学校は後者が非常に古い建物であったが管理を徹底しているのだろう。とても美しくハイカラな意匠であった。歴史的な重厚感を滲ませるこの校舎の中へと入る。木の床もまた美しい。ここでまた、試験を受けた。ただ、緊張でトイレに行くことは無かった。試験官が入り、テストが一人一人配られる。試験開始の号令一下、試験は開始した。ただ、私は試験を受ける気がなくなってしまった。大正のハイカラな意匠の校舎の中で眠った。こうして私の受験は幕を閉じた。
帰ろうとすると昔ボーイスカウトで知り合いとなった奥村稔(仮名)と林満明(仮名)と会った。同じ塾の知り合いである左近寺小太郎(仮名)とも出会い、彼らと話しながらその町の中心駅まで向かう。すると、JRが運転見合わせになった。他で変える術は殆どないに等しい。一応、神戸電鉄を乗り継げば確かに帰れる。しかし、それは億劫だ。だから待つことにした。この間、私は奥村や林、左近寺と与太話をしながら運転の再開を待った。大河ドラマの「麒麟が来る」の一話も見逃して何もない夜の駅で母と話すことになった。この時、「受験の合格祝いにハワイに行こう」という話が出た。最初は春休みを使うのだと思い「うん」といった。しかし、平日の一週間を使うと聞いて腰を抜かした。しかし、首肯した以上それを覆すのは極まりが悪い。妙な顔をしながら時は流れた。
二時間ほど待たされただろうか。時間も詳しくは覚えていない。ただ、夜も深くなっていた時の事だった。JRの路線も動き始め、溜まっていた受験生たちも改札内へと入っていった。私たちもその流れに乗り自宅へと帰っていった。家へ帰ると私の受験合格でお祝いムードが漂っていた。私も第一志望合格は嬉しかった。学校へも有頂天になりながら行った。何人かは落ちたりしていたが当時の私はそんなことを気にするほどやさしい人間ではなかった。私は彼らを気にせずに受験合格を他者に言いふらしていた。一方、母親は「午後は落ちていたのだからしっかりと勉強して中学生活に臨め」と私に言った。当の私はその忠告に耳を貸さなかった。
ここで小学校の英語の授業での私の態度についてお話しする。まず、私は英語のスペルが全く分からない。というのも英語のスペルに法則性を見出すことができなかったからだ。無論だがローマ字は読める。アルファベットもAからZまで言える。スペルは知らなくとも「ドッグ」や「ペーパー」などといった単語も分かる。だが、スペルが分からない。そして、英語のリスニングも正直なところ聞き取れないことの方が多かった。こんなもんだから英語の授業ではいつも睡眠をしていた。説明までも英語でするものだから何をすればよいかもよく分からなかった。
私は反骨精神までむき出して「外国語」と称する英語の授業だったわけだがスペイン語も、ドイツ語も、フランス語も、ポルトガル語も、中国語も、韓国語も、ロシア語もすることはなく、ただ英語の授業をしているだけではないかと言って「外国語」という授業名に対して揚げ足を取っていた。更には英語に対抗するために中国語のテキストを買って一時期中国語を勉強しようとしたが文法という概念を知らない少年が更に声調言語という習得の難しい言語を持ってきたわけだ。習得などできるはずもなく見事に諦めた。私がこのようなことをしたのは英語という教科が服教科にしか思えなかったからだ。確かに小学校の英語は副教科だ。中学受験にもでない。しかし、中学校では一気に主教化へと出世する。このことを知っていれば私は勉強していただろう。そして、中学校でも。
さて、当時のコロナ情勢だが受験の少し前から神奈川県でコロナ感染者が発生していた。もう対岸の火事とは言えなくなった。しかし、当時は誰もマスクをしてはおらず、コロナが世界を席巻するとはまだ言えない状況にあった。しかし、二月頃になるとコロナが脅威になり始めていた。まさかと思っていた事態が刻一刻と迫っていた。ただ、誰もマスクをしてはいなかったが。中学校での入学説明会では校長先生がコロナのことに触れていた。その日は関東の中学受験の日であった。関東の受験生たちが「コロナという脅威がある中で受けている」というような話をしていた。ただ、まだ対岸の火事だというような風に思っていたコンテクストでもあるように今では思う。人間というのは経験をしたことのないことには楽観的になるものである。実際に私もコロナというのは大きな社会での話であり、自身の身近なミクロな社会に浸食することは無いと考えていた。先ほど中国語のテキストを買ったと言ったが思えばこの時期辺りだった。友人と一緒に行った。マスクは二人ともしておらず、ケーキ屋なんかも回ったりした。この時もコロナのことは考えてはいなかった。
