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1.闇の夜に

 ああ、そうだよ。わしは若い頃、あの野原で羊の番をしとった者だ。この辺の者は皆、わしの事を『笛吹きのじいさん』と呼んどる。夜になったら笛を吹くからじゃろ。              

 今じゃ、夜風が骨身にしみてな、役目は孫に譲ったが、わしの笛はこの辺じゃちょいとしたもんなんだよ。羊たちもわしの笛を聞くと、どんなに気が荒れとっても、おとなしくなりよる。子どもの頃からわしは、そうして羊たちに笛を聞かせてやったものさ。時には森の獣が、遠巻きにしながら聞いてた事もあったな。わしは気付かんふりをしていたがね……獣たちは臆病だからな、人間が気が付いているなんて素振りを見せたら、怖がっちまうんじゃよ。        

 とにかく、笛を吹くのが好きだったんじゃな。誰にも邪魔されずに吹ける、夜の羊番はわしには楽しみのひとつじゃったよ。そりゃ、辛い事もあったけどね。

 え? あの話かね。ははあ、誰かから聞きかじってきなすったな……おおかた髭の森番にでもじゃろ。あれは良いやつだが、喋りすぎるのが欠点じゃな。     

 良いだろう、話してやるよ。ちょうど、ほれ。狩人の女神さま(※月の女神ディアナ)が昇られる。話をするには良いあんばいだ。                

 じゃあ、始めようかね。



 わしはその頃、まだほんの子供じゃった。神々の父のワシ(※ユピテル神=ゼウスの事)にさらわれたあの少年(※水瓶座の伝説・ガニュメデス)ぐらいに若かった。そうして笛を吹いていた。風が吹けば風の中のニンフの為にその笛を捧げ、森を眺めてはパンの神の為に笛を吹いた。もちろん月が東の空から昇れば、お優しい、あの美しい太陽の神の御妹君の為に吹いたのさ。あの頃のわしの一日はそうして過ぎていった。今もあまり変わらんが。

 そうしたある日の事だった。わしがあの御方とお会いしたのは。



 あの夜も、いつもの夜と変わらないはずじゃった。わしの若い叔父のディミティアスが、恋人と約束さえしていなければ。ディミティアス、この叔父がまた、女好きでね。あちこちに恋人を作っては大騒ぎして別れ、別れてはまた作りと、にぎやかな人じゃったよ。

 けれどわしがその夜の事を話しても、信じてくれたのはこの叔父だけじゃった。わしの笛の事をいつも褒めてくれた……良い人じゃったよ。わしが嫁をもらって初めての息子が産まれた夜に、川のニンフに惚れられて向こうの世界に連れていかれてしまった。綺麗な男は放っておかないからな、精霊のお嬢さん方は。叔父はだから、今も若いままじゃ。きっと今でも向こうで楽しくやってるじゃろう。

 さて、そのディミティアス叔父が羊を集めて野原に来た時、こう言ったのさ。


「おい、サウロ。悪いが今夜は一人で羊を見ておいてくれないか」


わしはピンときたね。ははあ、またどこかの娘にちょっかいを出すつもりだなってね。でもしらんぷりして答えたのさ、「ええ、どうして。叔父さんどこへ行くの? ってね。そしたら叔父は、にやにやしながら言ったもんだ。                        


「ヴィーナス様(愛の女神の名)の神殿に供物を捧げに行くんだよ。男にとってはこの世の中で一番身近な、そうして遠い神殿にね」                


 ようするに、のろけじゃな。わしもそれ以上は追求しなかったよ。野暮じゃからな。      

 で、叔父は出かけていった。わしはと言えば、そりゃ残るしかないじゃろ、羊をほっとくわけにはゆかんのじゃから。それで残っていた。いつも通りに笛を持ってね。叔父に笛を聞いてもらえないのは少しばかり残念だった。けど、そんな気持ちも笛を吹き始めるまでじゃったよ。 

 小さな笛を口にした途端、そうした気分は吹っ飛んで、わしは夢中になった。          


      

 しばらく一心になって笛を吹いたよ。昔から、この辺りで良く歌われてる何かだったと思うがね。ほれ、母親が子どもに聞かせるようなやつさ。そういうのしかわしは知らないし、それに、充分じゃないかね? どこにでもある歌ってのは、この世に母親がある限り、残る歌さ。羊たちも静かに聞いてたよ。

