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二十一話 一番大切なもの

 その夜。エリーズは寝台の上に座り、ヴィオルが帰るその時を待っていた。今まではエリーズが先に眠っていたが、ヴィオルときちんと話そうと思うなら彼がこの寝室に戻ってくるときを狙うしかない。今夜は何が何でも起きたままでいるつもりだった。

 気を紛らわせるため、エリーズは首から下げたお守りの石を指でそっとつまんで見つめた。公務に出かける際も小さな袋に入れて極力持ち歩くようにしているが、実際に身につけるのは久しぶりだ。

 この首飾りを手に入れたのはエリーズが九歳の時だった。両親が相次いで亡くなりゲオルグがガルガンド伯爵代理としてやって来て三年。その時には既に元々いた使用人が半分以上も解雇されており、エリーズも家事を手伝わなければならない状況だった。

 そんなある日のこと。水を汲むため屋敷の裏手にある井戸へと向かった幼いエリーズの目に映ったのは、地面に倒れ伏す見慣れない人影だった。

 エリーズは慌ててその人物のもとへ走り寄った。そこにいたのはぼろぼろの衣服をまとった老婆だった。エリーズの知らない顔で、どこからやって来たのかは知れなかったが構うことなくエリーズは老婆の体に手を添えて声をかけた。


「お婆さん、大丈夫?」


 老婆はゆっくりと顔をあげた。肌は丸めて捨てられた紙屑のようにしわくちゃで、目は窪んでおり見えているのか分からない。


「み……ず……」


 蚊の鳴くような声を聞き、エリーズは大きく頷いてみせた。


「待っていて!」


 エリーズは持っていた桶を抱えて井戸の傍まで走り、滑車にかけられた縄の先に吊るして水を汲み上げた。まだ非力なエリーズにとっては骨の折れる作業だが、今はのんびりしていられない。

 桶いっぱいに水を汲んだ後は近くの納屋まで急ぎ、手頃な大きさの比較的綺麗な入れ物を手に取って老婆の元へ戻る。入れ物で汲んだ水をすくい、老婆の方へ差し出した。


「どうぞ、お婆さん」


 老婆がわずかに震える手で水の入った入れ物を受け取り、こくこくと飲み干した。入れ物から口を放し、彼女はわずかに笑みを浮かべた。


「助かったよ……お嬢ちゃん、ありがとう……」


 先ほどまで息も絶え絶えだったが、水を飲んだことで回復したようだった。エリーズはほっと胸を撫でおろした。


「お礼をしないと、いけないねぇ……」

「そんなの気にしないで」


 困っている人がいたら助けてあげなさいというのは、エリーズの母の教えだ。彼女はそれを口で言うだけではなく、エリーズを連れて自ら病人や身寄りのいない老人のもとを訪ね、献身的に励ます姿を娘に見せ続けていた。エリーズは幼いながらに、母のその姿を美しいと思っていた。

 見返りを求めないエリーズに対し、老婆はいいやと頭を振って懐を探った。


「優しいお嬢ちゃんには、これをあげよう……」


 老婆が取り出したのは、緑色の石に留め具と紐をつけて首にかけられるようにしたものだった。老婆はエリーズの手を引き寄せ、手のひらの上にそれをそっと置いた。陽光を受けて石の緑色が濃淡を生む。一面に広がる草原がそよ風を受けてざわめく様子に似ていた。


