序章
序章
その男は酒場で、ひどく浮いて見えた。
「やあ、兄弟。お前さんの神に乾杯しよう」
私が声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。フードの下にある顔はまだ、若いようだった。
「ありがとう。あなたの神にも」
男はそう言って、杯を上げた。言葉のアクセントがどこか、この国のものとは違っていた。
「旅行中かい?」
「そんな所です」
「どこからここへ?」
男は遠い東の国の名を上げた。私には、さっぱりわからない国の名前だった。
「ひゃあ……ずいぶん遠くから来たんだな。それでどこまで行くんだい?」
「あてはありません」
男は目を伏せたまま、そう言った。
※ ※ ※
その夜、私たちはお互いの健康を祝い、何度も杯を交わした。異国の男は話がうまく、私は興じて手を叩いた。珍しい国々の話は面白く、時を忘れさせた。男は驚くほど様々な場所を旅し、あらゆる事柄に通じていた。
「たまげた奴だなあ、お前さんは」
何度となく、私はそう言った。
「どうしてそう、いろんな事に詳しいんだ? 見れば、まだ若そうなのに」
「私は若く見えますか」
フードの下で男は、微かに笑ったようだった。ようだ、と言ったのは、彼がフードを取らないので表情がよくわからない為だ。獣脂のランプの灯は暗い。彼の顔は巧妙に、影の中に隠されている。顔を見せたくないわけでもあるのだろうと、深く詮索はしなかった。この町は様々な旅人が立ち寄る通過点と言うべき町だ。時には、顔や素性を知らせたくない旅人もいる。
どこかに苦々しげな響きを込めて、男は言った。
「若く見えますか……そうですか。実際には、かなり年を重ねているのですよ。見かけはこうですが」
違和感があった。一瞬だったが、私は目の前の人物に違和感を覚えた。得体の知れない何かが彼の中に潜んでいる、そんな気がした。
「そりゃ、悪い事を言ったね」
けれどそんな違和感を押し隠し、私は頭を掻いてみせた。
「しかし、うらやましいよ。そんなにあちこちを旅したなんて。しかも若く見えるとくれば、女にもさぞ、もてたろう?」
男は笑った。伏せていた目が上がり、ランプの灯を映した。そのとき私は、違和感のわけを悟った。目だ。この男の目はまるで、深淵の沼底のように果てがない。伝説に聞く不死の種族のように……。男には、若い外見からはおよそ不似合いな、老成した部分があった。いったいこの男は何者だろう。それとも郷里を離れ、はるかな異国を旅する運命の男たちは皆、この男のような目をするようになるのだろうか。
「しかし夜がふけましたね」
またひとしきり杯を重ねた後に、男は言った。酒場の人影はまばらになり、店のおやじも眠たそうにあくびをしながら、皿を磨いている。
「そうだな。でもまあ、今から帰っても目が冴えちまって……お前さんの話を、できるならもっと聞いていたいよ。ああ、お前さんさえ良ければの話だが」
「私は構いませんよ。あなたにはどうやら、人をくつろがせる才がおありのようだ」
男は言った。
「ここ数年、感じた事がなかった程に気分が良い。話していてこんなに楽しいのは久しぶりだ。どうせ、あてがあるわけではないし、つきあいますよ」
「じゃあ、話は決まった。おい、おやじ」
私は店の主人を呼んだ。人の好い赤ら顔の男は、太った体をゆすりながら急いでやって来た。
「酒の入った壺を、もう一つ持ってきてくれないか。この後は俺たちで勝手にやるから」
目の隅に、一緒に飲んでいた二人連れが立ち上がるのが見えた。これで今夜は、この店もしまいだろう。
「気楽な身分ですねえ、旦那も」
恰幅の良い酒場の主人は、困ったような笑顔を浮かべると、私たちの前にエールの入った壺を置いた。
「今夜はこれで、もう終わりですよ。私はもうやすみますからね」
「すまないね」
私は陽気に手を振った。店のおやじは首をふりふり私たちのテーブルを離れると、後片付けを終わらせて奥の部屋へとひっこんだ。
「いつもこんな調子ですか」
異国の男が笑って言う。
「ああ、まあね。もう顔馴染みさ、この店は。俺の話好きは今に始まった事じゃないし、皆知っているよ。
さあ、それより、何か話してくれないか。酒はここだし、夜は長い。かてて加えてお前さんの話はめっぽう面白いときている。さあ、まずは喉をしめして」
「仕方ありませんね。では」
