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3.満ちる月

 ユピテル神は、しばし思いを巡らされた。エンディミオンの卓越した美しさを見、また私の恋のありさまを、つぶさにご覧になられた。神々の女王たるユノーは私を案じ、虹の女神イリスを何度となく私への使者として送っていた。だが私は何かと理由をつけて、天上へは戻らなかった。

 やがてとうとう、大神も重い腰を上げた。

 ある朝、私の元を訪れたのは、女神イリスではなく伝令の神メルクリウスだった。至急大神の御前に出でよ、との厳命を携えて。

 これ以上逆らう事はできなかった。私はエンディミオンの側を離れた。



 私の兄であるアポロ、銀の弓を引く太陽神は、妹の恋を苦々しく眺めていた。誇り高きディーオーネー、輝かしき面のディアナが何とした事だろう、死すべき運命の人間などに夢中になっているのだ。あるいは兄は、この少年の傲慢さに気付いていたのかも知れぬ。私の横にいるこの少年に幾度となく矢を射かけ、その命を絶とうとしていたが、大神から真偽をはかるまで手出しはならぬと、きつく言い渡され、思い止まっていたのだ。

 天上のユピテル神の神殿に呼び出された私は、居並ぶ神々の前で御神に問われた。


『勤めを怠るほどに地上に留まるのは、なにゆえか』


 ユピテル神はおっしゃった。


『そなたが勤めを怠るせいで、あちこちで混乱が生じておる。神々もそうだが、人間からも私に願う声が聞こえる。月は何処に在りや、これは神々の所業なるか、如何なる怒りが月を隠したもうたか、と』                     


 私は答えて言った。


『おお、ユピテル、神々の父にして天界の王者よ。私は私の、やむにやまれぬ事情でもって、地上に留まっていたのです。

 地上に住む一人の少年が、私を捕らえました。そのまことと愛情と、彼の身の内にある美によって。

 彼の巻き毛はその白い額を飾り、風に戯れて私の心を騒がせました。

 その髪には夜が折り込まれ、私の照らすべき領土を示していました。

 目にはネプチューンの領土(海)があり、愛と慈しみとが寄せては溢れくるのがわかりました。

 そうしてまた、私の沈むべき西の方、星座たちも休息する海の果てが示されておりました。

 ああ、ユピテルよ。私はあの少年を照らし、あの少年に安らぎたかったのでございます。

 風にそよぐ花のように愛らしいその姿を世の獣たちから護る為、私は弓を引きたいと思いました。そうこうする内、この思いはますます強くなって私を取り巻き、苦しめました。私はあの少年の側を離れる事ができなくなりました。いつも共にいれるならとそればかりを願い……こたびの仕儀になったのでございます。


 勤めを放棄したことは、まことに申し訳なく思っております。けれど私は、もはやあの少年なしには生きてゆかれませぬ。

 私の恋、私の思いはあの少年と共にあり、私の命もまた同様なのでございます。何となれば私の領土、私の安らぐべき場が、彼の内に刻まれているからです。彼は彼である事で、この私の全てを携えているのです。


 ああ! けれどユピテルよ、私も、己のおかした罪の償いはしなければならぬと存じております。この長い期間に渡り、私は夜空を照らす事をせず、世界を暗いままにして省みませんでした。

 どうか、私に罰を与えて下さいませ。私から月の女神の権限をお取上げになり、別のどなたかを新たな女神になさって下さい。

 そうして私を天上から追放し、死すべき運命の人の子の一人と数えおき、モイラ(運命の女神)たちの支配の元にお委ね下さいませ。私は喜んで天上を去り、神々に仕える者となり、地上で寿命を終えましょう。


 ただ、慈悲深いユピテルよ、あの少年に、罰を与えたりなさらないで下さい。そしてどうか、彼を私から引き離さないで下さいませ』


 私はそう言って頭を垂れた。居並ぶ神々は誰も顔を見合わせ、驚き呆れていた。たかだか人間一人の為に、不死である神々の寿命を捨てようと言うのか! そもそも、その少年とは何者だ?


『我が娘よ』


 主神は仰せになった。


『そなたの愛情深き事は、よくわかった。また私はこの少年、エンディミオンを知っている。彼は王の血筋であり、またその王は我々神々に連なる者であった。

 しかしながら娘よ、そなたの望みをきくわけにはゆかぬ。人の子として生き、そして死にたいという事であったが、そなたは失うにはあまりに惜しすぎる宝石じゃ。狩りの女神ディアナ、月を運ぶ処女神は、代わりのきくものではない。

 まあ、人間への恋心についてはここに集まっている他の神々同様、私にも覚えがある事ゆえ、女神のこれまでの素行については不問にいたそう。しかし女神がそのような振る舞いに及んだ原因となったエンディミオン、あの羊飼いの少年は、このままにしておく事はできぬ』

『ユピテルよ!』


 私は悲鳴にも似た声を上げた。が、主神は首を振った。


『ならぬ、ディアナよ。行為に対しての結果はついて回るものだ』

『さればこそユピテルよ、私に罰をと! エンディミオンは、私が女神であった事も知らぬのです。知らぬままに恋をしたのです。これは、彼のとがではありませぬ』

『私もその点は考えたのだ、女神よ』


 ユピテル神は仰せられた。


『そなたたちが本当に愛し合っているのならば、これほど無粋な事はあるまい、とな。しかしもし、そうでないとしたら。エンディミオンは不遜にも、我々神々を侮り、また私の娘であるそなたに恥辱を与えた事になる。これは許される事ではない』


 ユピテル神は私をご覧になった。憐憫れんびんの色がその目にあった。


『確かにあの少年は美しい。そなたの照らすべき領土があると言うのも頷ける』


 私は不審に思いつつ、主神を見上げた。


『だがあの少年がそなたを、そなたの想う程に想っていたかどうかはわからぬな。私はあの少年の目を見たのだ、ディアナよ。あれは欲望に満ちた目をしておった』


 ユピテル神はためいきをついた。


『以前にあれと同じ目を見た事がある。野望に燃え、次々に他国を侵略していった男たちの目だ。野望の為に恋人すらも利用し、捨て去った男の目だ。ディアナよ、それゆえ私は、一つの賭をした』

『ユピテルよ、賭とはいったい……』

『己の運命を己に選ばせたのだ。そなたの兄、アポロの提案でな……イリスがあの少年を西の方の山へ連れていった。そこでテミス(掟の女神)とモイラの立ち会いの元に、彼は選択する事になっておる。そなたを取るか、それとも』


 主神は目を伏せた。


『己が栄誉を取るか』


 神々の伝令役、メルクリウスが現れたのはその時だった。


『ユピテルよ、仰せの通りに、テミスの審判を見届けて参りました』


 翼のある靴をはいた年若い神は、私の方を見てちらと眉を曇らせた。


『ご報告はここで……?』

『構わぬ、申せ。ディアナにも聞く権利があろう』


 ユピテル神は仰せられ、メルクリウスは主神の方へ向き直った。そして言った。


『ユピテルよ、あの少年は、自身の栄誉を選びました。神々の愛よりも、死すべき人の子の権力を望んだのです』


 私はその言葉を聞いていた。どこか遠い所から聞こえてくるかのように。


『それゆえにモイラはその望みをかなえ、テミスはネメシス(※神罰を下す女神)による罰を与えました。ユピテルよ、今後彼は、死ぬ事はありません。しかしもはや、生きてゆく事もできぬのです』


 私は静かに、その場に立ちつくしていた。



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