終章
終章
「面白い話だったなあ」
私は目の前の杯を取り上げると、がぶりと一口飲んだ。男はうっすらと笑みを浮かべてそんな私を見ていた。喋り疲れたのか口数が減り、ほとんど何も話さない。
「でもそのエンデオンだっけ? エンダ……ミオン?」
私は構わず、べらべらと話しかけた。
「エンディミオンですよ」
「そう、そのエンディミオン……。今も眠り続けているのかな」
男は目を細めた。どこか遠い目だった。
「多分……まだ永遠の命に執着しているのなら、そうでしょうね」
「それってさ、ちょっと悲しかないか?」
「悲しい?」
男は微かに口の端を引き締めた。
「誰が。ディアナが? エンディミオンが?」
「誰もが。誰もが、みんな。眠り続けるそのエンディミオンも、それを眺め続けるディアナも。罰を下した女神たちも、裁いた神の王も。みんな。多分みんな。関わった者がみんな……悲しいよ。俺には悲しく思える」
私は手元をまじまじと見つめた。
「ただの話なのにな。エンディミオンはどうなったのかな。いつか、許される日が来るのかな」
「来るかもしれませんね」
男が言った。
「いつか。彼が女神の愛を選び取った時に。思い上がりの心ではなく、真心からの選択をした時に。その時こそ彼は許されるのです」
「可能性はあるのかな」
「ごくごく小さなものでも、罰の後には許しの道が残されているのです、人は何故かなかなか気付かないようですが。そうでしょう?」
男は杯を上げて見せた。その髪は黒い巻き毛で、フードの下に重く垂れていた。話を聞いている間は気付かなかったが、よくよく見れば、男はまだ少年と言ったも良い程若々しいのだった。髭も生えていない顔は、ランプの灯では断定しがたいが、三十路を越えたようには見えない。しかし男には、奇妙に老成した部分が存在した。人生を見尽くした老人、あるいは世を捨てた隠者の印象が、彼にはつきまとっていた。これほど若いのに、と私は思った。何故ここまで年老いているのだろう?
「エンディミオンは、どうするだろう」
そうして男の顔を見つめる内、不意に思いついて私は言った。
「何がです?」
男が尋ねた。ささやくような声だった。
「もし、もし、許されたらさ。どうするんだろうな、奴は。目が覚めたらすごい時間がたってるわけだろ。それに今までの事も思い出すんだろ、やっぱり。自分が何をしたかって事も」
私は首をふりふり言った。
「寝て起きたら軽く十年や百年は過ぎてたなんて、ぞっとしないな」
「確かに」
男は笑った。
「もし目が覚めたら……もし……そうですね、本当に長い年月だ。それに……」
ふと口をつぐむ。
「それに?」
私は空になった杯に酒を継ぎ足しながら尋ねた。
「彼に罰を与えた神々」
男は言った。
「彼等がかの地で崇められなくなって、久しいのです。もはや彼等の名を伝える者はなく……秘儀も失われ。
神々が世を去り、はるかな海の彼方へ……または地の底、天の果てへ退いたという伝説は各地にありますが、彼等もまた去っていったのです。何処へとも知れず。
エンディミオンはどうしたでしょうね。神々のいない世界で目覚め、そして彼につながりのない新たな神と人との世界を目の当たりにした時には? 愛しいものは永遠に時の彼方へと去り、自分一人が全てから取り残されたと知った時には。もはや彼には、ディアナの面を見る事もかなわない……」
異国の男はつぶやくようにそう言った。その声は次第に低くなり、ついにはささやき声と変わりなくなって空気に溶け、消えていった。
「何も」
男はつぶやいた。
「何も……」
私は自分の杯を取り上げた。
「もう一度、人間の中に混じって暮らせば良いよ」
中身を干して言う。
「生きていけるさ、命があれば。そうだろ?」
「命があれば?」
「そう、命があれば。恋を失くしたらまたすれば良い。財産を失くしてもまた作りゃ良い。でも命を失くしたら代わりはきかないぜ、兄弟。全部失くしたっていうんなら……」
私は片目をつぶってみせた。
「もう一回、最初っからやり直せば良いのさ。ちょうど良いじゃないか」
「そうですね」
男は笑った。
「そう割り切れれば……彼も幸せでしょうに」
そう言った彼の顔はフードの陰になって良くは見えなかった。だがどこか不可解で人の目を逸らせる沈黙を刻んでいた。私は不安になった。これはただの話ではないか?