男はつがれた酒を一口すすった。
それから男は、様々な話をしてくれた。私自身、多くの話を知っていると自負してはいるものの、この若い男の知識の豊富さにはかなわなかった。男の話はどれもひどく不思議で、聞いた事もなく、珍しかった。
男への返礼として、私もいくつか話をしたが、どうも男はそのどれもを既に知っているように思えてならなかった。話を聞いている間のしぐさ、一つ一つが、ひどく懐かしそうに見えたからだ。一体、この男は、どれだけの物語を知っていると言うのだろう。
男の話には、竜や魔物の話もあった。しかし私が驚いた事には、男は決して、それらを悪しきものとしては語らなかった。まるで現実にその目で見、言葉を交わしてきたかのように、敬意を持ち、親しみを込めてそれらの物語を語った。私はあんな語り手には、今も出会った事がない。
「あんたの口ぶりだと、奴らが良いもののようだね」
不思議に思って尋ねると、男は微かに笑った。
「私の話し方には、人間にはあまり楽しくない所もあるでしょうね。……魔物、というとあなたは、どんなものを想像されますか」
「怖いもの……だな。神々に反逆するもの、とか。とにかく人間に害を与えるものだ。良くないものさ。残酷で、醜くて、悪賢くて」
「魔物の側からすれば、人間こそがそうなのかもしれませんよ。人間ほど、何の理由もなく同族を殺したりできるものはありませんからね。動物が相手を殺すのには、全て理由があるのです。魔物でさえ。けれど人間は、理由もなく相手を殺せる存在です」
「魔物の方が良い存在みたいに聞こえるな。でも魔物は魔物だから悪いんだぜ」
私の言葉に男は、ちらりと苦笑を浮かべた。
「私は遠く、異国を旅しました。旅の間には、色々なものを見聞きしました。ここでは信じられないような風習を持つ国もあるし、魔物としか思えないような像を、『神』として祭っている国もあります。そうした中にいると、わからなくなりますよ。魔物とは何なのか。何をもって『悪』とするのか。……魔物とは何なのでしょうね。魔物は魔物だから悪いのでしょうか。剣を持った者に倒されても、魔物だから退治されても良いのでしょうか」
「当たり前じゃないか」
事も無げに言い切ると、男はふと、沈黙した。どこか悲しげだった。
「私には、そうは思えません。現在『魔』と呼ばれているものたちの多くは、かつては偉大な力を持った精霊であったのです。竜と呼ばれるものですら、今とは違う名で呼ばれ、尊敬されるものだった」
「昔はどうでも、今は悪いものさ。魔物なんだから。それが嫌なら、魔物じゃないものになりゃ良いんだ」
「魔とは、変わらないからこそ魔なのですよ」
小さく男が言った。
「変わるのは人間だけです」
そうして私の意識が朦朧としはじめた頃。男は不思議な物語を始めた。
「かつて神であり、今は魔と呼ばれるものの中に、古代の美しい神々もおります。人は変わり、魔は変わらぬもの。そのゆえの悲劇をお話しましょう。
あなたが聞いて、楽しい話かどうかはわかりませんが……」
「聞きたいよ。話してくれ」
ろれつのまわらぬ口で頼むと、男は躊躇した。確かにそう見えた。滑らかに話しだす今までと違っていたので、印象に残ったのだ。それまでは、どんな物語も記憶が途切れたり、つっかえたり、そんな事もなくすらすらと語られていたし、思い出すという作業すらしないで済むようだったのに。
しかしすぐに、口を開いた。
「では、お話しましょう。これはここでは魔と呼ばれる、月の女神を崇めていた地方で聞いた物語です。かの女神に愛された、少年の物語です。私がこの話を聞いた時、語ってくれた老人は、少年時代に聞いた話だと言いました。彼は笛の名手で、近隣では知らぬ者とてないほどの人物でした。彼の笛を聞きに、遠くから名のある人物が訪ねてくるほどでした。もし彼が都に出れば、ひとかどの者になれたでしょう。
しかし彼はそうする事もせず、小さな村に留まって、日々の暮らしの中で笛を吹き続ける事を選んでいました。彼の笛は近隣の者の安らぎであり、獣たちすらこれを喜んで聞いていました。また彼は、天空をよぎる日や月、そして星に、自分の笛を捧げる事を誇りにおもっておりましたから……。
これは、そういう男から聞いた話です。
昔、偉大な皇帝の治める地であった所。その果ての小さな村で……」
男は語りだした。