 いくつか吹いた。それから一息入れた。良い気分だったよ。それから本格的に笛を吹こうとして、空を仰いだ。 

 で、そのことに気がついたんだな。


「あれ」


 わしは呟いて、空を眺めたよ。その時刻になると、輝かしいお顔の女神さま(月)が東の空におられるはずだったからね。ところがどうした事か、空には黒々とした闇が広がっているだけで、何も見えないのさ。もちろん、太陽神の妹神さまが冥府に下られて、死者の王の国をもお照らしになる事(新月の期間の事)は知ってるよ。でも前の晩も御姿を拝見した所だし、その夜に限って空におられないはずがないんだ。もちろん曇ってなんかいなかったさ。空に上げられた英雄や、神々の物語を記してくれる、星は見えたからね。

 ひょっとしたら見落としたんじゃないかって、しばらくあちこち、空をさがしたよ。でも不思議な事に、夜空の女神さまは、どこにもお顔を見せておられないんだ。


「変だなあ」


 わしは首をひねった。こりゃどうした事かと思ってね。でもまあ、こんな事もあるんだろうと思い直して、すぐに考えるのをやめにしたよ。ほれ、神々の物語じゃ良く会議や集まりとかがあるじゃないか。きっと今晩は、夜に輝く顔を持つ御方は何か、御用があって出かけておられるんだ、そう思ってね。

 それで気を取り直して笛を吹こうとして……わしはもう少しで笛を取り落とす所じゃったよ。あんまりびっくりしたものだから。

 何故って、いつの間にかわしの隣に、背の高い女が立っていたからさ。見た事もない真っ黒な髪をして、少し厳しい目をした綺麗な女……いや、まだ女の子と言っても良い位の年に見えた。だが、その時のわしよりは年上じゃったな、明らかに。まあ、それは良い。とにかくわしは、突然の事でびっくりしてしまったのさ。


「だ、誰だ、あんた」


 思わず出た言葉がそれさ。わしは多分、どもってたと思うよ。女は不思議な目をして、わしを見ていたんだ。とても美しい、きらきらした目でね。どもるなと言う方が無理さ。その目はあんまり不思議で、そして星みたいに輝いて綺麗じゃったから……実際、あんな目を前にして平静でいられる人間が、この世にいるだろうかね? おらんと思うよ、わしは。綺麗で、それでいてどこか、厳しい所のちらちらする目じゃったよ。わしはびっくりして声を上げた反面、女に見惚れてぼうっとなっておった。 

 女はにっこり笑った……あんな微笑みを見る事は、もう二度とないだろうな。笑うと厳しさが消えて、実に優しい顔になるのさ……そうして口を開いた。     


「怖がらないで、サウルディアス。あなたを害そうとして来たのではありませんから」           

 わしは赤くなって、肩をいからせた。羊の番もきちんとできる年なんだ、というプライドがあったからね、すぐに女の言葉に反発して答えたよ。


「俺は怖がってなんかいないよ」          

「それならそれで良いわ……あなたは勇敢な少年ですものね」                      

 女は微笑みながら言った。            


「ただ、もし私の事を化け物か何かと間違えていたのなら、大変だと思ったの。変な事を言ってごめんなさいね」

「うん、良いよ」                 


 勇敢な少年と言われた事で、わしはかなり気分が落ち着いた。そうして目の前の女を、まじまじと見つめたよ。どこかで会った相手なのかと思って。女の言ったわしの名前は、とても親しい響きを帯びていたからね。   


「あの、どこかで会ったっけ」


 わしは意を決して尋ねた。          


「俺、どうしても思い出せないんだけど。ええと……」

「ええ、サウロ。私たち、知り合いと言えば知り合いよ。でも多分、あなたの方は知らないわ……私が知っているの。もう少し小さかったあなたと、今のあなた」

「へえ、そうなの?」               


 わしは瞬いた。母さんの知り合いかな、そう思って。


「まあ、何にせよ良かった。あなたみたいに綺麗な人に会っていながら忘れたなんて、俺の目も頭も、ケルベロス(※地獄の番犬。三つ首の犬)に喰われちまった方がマシだと思ってたとこだから」


