三十九話 奇跡
何もない真っ白な空間に、二つの人影が浮かび上がる。
徐々にその姿がはっきりとしてきた。一人は明るい茶色の髪をした男だ。革の鎧を着て腰に剣を下げ、床に引きずるほどの長いマントを羽織っている。
もう一人は、鮮やかな緑色の長い髪を持つ若い女性。ゆったりした白い衣に身を包み、その腕に赤子を抱いている。
「ああ見て、この子あなたにそっくり」
女性に寄り添うようにして赤子の顔を覗き込んだ革鎧の男が精悍な顔に微笑を浮かべる。
「どのような子に育つだろうか」
「きっと強くて優しい子に育つわ」
緑色の髪の女性が愛おしそうに赤子を抱きしめる。それは愛に溢れた家族の姿だった。
二人の男女とその子の姿が消え、また人影が浮かび上がる。
先ほどの革鎧を着た男に向かい合って立つのは、彼と似た姿の壮年の男だ。
「我が王、妃殿はどちらへ?」
壮年の男が革鎧の男に問いかける。革鎧の男は、彼にとって王のようだ。
「いずれまた戻る。あやつは人と同じようには生きぬ」
「我が王、いくら妃殿が我らに加護をもたらすものだとしても、三日や四日も戻らないなど許されぬことでは?」
「……王子は乳母たちが見ている。あやつにとっては人、獣、草木すべてが友人なのだ」
王はそう言って、壮年の男に背を向けた。しかし王の臣下も食い下がる。
「我が王、あの方には人の心など理解できますまい。王子殿下はさておき今、妃殿が宿している子が我が子だと断言できるのですか? 行きずりの男や野獣の子だということも考えられるのでは」
「我が妃を侮辱するな、オズバール」
王が臣下の方に振り返り、剣を抜いて突き付けた。
「我が王、私めは貴殿を心より敬っております。ですが民はそうではありません。精霊様ばかりに心酔し、貴殿を歯牙にもかけぬ者ばかりです」
鋭い刃を目の前にしながら、オズバールと呼ばれた臣下は怯むことなく話し続ける。
「このままでは王の権威が霞んでゆくばかり。貴殿はそれに甘んじるというのですか」
「余が求めるのは権威ではない。永遠の平穏だ」
「我が王、何度でも申し上げます、妃殿は人ではないのです。貴殿がこの先老いていっても、あの方は今と変わらぬ姿のまま。この先も人ではないものがこの国に君臨し続け、我らを弄んだ末に見捨てるやもしれないのです」
王はそれに何も答えなかった。
やがてまた景色が変わる。木と革でできた玉座、その手前で剣を抜いて立つ王。その切っ先が伸びる先には、苦し気に顔を歪めてうずくまる緑色の髪の女性。
「なぜ……!」
女性が顔を上げて王を睨む。
「なぜわたしに剣を向けるの」
「そなたには分からぬ。人ではないそなたにはな」
王は冷ややかに告げた。
「その腹にいる子も、我が子ではないのだろう」
「違う、あなたの子。わたしはあなたの子しか産まない」
荒く息をしながら訴える女性に対し、王は剣を下ろすことはしなかった。
「そなたに人の国へ踏み入る権利はない。その力を余に渡せ。王こそが、民を導くべきだ」
「いいえ、わたしの力は渡さない」
緑髪の女性は手を伸ばし、背後にある玉座を指さした。
「わたしはここを去るが、王国はこれからも安寧の地であり続ける。しかし、それは王の魂と引き換え。王とその血を継ぐ子が玉座に身を捧げ続けなければ、わたしの加護は永遠に失われる」
そう言い残し、身を起こして地面を蹴って飛び、風に吹かれた霧のようにその姿を消した。
すべてが消え、また現れる。一人佇む王のもとに、若い男がやって来て膝をついた。
「我が王、オズバールは捕らえて処刑致しました。王の妃殿に対する不信を煽り、国家を転覆させて王座を奪うことが狙いであったと最期に白状しています」
「……そうか」
王は力なく答え、男を下がらせた。