暫し記事を見ていたところ2月3日がダイヤモンド・プリンセス号が横浜に寄港した日らしい。この船はコロナ患者が数日前に確認された船であった。恐らく日本人が本格的にコロナを脅威とみなすようになった事件であろう。日本におけるコロナ時代を象徴する事件であった。私もダイヤモンド・プリンセス号から続々とコロナ患者が見つかるにつれて恐怖感というのは高まっていった。マスコミも連日このダイヤモンド・プリンセス号を報道していた。世界でも少しずつアジア人に対する差別が広がっていった。コロナを中国ウイルスだとか言うような人が出てきたのもこの時期だろう。武漢肺炎とも呼ばれていた。これが中国やアジアへの差別・偏見につながる可能性というのもあったのだろうか。国連のWHO(世界保健機関)は新型のコロナウイルスにSARS-CoV-2、コロナウイルスが引き起こす病気にCOVID-19と命名した。
そういえばハワイ旅行もこの時期だった。大阪空港から羽田空港に行き、京急、JRと乗り継いで京成スカイライナーで成田空港まで行ってからエリソン・オニヅカ・コナ国際空港(ハワイ島の空港)へと行った。羽田空港から成田空港まで移動したのはどうやら飛行機の手配ミスらしい。父親は京成スカイライナーの発券の仕組みが分からず色々愚痴をつけては切れていた。何に怒ればいいのか分からずに(おそらく)日暮里の駅員を尋問しつつ、母親にキレていた。父親はキレていないと気が済まない人間なのだ。恐らく30分以上京成スカイライナーの券が買えず時間を無駄にしていた。行き交う人の多さは流石東京というものだ。ダイヤモンド・プリンセス号の一件があった(というか現在進行形で進んでいる)が、未だに通勤・通学の人たちが多くいた。しかも、関西の比にならないほどに。目まぐるしく行き交う人々流れで父親と母親が向こうで券を買おうとしている姿を見失いそうになった。私はただ、弟を見失わないようにしていた。なんとか切符を買い、京成スカイライナーを待つことになった。当時はあまり鉄道の事も詳しくなく、ただ姫路に住んでいた時に様々な電車を姫路駅のホームで見ていたことを思い出した。格好いい列車が来ることはなんとなく分かった。それは本能的に。かくして、私は京成スカイライナーを楽しみに待っていた。父親と母親は飛行機の券をしっかりと取ればよかったと後悔していた。弟はただ、眠そうにしていた。
ホームで京成電鉄の電車の行き交うを見ていると先頭に藍色が塗られている近未来的な車両が来た。先頭は若干傾斜を持っていた。美しい高速鉄道のような風格を持つ車両。側面は白くより近未来的な洗練されたデザインをしている。日暮里駅のホーム(だったはず)にスカイライナーは停車し、電車は扉を開けた。電車から降車客はいなかった。他の乗客も殆どいなかったと記憶している。電車内に入ると殆ど乗客はいなかった。確か私たちが乗った車両にはもう一組ぐらい乗客はいた気がするが成田空港まで乗ることは無かったと記憶している。京成スカイライナーに乗って成田空港へと移動していた。窓には薄闇の中に灯る多くの街の明かりが星のようであった。
家族団欒をスカイライナーの車内でしていると遂に成田空港に着いていた。改札を出て不自然なまでに広い無人の空港を移動した。空港のターミナルへと移動した。しかし、コロナ禍で誰もいなかった。普段ならば海外へ行く人で溢れているだろう成田空港のターミナルもがらんとしていた。どこを見ても人っ子一人いない。私たちの話し声のみが虚しく響く。客は誰もいない。そんな異常な光景が。そんな異様な光景が。ターミナル一帯に広がっていた。暗くて、人気もない大きな人工物の内部で私たちは搭乗口へと歩いた。無人の空港の中を。