この男は何者なのだろう……。
「エンディミオンの、その後の話が聞きたいですか?」
男は不意に言った。私は目をぱちくりとした。
「その後の話があるのかい? 彼は許されたのかい?」
「本当かどうかはわかりません。でもどこからか、伝えられた続きがあります」
男は言った。
「彼は不死を望んだ……それはかなえられ、神々の去った後もそれはなくなる事がなかった。ある日とうとう目覚めた時に、彼は神々を探したが、彼等を見出す事はできなかった。それで彼は旅に出た」
私は彼を見つめていた。
「去って行った神々を探して贖罪の旅に。何十年、何百年と、どこへ留まる事も休む事も己に許さず。
どこへ行っても神々は見つからず、どこへ行っても彼は放浪者のままだった。おそらくは永遠に旅を続けるのだろう、と」
※ ※ ※
一番鶏が鳴いた。
私も男も、店の外に顔を向けた。夜が明け始めている。
「一晩、飲み続けちまった」
私は空になった壺をひっくりかえし、中身が残っていないかと虚しい努力を続けた。「ああ」と男が言うのが耳に入る。
「美しい事だ。夜明けだけはいつの時代でも変わらない」
私はふと、男を見た。フードを深くかぶる彼の顔は夜の間中影に沈んでいた。ランプの灯の薄暗さに酒が入っているのである。彼の顔がはっきりしなかったとしても不思議ではない。だが今、朝日が彼の顔に光を投げ掛けていた。輪郭をはっきりと浮き上がらせている。
漆黒の髪はゆるやかに渦を巻いて垂れ落ちていた。白い膚は夜に開く花のようだった。私は声を失くした……誰なのだ、これは? 何者なのだ、この男は?
彼は人であるはずのない容貌をしていた。そうして陽を浴びている様はほとんど若い神と言って良かった。私はめまいを覚えた。手が震え、壺を取り落とした。
転がった壺は硬い音を立てた。男はそれを、拾い上げた。
「エンディミオンは旅を続けます。いつまでも。けれどやがて、彼の物語も忘れ去られてしまうのでしょう」
私の方に壺を戻すと、男が不意に言った。
「それはそれで、良いのかもしれませんね」
私は彼を見つめていた。何も言えなかった。
「この物語には、終わりがない。旅人が永遠にさまようのだから。
彼は、永遠の放浪者です」
「あんたの、ように、かい?」
私はやっとの事でそう言った。男はうつむくと少し、笑った。
「私もまた、旅仲間からこの物語を聞いたのです」
そしてフードを深く引き下げて、もう顔を見ようと思っても見えないようにしてしまった。
「けれど確かに。あてのない旅を続けるという点では変わりありませんね」
「どこかに落ち着く事は、ないのかい」
「私は旅人です」
男は言った。
「いつか、私が旅人でなくなった時には。その時には留まるべき所を得、そこをふるさとと呼ぶでしょう。けれどそれまでは。私は旅人なのです」
去っていく男の姿は、朝の人込みにまぎれ、じきに見えなくなってゆく。
私は奇妙なめまいを覚えていた。脳裏には男の話と男の姿がぐるぐると渦巻き、頭はがんがんと痛んだ。
そんなはずがないというのに。
呼び止めようとした舌は顎にはりつき、伸ばした手もだらりと垂れ下がった。あれは、私の関われる存在ではない……。
男のマントがとうとう見えなくなった時、私は何故か泣きたいような衝動を覚えた。それが何であったのか、今でもわからない。
後には、いつも通りの街のざわめきがあった。
私はしばらく店の入口でつっ立っていたが、やおら店の中に引き返すと、私たちが夜の間中、座っていた台の所へ行った。そこには貨幣が置いてあった。男が残したものだ。
しばらく見つめてから、手を伸ばした。
指で弾く。澄んだ音を立てて貨幣は転がった。普通の貨幣だった。どこにでもあるような。
多分、彼は話を多く知っている旅人で、吟遊詩人のようにうまく話せる人間なのだ。
そしておそらく、仲間の元に戻り再び彼等と旅をするごく普通の旅人なのだ。私との一夜の事も彼等に話し、いずれどこかの国で話し好きな男の話が語られる事になるのだろう。
そうなのだ、多分……だがこのめまいは何だ? 何故こんなにも、私は混乱しているのか?
私は椅子に倒れ込むようにして座った。昨夜、あの異国の男が座っていたあたりを見やる。
「そんなことが……」
私はつぶやいた。そして彼の面影を振り払おうと首を振った。だがたとえそうした所で忘れられるわけがない事を、私は知っていた。
少年のような顔をした異国の男の髪は黒く、膚は大理石のように白かった。その顔はいつかどこかで見た、古い時代の神々に似ていた……その彫刻に。
そして彼の目は青かった。海のように。
あの女神が恋した若い羊飼いの、瞳のように。
かなり昔の作品です。クリスマスと何の関係があるんだという内容ですが、……新しい時代と古い時代の出会い、という事で。
書いた当時、トマス・バーネット・スワンの『薔薇の荘園』にハマッていました。あと、メーテルリンクの『青い鳥』を、演劇サークルで練習していて。その辺り、影響されたと思います。物語が入れ子状になっている構成にしてみたくて、こうなりました。
しかし肩に力入ってんなー……。