「……それでも、余の罪が消えることはない。下らぬ戯言に心を乱され、最愛の者に刃を向けた罪を、余と子供たちは永遠に背負い続ける。それが守るべき民たちへの償い」
王は言葉を切り、天を仰いだ。
「そなたともう会うことは無いのだろうな。再び相まみえることができたなら……我が不徳を心から詫び、愛していたと伝えたいものだ」
王の姿がかき消える。浮かび上がったのは力なくくずおれる緑色の髪の女性だった。
「ああ、どうしても解呪ができない……」
己の両手を見つめ、呆然とした様子で女性が言う。その手で自分の体を抱くようにして、彼女は涙を零した。
「わたしは何も分かっていなかった。幸せを自分の手で壊してしまった」
女性はその場に体を横たえた。その体がどんどん痩せ衰え、髪は白くなり手足は枯れ木のように変わっていく。
「……愛していた」
その言葉を最後に、彼女は姿を消した。
***
知らない人物ばかりが出て来る夢から覚めたエリーズの目に映ったのは、石でできた天井だった。
がばっと身を起こし周囲を見渡す。壁や床を覆い尽くしていた蔓は一本残らず消えていた。そして、隣に仰向けで倒れているのは――
「ヴィオル!」
エリーズは夫の顔を覗きこんだ。その目は固く閉じられたままだ。しかし胸は上下している。生きている。
「ヴィオルお願い、目を覚まして!」
彼の上半身を抱き起こし、エリーズは必死に呼びかける。声が届いたのだろうか、ヴィオルの目蓋がわずかに動き――やがて紫水晶がエリーズの姿を映した。
「エリーズ……?」
耳を澄ませなければ聞こえない程の小さな声。しかし確かに妻の名前を呼んだ。
「そう、わたしよ! あなたのエリーズ!」
「……随分、都合のいい……夢だな……」
ぼんやりとした様子でヴィオルが言う。彼はまだ自分が呪われた玉座に身を捧げ、この世のものではなくなったと思いこんでいる。
「ヴィオル、これは夢ではないの。全部、現実よ」
涙を堪えながら、エリーズはだらりと垂れたヴィオルの手を取り強く握った。
「あなたは生きているの。何もかも今まで通り。わたしもここに、あなたの傍にいるの!」
どこか虚ろだったヴィオルの瞳に、徐々に光が戻る。は、と小さく息を漏らし、彼は空いている手をエリーズの頬にそっと沿わせた。
「エリーズ……!」
ヴィオルの全身に力が戻った。両方の手袋を脱ぎ捨ててもう一度エリーズの頬に触れ、銀色の巻き毛を撫で、細い手指の感触を確かめるようにそっと握る。
「ああ、エリーズ!」
ヴィオルはエリーズの体をしっかり抱きしめた。強すぎる程の力だったが、エリーズにはそれすらも喜びだった。お互いに生きているのだということを実感できる。エリーズもありったけの想いを込めて抱擁を返した。
少し経ったところでヴィオルは力を緩め、エリーズの顔をまじまじと見た。
「どうして君がここに? ……いや、そもそもどうして僕は生きているんだ」
エリーズが答える前に、視界の端で何かが光った。二人揃ってその方に目をやる。そこは国王たちの魂を食らってきた玉座が置かれていた場所だ。しかし今、それは影も形もない。代わりにその場所に立っていたのは、幾重にも枝分かれした角と若葉の色をした輝く毛並みを持ち、そして純白の美しい翼を背に生やした一頭の牡鹿だった。その姿はアルクレイド王国の国章に描かれているものと全く同じ――初代国王と共に国の始祖となった、大地の精霊だ。
エリーズとヴィオルはその姿に向かい、反射的にさっと膝をついた。初代国王のもとを去った後の精霊の姿を見た者は誰もいなかった。しかし今、二人に向かいゆっくりと歩み寄ってくる精霊は、決して幻ではない。
普通の牡鹿より二まわりほど大きい体躯の精霊は、深い緑色の瞳でひざまずく王と王妃を見つめ、その場で一度翼をはためかせた。するとその体が一瞬にして小さくなり――長い緑色の髪をした若い女性の姿に変わる。