 女は笑った。銀の鈴のような声だった。


「さすがは、あのディミティアスの甥だこと。叔父に似て口が上手い」

「叔父さんも知ってるの」

「もちろん、サウロ。良く知ってるわ」


 女はそう言って、また笑った。それでわしはまた、こうも思ったのさ。あれ、それじゃこの人は、叔父の恋人の一人なのかなあって。でもそれにしては、目に時折浮かぶ厳しさは、男を想う娘たちのものとは少し、違っているように見えた。


「でもこんな夜に、女の人が一人で野原に来るなんて、危ないよ。近くの森からは獣が出て羊を襲いに来るし、夜のデーモン(悪霊)がいつ、どこから出てくるかわからないよ」


 わしはそう言った。遅まきながら、女がこんな夜分にこんな所で、一人でいることの奇妙な事に気がついたんだ。


「ああ、サウロ、いいえ」


 女は笑って首を振った。


「私はこの辺りの者なの……すぐ近くに住んでいるのよ。だから心配ないわ、すぐに帰れるから。本当に、ほんの近くなの。

 そうしていつも、あなたの笛を聞いていたわ。今日はそのお礼に来たのよ。それにデーモンたちのことなら大丈夫よ。卑賤ひせんな霊ごとき、私に手出しはできません」  


 その時の様子があまりに堂々として、またきっぱりと言い切ったものだから、わしは反論することができなかった。そうして、この女は一体何物だろうと、ますます首をひねった。この辺り、しかもすぐ近くに住むものは、わしの記憶の中では皆無じゃったからね。確か、月の女神さまの小さな祠があったくらいで。         


「ああ」


 わしは思いついた。


「あの、あなたはひょっとして、巫女なんじゃありませんか」


 神々の神殿から神殿へ、巡る旅をする巡礼の話は聞いていた。神官や巫女も、時にはそうした旅をすることがある、とも。もちろん、人づてに聞いた噂にしかすぎないのだけれども。けれどその時わしはそう思ったんだ。

 女は少し首をかしげた。


「ええ、そうね……そんなものだわ」

「ああやっぱり。それじゃ、夜通しの行なんかなさったりするんですね。それで……」    

「ええそう、サウロ。夜に私が行わなければならない勤めの最中に、あなたの笛の音が聞こえました。いくたびもいくたびも。何夜も聞こえました。とても良い音色で、心がなごまされました。それで、今日はあなたにお礼を言いにきたのです。いつも綺麗な音楽をありがとう」  

「え、へへえ」


 わしは頭を掻いた。礼を言われたのが照れ臭くて、くすぐったい気がして、赤くなった。それからその照れを隠す為に、別の話題をさがした。


「えーと、あの……あー……あなたは、ずっとここで修行を?」


 巫女の笑みが広がった。


「そうとも言えるし、違うとも言える。私にとって、つとめの場は世界中にあるのですからね」


 彼女はそう言った。わしは巫女をぽかんと見上げた。世界中! それではやはり、この方は流浪の巫女なのだ、そう思って。いずれの神の巫女なのだろう。陽気に騒ぐバッカスの女たちだろうか。死したるアドーニスに仕える者だろうか。それとも……それとも……。

 わしの頭の中には色々な神の名がぐるぐると駆け巡ったよ。けど、どれも違うような気がした。それで、とても妙な、怪訝けげんな顔をしていたのだろうね。巫女はわしの顔にじっと目を当てて、それから軽く頷いてみせたから。


「沈黙の誓いをたてているわけではありませんしね。良いでしょう、これ位は。サウロ、私は月に仕えているのです」


 そうして、そう言ったのさ。

 わしは納得したよ、それで。この巫女の持つ、独特の雰囲気にね。月の巫女は、厳しい修行と戒律を守らねばならないのさ。一生を処女として過ごし、狩人の女神さま、 太陽の妹神さまの側近く仕える者として暮らす。確かに世界中が修行場のはずだ、月は世界中を照らすんだから。


「ではひょっとして、ここの祠にお参りをして……? それで俺の笛を?」  

「そう……まあ、そうです」


 巫女は少し首をかしげた。

            

「私のつとめは主に、夜の事が多いので」


 それはそうじゃな。月は普通、夜を照らすしな。  


「今夜は? おつとめはないんですか?」      


 巫女は黙って夜空を仰いだ。わしはさっきの事を思い出して、慌てて空を見上げた。月の女神さまが天空にいらっしゃるかと思って。けど、相変わらず空は真っ暗のまま。おまけにどうした事か、星まで見えなくなってるじゃないか。                   


「あれあれえ」


 わしじゃなくたって変だと思うだろう、お若いの? 