「わたしにくれるの?」

「もちろんあげるよ……これはねぇ、お守りなんだ。お嬢ちゃんに何か困ったことがあったら、助けてくれるよ……だからねぇ、大事に持っておくんだよ」

「ありがとう、お婆さん」


 エリーズが礼を言うと、老婆は満足そうに頷いてそっと立ち上がった。腰が曲がり切っているため、エリーズと背丈があまり変わらない。


「さて、もう行かなきゃねぇ……」


 それを聞いたエリーズも立ち、もらった首飾りをポケットにしまって彼女の体を支えた。


「お婆さん、おうちはどこにあるの? わたしが一緒に行くわ」


 勝手なことをしてはゲオルグに叱られてしまうだろうが、このまま老婆を放ってはおけなかった。水を飲ませたとはいえ、弱っているのには変わりない。


「あたしにはねぇ……そんなものはないのさ」


 何らかの事情で家がないのであれば、猶更のこと送り出すわけにはいかない。エリーズは慌てて老婆にすがった。


「お婆さん、だったらわたしのおうちで休んで。でないと病気になって死んでしまうわ」


 しかし老婆は首を縦に振らなかった。エリーズの顔を見て、ふっと微笑む。


「本当に良い子だねぇ……いいんだよ。あたしはもう十分に生きた……役目は終えたんだよ」

「でも……」


 食い下がろうとしないエリーズに老婆が手を伸ばし、エリーズの頬を優しく包んだ。両親を亡くしてから長らく味わっていなかった温かさに、エリーズは思わず言葉を切った。


「優しい可愛い王女さま、あたしのことを思ってくれるなら……さっきあげたお守りを、大事にしておくれ……それだけで、十分だよ」


 老婆からこれ以上、エリーズの世話になるつもりはないということが伝わってくる。エリーズは素直に頷き、老婆の手を握った。


「分かった。大切にするわ。絶対になくさない」

「ありがとうね……さあ、もうお行き……」


 後ろ髪を引かれる思いがありつつも、エリーズは水を汲んだ桶を持って屋敷へと戻った。後になってもう一度、老婆と会ったところに行ってみたが――彼女の姿は、もうどこにもなかった。

 力が及ばず老婆に水を差し出すだけしかできなかったことは、今も小さな後悔としてエリーズの胸の奥に残っている。せめて彼女が願ったことは守りたいと、貰った首飾りは今もこうして持っている。使われているのは美しい色合いを持つ石だが、人智を超えた力があるわけではない。しかしエリーズにとってはずっとこれが心の支えだった。この後、絶望的な真実が夫の口から語られるとしても耐えられるだけの力が欲しいと、エリーズは緑色の石をきゅっと握った。

 その時、寝室の扉が静かに開けられた。


「エリーズ……?」


 物思いにふけっていたエリーズははっと部屋の入り口に顔を向けた。ヴィオルが驚きの表情を浮かべながら妻のもとにやって来る。


「まだ起きていたの? もう随分と遅い時間なのに」

「……ヴィオルとどうしてもお話ししたいことがあるの」


 ヴィオルは少し戸惑ったような様子だったが、エリーズの隣に腰を下ろした。


「……何だい?」


 疲れているから、と邪険にすることもはぐらかすようなこともせず、ヴィオルは話を聞く姿勢を見せる。それは今までと何ら変わりない姿だ。

 既に胸がきゅっと締め付けられるような感覚に陥っているが、エリーズは覚悟を決めて切り出した。


「ヴィオル……わたしのことを愛せなくなったなら今、正直にそう言って」

「え……!?」


 彼の戸惑いの色が一層濃くなる。訳が分からない、という顔をしながらも、ヴィオルはエリーズの膝に置かれた手に自身のそれを重ねた。


「エリーズ、僕が君を愛さないだなんてあり得ないよ」

「お願い、わたしのことなんて考えなくていいから本当のことを言って」

「僕は事実しか言ってない」

「だったらどうして何も話してくれないの!」


 エリーズはヴィオルの手を払いのけ、声を張り上げた。


「ヴィオルが忙しいのは分かるの。あなたは国王だから、誰よりも頑張っている人だから、毎日同じ時間に眠れるとは限らないって分かっているの。でも、大変だというのならわたしにその一言だけでも言って欲しいのよ……!」


 声を震わせながらも、エリーズは言葉を切らなかった。


「わたしができることなんて、無いに等しいのかもしれないわ。でも、わたしが何を聞いてもヴィオルは大丈夫しか言わなかったでしょう。何に困っているのかだけでも教えて欲しいの。今のままでは一緒に悩むこともできない。わたしを避けているのかしら、もうわたしのことを愛せなくなったのかしらって……わたし、最近そればっかり考えてしまうのよ……! もし他に好きな人がいるのなら、はっきり言ってくれれば……あなたから愛されることを、諦める努力ができるの……!」


 夫婦の問題を涙で解決したくない。だから泣くまいとこらえていたが、とうとう大粒の涙がエリーズの頬を伝い始めた。それを見たヴィオルの顔色が、戸惑いから絶望に似たものへ一変する。


「エリーズ……ああ……ごめん……」


 彼が手を伸ばし、エリーズの目から零れる涙を指で拭う。とめどなく溢れるそれを一滴も落とすまいと、ヴィオルはエリーズの涙をすくい続けた。

 久しぶりに感じる夫の温もりが、エリーズの心にじんわりとしみ込む。まだ彼を愛しているのだと実感させられた。


「……エリーズ」


 妻が泣き止みかけたのを見計らい、ヴィオルが語り掛ける。


「僕は君だけを愛している。この気持ちだけは絶対に変わらない。撤回しなければ殺すと脅されたとしても、従うつもりは一切ない」


 その口ぶりや眼差しから、ヴィオルが本心を未だ(かた)り続けているとはエリーズには思えなかった。だとすれば、彼は妻に黙って一体何をしていたのだろう。


「僕が間違っていた。全部説明するから、少しだけ待っていてくれる?」


 目じりに溜まった涙を拭いながらエリーズが頷くと、ヴィオルは寝室の隣にある国王の私室へと消えて行った。程なくして戻ってきたヴィオルが持っていたのは、貴族の女性なら必ずといっていいほど持っている宝石箱だった。