(この方は、さっきの夢の)
一人の男と愛し合い子を授かり、しかしその男から剣を向けられ、強い呪いを残し絶望に沈んだ女性。彼女がにっこり笑って身をかがめ、ヴィオルとエリーズをまとめて抱きしめた。初夏の風のような香りがエリーズたちを包む。
「ありがとう」
小鳥のさえずりに似て愛らしく、小川のせせらぎのように心地よく澄んだ声だった。
女性の姿をとった精霊が立ち上がり、両手を広げる。すると何もない床からいくつもの光の玉がふわふわと浮き出て、精霊の体に次々と吸い込まれていった。
「わたしの祝福は永遠に続く。それは呪いではなく愛によって。わたしの子供たちがそれを忘れない限り、花はずっと咲き続ける」
歌うように言った後、精霊は後ろを振り返った。先ほどまで玉座があった場所にまた別の人影が立っている。全身が真っ白な光で覆われており、顔は分からなかったが体格は立派な男性のものだ。精霊がエリーズたちに背を向け、その方へ軽やかな足取りで向かって行く。彼女には、あれが誰か分かっているのだろう。
精霊は人影としっかり手を繋ぎ、もう一度エリーズたちを見た。無邪気な笑顔を向ける姿がだんだんと薄くなっていく。
やがて大地の精霊は、人影と共に跡形もなく消え去った。
エリーズとヴィオルはしばらく呆気にとられて精霊がいた場所を見つめていた。一足先に我に返ったエリーズがあるものに気づき、ヴィオルの肩をぽんぽんと叩く。
「ヴィオル、あそこに何かあるわ」
二人でその場所に駆け寄った。石の床を突き破るようにして、一輪の花が咲いている。百合に似た形の、淡く白い光を放つ花だ。
「綺麗なお花。精霊様が咲かせてくださったのかしら」
「……これからは、この花が王国を守ってくれる」
ヴィオルが呟くように言い、隣にいるエリーズを抱き寄せ勢いに乗せてその場でくるりと一回転する。
「呪いはもうどこにもない。これ以上誰も苦しまなくていいんだ……!」
アルクレイド王国の物語に、新たな頁が足された――エリーズは夫の胸に顔をすり寄せた。
「嬉しい……!」
顔を見合わせ二人で笑い合う。今にも触れ合いそうになった唇は、聞こえてきた足音により寸前で止まった。誰かが走ってヴィオルとエリーズのもとへやって来ようとしている。
暗がりの中にランプの光が一つぼうっと浮かび上がる。その後に続いて現れたのは――明かりを手にしたジギス、ローヴァン、そしてリノンだ。
「陛下!」
「ヴィオル!」
「エリーズ!」
リノンが我先にとエリーズに駆け寄り、押し倒さんばかりの勢いで抱き着いてきた。
「リノン……」
「うわああああん! 生きてる、エリーズが生きてるよぅ!」
友人を抱きしめて大粒の涙を流すリノンとは反対に、ジギスとローヴァンは何が起きたのか分からない、といった表情で国王と王妃を交互に見るばかりだ。
「扉が急に開いたから何事かと思って来てみれば……ヴィオル、一体何があった?」
ローヴァンの問いに、ヴィオルは穏やかに答えた。
「奇跡が起きたんだよ」
「玉座がない……この花は一体何なのです」
ジギスは精霊が残していった白い花を凝視している。
「この先、永遠に枯れない花さ」
「呪いが消えたということですか……?」
「信じられん……だが、本当に奇跡としか言いようがないな」
ローヴァンが言い、未だにエリーズを離さずおいおいと泣き続ける妻の様子を見て顔をしかめた。
「リノン、一旦離れろ。王妃殿下がお困りだ」
「ぐすっ、だってぇ、もう会えないと思ってたのにぃ。ほんとは行って欲しくなんかなかったんだよぅ!」
「リノン、心配をかけてごめんなさい」
リノンの背に手を回し、優しく擦りながらエリーズは顔だけを動かして最愛の人の方に目をやった。その視線に気づいたヴィオルは、心底幸せそうな笑顔を返してくれた。