 巫女はゆっくりわしの方を向くと、肩をすくめてみせた。                       

「今宵は神々の集まりがある由。私も一夜のお暇を頂いたわけです。本来なれば、年長者の中で物語りなどをしながら過ごさねばならないのですが。

 私はこの機会に笛を吹いていたあなたに礼の一言でもと思って来たのです。明け方近くになるるまで女神は空に帰りません。

 ここでしばらく、あなたの笛を聞いていても良いですか、サウルディアス?」


 わしは頷いた。


「かまいませんよ、巫女さま。俺の笛は羊や、野原や風の中のニンフ、森のパンの神のもの。もちろん、月の女神さまのものでもあるんです。その女神さまに仕えるあなたに聞かせないわけがあるはずないでしょう」   


 巫女は微笑んだ。


「ありがとう、サウロ」


 優しい声でそう言った。それでわしは、それこそ懸命になって笛を吹いたというわけさ。静かな野辺の曲から始まって、賑やかな曲、楽しい曲、とね。そしてディアナ様に敬意を表意して造った曲を披露した。心を込めて。

 巫女はその間、座ってじっと聞いていたよ。

 そうしてとうとう、疲れ果てたわしが口から笛を外した時は、もう夜も良い時刻になっていたんじゃないかな。相当更けてたことは確かさ。何曲も吹いたからなあ。

 巫女はにこにこして笛を褒めてくれた。嬉しかったなあ、本当に。それから巫女はこう言ったよ。


「懐かしい思いがする位に、素敵な音がするのね。私に何かあげる物があれば、それをあげるのに」


 けれどそんな事ができるはずもないのは、わしだって知っていたさ。流浪する巫女は財産なんか持たない。ましてや戒律の厳しい月の巫女ともなれば、尚更だ。


「褒めてくれたことで充分だよ」


 わしは言った。


「今まで俺の笛を聞いて、そうして褒めてくれたのは、叔父のディミティアスと従兄弟のアイアス、クレニオ、それにクロエ……妹と。家族以外ではあなたが初めてだよ。へへ、それだけで、もう嬉しくてさ」


 巫女は微笑んだ。優しい、優しい顔をしていた。それからその顔が荘厳なものに変わった。


「あなたには天賦てんぷの才がある、サウロ」


 厳かに巫女は言った。


「世界と語り、それを音楽に変え、笛に託す才覚が。あなたの優しい心がそれを可能にしている……年を取った後も、もし今の自分の心を大切にしていたなら、お前をそれを失って嘆くような事にはならないだろうよ」   


 とてもおごそかな物言いだったので、わしはとまどってしまった。


「そうして名を残すだろう、もし望むのならば。サウロ、お前はそれを望むかい?」

「あの、それは、託宣たくせん……ですか、巫女さま?」

 

恐る恐るわしは尋ねた。


「俺、自分の笛にそんなすごいとこがあるなんて、思えないけど」

「託宣……?」                   


 巫女は優しい笑顔に戻ってそう言った。


「いいえ、サウロ。私はただ目に見える事を述べただけよ。そこにある事を正しく評価したにすぎないわ……人間が、なかなかできない事ではあるけれどね」


 わしは目をぱちくりとしたよ。巫女の言ってる事の、半分も理解できなかったからさ。


「あー、えーと」


 それでも褒めてくれてるのはわかったからね、ぼそぼそと礼を述べた。巫女はそんなわしを小首をかしげて見ていた。


「うん、まあ……」


 わしは照れながら言ったよ。


「もし、そうなったら……気分は良いかな。でも俺は、天と地と動物たちとに聞いて貰えるなら、それで良いんだ」


 巫女はじっとわしを見ていた。


「誰より上手いとか、誰と比べて下手だとか、気にしなくて良いからね、ここで吹いてる分には。神々に気兼ねなく捧げることもできるし。人の前だと、人間に対しての曲とかも吹かなきゃならないだろ、そんな気分じゃない時にも。有名になんかならなくたって良いよ、幸せな気分で吹けるのが一番だよ」

