2.昇る月
私は狩人の女神、全ての処女を護るディアナ。天においてはセレーネ、黄泉においてはヘカテと呼ばれる者。夜を照らすのは私、死者の足元を照らすのは私。疫病の矢を射るのも私なら、夜の凶暴な魔術から人間を護るのも私。私はディアナ、ディーオーネー(輝く女神、天上の女神)であり、遠矢を射る者であり、雌鹿を射る者であり、竪琴と予言の神でもある太陽神の妹。二頭の鹿に車を引かせ、月を運ぶ者である。
私と羊飼いの少年エンディミオンの恋の顛末はこうであった。
エンディミオンは、遠く西の地の王の血を引く少年で、その頬は赤く、初々しく、笛の技に優れた少年であった。
私がある夜、地上を照らす月を運んでいると、地上から澄んだ音色が響き、深く心を動かされた。音の主はと見れば、羊飼いの少年が一人、岩に腰掛けている。澄んだ音色は少年の笛であり、私はこの少年を心にとめた。それがカリュクエの子、エンディミオンだったのである。
あくる夜、私は私の星(月)を運ばずに地上に降りた。カリュクエの子は大地に伏して眠っていた。
その巻き毛は麗しく顔の面をふちどり、黒々としていた。まだ柔らかな膚は白く、ややもすれば大理石とみまごうばかり。二枚の小さな貝殻のように両のまぶたは閉ざされ、桜色の唇はフローラの愛でた薔薇のよう。力あるディーオーネー、太陽の妹であるこの私の心を捕らえたのはそうした少年だった。
私は彼の上にかがみこんだ。そしてその白い額にくちづけた。そっと、軽やかに、私の星の光が地上に触れる時のように。
カリス(美の女神)が織った布でさえ、彼の美しさを覆えるものではなかったろう。
私のくちづけに少年は目を開けた。二つのうすい殻、ムーサイ(詩神)が讃えるだろうそれは静かに上へ引き上げられ、かわってそこには海が開けた。ネプチューン(海の神)の治める領土を少年の内に認めた私はその海に溺れた。ああ、何という青さだっただろう、あの目は!
少年は驚いたように私を見た。
私は微笑みかけた。
彼の唇から言葉がいくすじか溢れ、私に優しく触れた。
私は彼を見つめ、その言葉を聞いていた。
カリュクエの子は最初こそ驚き怪しんだものの、やがて私の来る事を待ち望むようになった。ただ彼は私が何者であるかを知らなかった。何やら奇妙な所のある女人だとは思っていたようだったが、私を一人の娘として見ていてくれた。私はそれが、身の震えるほど嬉しかった。
そうして私は、エンディミオンの側にいるようになった……朝も、昼も夜も。
さてその頃、天上にまします神々は集まり、話し合っていた。それと言うのも私、雌鹿を射る神、月を運ぶディアナが地上をあまりしげしげと訪れて、天に帰らなくなった為、月が昇らなくなったからである。
地上はもちろんの事、天においても月がない為に、人々や神々は暗がりでつまづいたり怪我をするようになった。伝令の神メルクリウスも、あまりの暗さに星座にぶつかりかけ、兄であるアポロ、銀の弓を引く輝きの神に愚痴をこぼす。星座たちも東の空から昇る折り、前の星座とぶつかったり順番を間違えたりと、混乱が生じていた。
神々の父ユピテルは、この事実を憂えて私を呼び出そうとなされた。ところが私は、神殿にも神々の宮殿にもいなかった。
驚いた大神がディアナは何処にと問えば、あのいまいましいトロイアびいきだった、王子に人妻を褒美に渡した女神(※ヴィーナスの事)が、神々の父の御前に進み出て、私の恋の事を語ったのだった。
そうして私、レトの娘であり処女を護る狩人、ディアナの恋は神々に知られる事になったのだった。
エンディミオンは、笛の巧みな少年であった。また優しい少年でもあった。
だが私は、気付かなかった。
彼の目の青さを愛するあまり、その奥に宿る炎を。
優しい心根を愛おしむあまり、同居して育っていた功名をはやる心を。
好ましい威勢のよさと見えたものが、次第に傲慢さに変わってゆくのを。
私は気付かなかった。彼に恋するあまりに、私の心は見落としていた。
今でも思い出す。黒い巻き毛の少年がその髪を風になぶらせ、たたずんでいる様を。その青い瞳は輝いて野望と未来への貪欲な憧れに満たされている。彼は振り向いて私に微笑む。そして小さな笛を示し、曲を吹き始める。
私の恋。私の夢。それなのに、私は気付かなかった。
彼の瞳に宿る炎を少年ゆえの激しさだと思い、彼の私を見るまなざしが尊敬する者へのそれでなく、侮りを含んだものへと変わっていっても……私は、ディアナは彼を愛していた。
天上の輝きをもってしても、この恋を止める事はできなかったであろう。