ターミナルの中へと入っても、保安検査場へと行っても誰もいない。ただ静かに保安検査や出国手続きなどが行われていく。私たちと空港保安検査員のみがその世界に居て他は誰もいない。そんな感じだった。保安検査が終わり、空港の国際線のところへ向かう。ただ、断片的な記憶しかない。出国手続きが終わってからは免税店で父親が髭剃りを買ったり、母が壊れたカバンを急遽買ったりした。そして、レストランに行き晩飯を食べて、ラウンジで過ごしていたと思う。ラウンジにはようやく人がいた。その程度にしか人はいなかった。ラウンジでは任天堂スイッチで弟と仲良く(というか半分喧嘩しながら?)ゲームをしつつオレンジジュースを飲んでいた。窓には闇夜の中で離着陸する飛行機が見えていた。時刻は気にしてすらいなかった。何時間かラウンジで過ごし、すっかりラウンジのとりこになっているとそろそろ飛行機が来るらしい。搭乗口へと移動する。ラウンジを後にする悲しみを堪えて。
搭乗口には他にも20人ほどだろうか。乗客がいた。テレビでは当時のニュースが様々流れていた。特に覚えているのはダイヤモンド・プリンセス号のコロナ患者がまたまた増えていたり、乗客がまだ陸に上がれないことを嘆いていたりした。テレビでは午前0時を指していた。夜空も墨色に真っ黒に染まっていた。雨さえも降っていたように思う。JARの飛行機に乗った。国際線であるために飛行機は大きかった。しかし、乗客を見ればそれが役不足のように思えてしまう。乗客の少なさは本当に虚しいものであった。少し待ち、飛行機は滑走路へと行き、天へと走る。天を飛び、海を越えて遥か彼方のハワイ島へと向かった。かくして、我が一家はハワイ島のエリソン・オニヅカ・コナ国際空港へと向かうことになった。飛行機では映画を一個見てから眠った。
飛行機の記憶は私の今の記憶には存在しないが、この飛行機の中でもダイヤモンド・プリンセス号のニュースを見たような気がする。恐らくだが当時の国民の関心はダイヤモンド・プリンセス号のことであったのだろう。少なくともこの一件の記憶は私の中で強烈に残っている。
眠りから覚めて幾許かするとハワイ島のエリソン・オニヅカ・コナ国際空港へとたどり着いた。コナ国際空港は成田空港のような建物はなく、飛行機から直で地面に降りる。空からは陽光が降り注いでいた。入国検査はデジタル化されていた父親は英語ができるので父親がなんやかんやして入国検査を終えた。母親が荷物を改修している間、トイレで大便をしていた。そして、マイクロバスで雑多な小屋に行き、そこでレンタカーを借りた。父親がレンタカーを借りている間自販機でキットカットを買った。しかし、そのキットカットは日本のものとは違い甘ったるいような味であった。素直に不味かった。日本のキットカットは甘くありつつも丁度良い甘さであったということを知った。この不味いキットカットを弟や母親に押し付けていると、父親は契約を終えてレンタカーを借りた。そして、レンタカーに乗り黒い溶岩とパイオニア植物が包むハワイ島の上に立つ一直線の州道を走った。天には青々とした大空があった。
そして、宿へと到着した。そして、係員を呼んでから宿の敷地内へと入る。駐車場に車を置いてからロビーへと行く。ロビーでは施設の説明をされた。そこまで聞いてはいなかった。しかし、一つ覚えている説明がある。それは到着する前日にハワイ州にてコロナの罹患者が2人確認されたとかそんな話である。コロナウイルスが少しずつ侵略していたことをその時思い出した。
それからは、あまり描写することもない。なにせニュースは英語のためつけても分からないのだから。そう、言うなればコロナのニュースと完全に隔離されていたのだ。確か、この間に日本で初めてコロナの死者がでたそうだ。2月13日に。