「本当に」


 巫女は笑った。


「それが一番ね……お前の笛にはその方がふさわしい。聞きたい者は向こうから出向くでしょう、森の獣たちのように。

 それにしてもサウロ、あなたは良く似ている」


 巫女はそう言ってため息をついた。わしはちょっと目を見張ったが、黙っていた。先刻から巫女が、わしではない別の誰かを、わしを通して見ている気がしてたからね。


「あなたのように笛の上手な少年だった。優しい心と目を持った少年だった。けれど……」


 巫女は目を閉じてしばし沈黙した。年上の者の追憶を邪魔しないように、わしは黙っていたよ。巫女が流浪する理由には色々あるのさ、お若いの。戦で神殿が焼けてしまって、流浪する者もいる。旅の間には色々あったろうし、楽な旅じゃないことだけは確かだからね。死んでしまった弟か誰かを思い出しているんだろう、そう思って。

 巫女はしばらく冥黙していた。それから目を開くとわしを見た。


「ごめんなさいね、サウルディアス。古いお友だちの事を思い出していたの。とても優しい子だったわ……ああ、でも、昔の事をいつまでも思い返していても仕方ないわね」

「うん……良いよ。大事な人だったの?」

「大事……」


 巫女は口をつぐんだ。ややあってから静かに続けた。


「そうね、大事だったわね……私には」


 何だかとても、悲しそうじゃった。わしは、聞いてはいかん事を聞いてしまったような気になってなあ。しばらくもじもじしとったが……もう一度、短い曲を吹いたのさ。思い出の為の曲をね。恋人たち、そして楽しい日々。巫女の不思議な存在感。そんなものを折り込んで曲を造った。       

 吹き終わると巫女は、微笑みを浮かべていた。


「ああ。彼を思い出す」

「彼?」

「エンディミオン」

「エンディ……?」


 わしは首をかしげた。聞いた事のあるような名前だったからね。すると巫女はこう言った。


「月にまつわる物語よ。女神に愛された少年の話を、聞いた事はない?」                  

 わしは思い出した。


「ああ、あの話だね。知ってる。神々に愛されたために、不幸になった羊飼いの少年。生きる事も死ぬ事もできずに永遠に……」

「神々は、愛情で人を不幸にしたりはしません」


 皆まで言わせず、巫女は厳しい顔で言った。 


「特に月の女神は。人間の思惑が所々の事柄に重なる時にこそ、不幸というものが生じるのです」


 わしはびっくりして言ったよ。


「でもエンディミオンは。月の女神、輝かしき面のディアナ様に愛された為、兄ぎみである太陽神アポロ様の呪いを受けて、死も生もない永遠の眠りにつかされたんですよ」


 巫女はためいきをついた。


「無知ゆえの暴言は許してあげよう、サウルディアス。エンディミオンの運命が女神のせいだとか、その兄上のせいだとか、そのように不遜ふそんな事は、もう言ってはなりません。エンディミオンの運命は彼が自分で選び取ったもの。彼が不運と言うのなら、それは彼の責任なのです」

「はい……でも」


 わしはまだ、釈然としない思いを抱いていたよ。すると巫女はこう言った。


「どうも、正しく話が伝わっていないようですね。それとも、あなたがまだ少年のせいなのか……」

「ああ、あの」


 巫女の顔には困惑したような表情があって、わしは何だかあたふたしてしまった。そんな顔をさせたかったわけじゃなかったからさ。それで、赤くなりながら言った。


「俺は本当は聞きかじっただけで、詳しい事は知らないんです。不興を起こさせてすみません、巫女さま。確かに、神々には失礼な事を言いました」


 子どもだから物事がわからない、なんて思われるのが嫌じゃったんじゃな、わしは。確かに、よく知りもしないであれこれ言う事は恥ずかしい事だとも思ったし。

 巫女は頷いた。それでわしはほっとした。で、ついでに頼んだのさ。良ければ、エンディミオンの話をしてくれってね。                    

 巫女は快く承諾してくれた。笛の礼だと言ってね。そして狩人の女神様と羊飼いの少年の、悲しい話をしてくれたよ。先々代の巫女が神憑りになった時、語られた話だと前置きしてね。



 今から言うのがその話さ。


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