ハワイでは海に言って泳いだり、部屋でゴロゴロしたり、BBQをしたりした。アワビの養殖場へ行ったときはアワビに関する知識を教わった。貝殻を見るとどういう餌を使って飼育したか分かるだとかそういった類の知識である。そして、アワビの養殖場を見学した後、アワビの試食をした。そのコリコリとした食感は今でも記憶に残っている。この後にもアワビを食べる機会は何度かあったが、これまでおいしいアワビは食べたことがない。他にもコナコーヒーを買ったり、ホウレンソウのソース(?)がのっているゲテモノ料理を食べたりした。この時のゲテモノとキットカットの件はこの後の陰謀論的反米尊皇愛国共産主義(この思想は前述のとおり中学二年生の時に放棄した)とかいうゲテモノ思想の反米部分の思想を支える体験となった。
ただ、何個かはコロナ史に関する資料になりえるところをハワイ旅行で経験した。そこを少し書くことにしよう。ハワイ島にいる間、食料などは自分で買いに行かねばならなかった。そこでワイコロア・ビレッジにあるスーパーで食料品を買うことにしたのだがそこのスーパーは人が多かったということだ。他の場所では他の場所にある観光客向けのお土産を売っている街みたいなところにもいっぱい人がいた。ただ、風貌からしてアメリカ人が多かったと思う。あと一つ。宿の近くで夕日がきれいだということで夕日を見に行ったのだが、夕日を見に行く道中、現地の若い男達がホースで水をかけてきた。”sorry”と言って、わざとではない的なことを言っていたらしい。しかし、これはアジア人に対する差別感情による攻撃だった可能性もある。これは当の本人にしか分からないから何とも言えないが。これについて、もし差別感情によるものだったら、そこにコロナ禍という一つの要因が関係していることは間違いないだろう。実際にこのころから世界中でアジア人に対する差別が横行していた。それはアジア人がコロナウイルスを持っているのではないかという恐怖感があったからだ。しかし、当時に戻ることも、本人に直接聞くことも難しいのでその事実は分かりようがないし、個人的にはどうでもいい。
特に何もしていなかったようにも思える一週間のハワイ島旅行は何もしていないのになぜか楽しかった。真昼間にコナ国際空港を出発し、太平洋を越えて15時に羽田空港に到着した。コナ空港を出た時刻は覚えていない。日本に戻ると久しぶりに世間のニュースと自身との間につながりが生じた。ラウンジで見たニュースはゲーム依存症が精神障害と分類されるようになったというニュースであった。母親はゲームにはまっている私に向かって皮肉を言い、私はそれに反発していた。3時間ほどラウンジにいた後、羽田から伊丹空港に至る便に乗ろうと移動を始める。搭乗する前、父親にクラスJが残っているということを伝えられた。父親は私たちに向かってクラスJに乗りたいかを聞いた。私たちは一致してクラスJに乗りたいと言った。かくして、普段よりも安くクラスJに乗れた。
クラスJに乗り暫くすると飛行機は滑走路に向かった。夜にもなって飛行機の走る道を照らすライトのみが飛行機の窓から見えて、ほかには何もない。そのカッコいいような光景を見ながら私は眠っていた。静岡辺りで起こされて飲み物をどうするかと聞かれた。私はコンソメが欲しいという旨をキャビンアテンダントに話した。「承りました」と言ってから半分個室のようになっていたクラスJの空間から退席した。数分してからコンソメを持ったキャビンアテンダントが私の席にコンソメを持ってきてくれた。私はリクライニング全開にしていたので極まりが悪いものの、直すのもまた極まりが悪いのでそのままにしてコンソメを頂いた。それを飲み干してからまた眠った。起きると伊丹空港へと戻っていた。空港を出て、モノレールに乗り、家に着いた。久しぶりの家でゴロゴロしてまた眠った。
起きてしばらくの休日を過ごし、月曜日に学校へ行く。この頃にはコロナという恐怖はかなり強まっていた。そう世間では。しかし、子供の共同体ー小学校のクラスだろうかーにおいてはその恐怖感は無かった。というのも子供はにとって唯一の世界なる子供の共同体は大人の世間とは隔絶されているのだから。そこは子供の王国とでもいうような世界。その世界においてはコロナは遠い遠い存在だった。そして、コロナは子供の王国には存在しえなかった。また、ハワイに旅行に行ったことでコロナに対するリスクで恐れられたことは無く、「このご時世に何してんだぁ」というような感じで怒られたこともなかった。ただ、国語の授業中に教科書中の詩を模写するという当時の私にとっては存在意義の分からない授業をしていた時にその模写をサボタージュし、失敗が濃厚になると机の下に引きこもって(ちょうど避難訓練のときのように)、雑多なレジスタンス(などと言うと聞こえがまだマシな感じになるが、結局のところ駄々っ子の如くごねただけ)を展開した時や英語の授業の発表で数日前に書いていたスクリプト(メモ書き風のゴミ)は英語の単語が読めない上に字の汚さも相まって読めずにスクリプトを粉砕した時に、「なにやってるんですか。ハワイ旅行に行ったのはそれだけの余裕があったからじゃないんですか?」などと言われ、「俺が決めたことじゃないんだけどなぁ」という感じに反発したことぐらいだろうか。(こうしてみると私の扱いに担任の先生がどれだけ手を焼いていたかがよくわかる。街中で当時の担任の先生に会ったら真っ先に謝らねばと思う。)こうして怒られている合間に卒業式の練習もあった。多分、先生や生徒の数人は「コロナで潰れるかも」と思っていたのかもしれないが、当時の私はコロナで卒業式がつぶれるのは早々ないだろうと高を括っていた。
こうして一週間は終わり、久々のように感じる土日へと入る。そうして、いい休日を迎えんとするときに、母親は咳やら高熱やらで倒れた。一家は母がコロナになったのではと冷や汗をかいていた。私の家は父親が自分の思うようにならないとイライラするたちなのもあり、家事は母親だけがやっていた。なんなら母親は男三人衆が無理して家事をして仕事を増やすよりは自分で一人でやる方がましと愚痴をこぼすこともあった。つまるところの家事をできる人が一家の中に母親しかいなかった。故に部屋はとっ散らかったり、料理もどうしようかで男三人衆で一時間ほどは為したりなど中々まとまらなかった。料理の方も街に買い物に行った後、父親が簡単な料理をした。確か雑炊だったと思う。母に雑炊を届け、その日はコロナというものの拡大を体感しながら眠った。結局母親は納豆のねぎを食べたことで玉ねぎ中毒を引き起こしたというオチだった。一日で母親の容態も回復して一件落着といった感じであった。
その後、数日の間学校に通学していた。しかし、ある日いきなり長い休学期間へと入る。2020年2月27日の午後6時頃、当時の首相である安倍総理大臣の下で臨時休校の要請がなされた。私の通う学校もその対象。期間は3月2日まで。しかし、期間は延ばされていった。知らず知らずのうちに最後の小学校の授業になってしまったのだ。なんてこともない日が。いつも通りの日が。この臨時休校の要請から長い長い春休みへと入っていくのであった。
コロナ禍の始まりは私が小学六年生の時でした。今から数えるとコロナ禍の始まりは多分5年ほど前になるのではないでしょうか。だからあまり覚えてはいませんがあの時人生で最長の長期休みになったということは記憶にも新しいです。皆さんの多くも会社なり学校なりが長期休みになったりリモートワークになったりしたことでしょう。業種によってはコロナ禍以来ずっとリモートワークになった人もいるのかもしれません。コロナ禍というのは多くの人に影響を与えた事象でありましょう。あの時の異様さは些か戦争に近いものだったのかもしれません。
私自身もコロナ禍が中学校生活の半分以上を覆い、多くの行事が吹っ飛び、中学校時代は皆が顔にマスクをして皆の素顔を知らないという状況でした。中高一貫の学校なのでほとんどの人が高校も同じでしたので高校生活でみんなの素顔を見ることになりましたが。コロナ禍というのは今となっては思い出のようなものですが当時はどうなることかと思いながらテレビのコロナの感染者数の発表に耳を傾けていたことでしょう。少なくとも私はその一人でありました。
さて、次回はいつになるか分かりませんが、多分次が自粛生活編みたいな感じになると思います。いつになるか分かりませんが是非見てください。