「ここのところ忙しくしていたのは、この中身を集めるためだったんだ」


 ヴィオルがエリーズに向けて宝石箱を開けて見せる。中に収められていたのは、色とりどりの宝石が使われていたり精巧な金や銀の細工が施された装飾品の数々――それらを見つめ、エリーズはぽつりと呟いた。


「お母様の……?」


 装飾品の中には、エリーズが見覚えのある品が多くあった。生きていた頃の母が身につけていたものだ。しかし、それらは義妹のジェゼベルが自分のものにしてしまい、最終的には彼女らが作った借金を返すためほぼ全てが売られてしまったはず。なぜヴィオルが持っているのだろう。


「君の家から目録が見つかってね。それを頼りに、売られていった装飾品をずっと探していた。本当なら、君のお母上から君に受け継がれるはずだったもので、君の手元にあるべきものだったから」


 エリーズは弾かれたように顔を上げ、ヴィオルの目を見た。


「僕の帰りが遅かったのは商人たちを動かして集めた情報を整理するのに費やしてしまったからで、君と別行動をとることが多かったのは現在の持ち主のところに赴いて、買い取りの交渉をしていたからだよ……優しい君のことだから、僕のしていることを知ったら遠慮して止めるだろうと思ったから言わずにいた。リノンたちにもずっと口止めをしていたんだ」


 でも、とヴィオルは肩を落とした。


「結果として、君を追い詰めてしまった。ガルガンド家は王都からそこまで離れていないのに、苦しい思いをしていた君にずっと気づけなかったことが悔やまれて……償うつもりだったのだけれどあまりにも意固地になってしまって、一番大切なことを忘れていた。エリーズ、本当にごめん」

「……わたしの方こそ、ごめんなさい」


 ヴィオルはずっと、エリーズのことを想って動き続けていたのだ。それを少しも察することなく、他に好きな相手ができたのだろうと思い込んで――なんて浅はかだったのだろうと、エリーズの目に再び涙が滲む。


「わたし、何もかも勝手に独りで悪い方にばかり考えてしまっていたわ。ごめんなさい、ヴィオル、あなたのことを疑ってごめんなさい……!」

「謝らないで。悪いのは全部僕だ。ずっと君に本当のことを言わなかったんだから知れるはずもない」


 それに、とヴィオルは続けた。


「目録にあったものをまだ全部取り戻せていないんだ。商人たちと一緒に調べているんだけれど……どうやら残りは国外に流れたらしい。今までよりも買い戻すのに手間がかかると思う。ごめん、でも必ず取り戻すから」

「もういいの。ヴィオル」


 エリーズはゆっくりと首を横に振った。


「もう十分よ。ありがとう。後は大切にしてくれる人のところに渡っていることを願うわ。お母様もきっと、それで良いって仰ってくださるはずよ」


 エリーズは宝石箱から青い宝石がはめられた指輪を手に取った。輝く装飾品の数々に興味を持ったエリーズの小さな指に母がこの指輪をはめて、まだ少しあなたには大きいかしら、と笑っていたのを覚えている。


「わたしのために本当にありがとう。お母様も絶対に喜んでいらっしゃるわ……だから、明日からは今まで通りにわたしと過ごして? それがわたしにとって、一番幸せなことだから」

「エリーズ……」


 エリーズは指輪を宝石箱に戻して蓋を閉じ寝台の横の小さなテーブルに置いて、ヴィオルの胸に飛び込むようにして抱き着いた。彼にぎゅっと抱きしめ返されて、心地よい安心感に包まれる。

 しばらく愛する人の温もりを味わって、エリーズは彼から体を離して微笑んだ。


「一番失くしたくないものは、ちゃんと持っているの」


 そう言って、首から下げたお守りを示す。


「僕と初めて会った日も、それをつけていたね」

「そう。小さい時に知らないお婆さんから貰ったの。倒れていたところをわたしが見つけて……お水を飲ませてあげることしかできなかったのだけれど、そのお礼にって」

「……君は、本当に優しいね」


 ヴィオルはそっとエリーズの髪を撫でた。


「でも怒ることを覚えた方がいい。例えば今、僕に対して」

「そんな、怒るだなんて……」


 真意を言わなかったとはいえ、自分のために駆けずり回ってくれた相手を怒る気になどエリーズはなれなかった。しかしヴィオルは真剣な様子だ。


「妻を泣かせた男には、相応の罰が下るべきだ。君の気分が晴れるなら何だって受け入れる」

「……それは、その、わたしのお願いを聞いてくれるということ?」

「そうだよ。何でも言って」


 それなら、とエリーズは再びヴィオルに抱き着いた。


「わたしがもういいって言うまで、キスして欲しいの」

「……それじゃあ、僕にとっては罰でなくてご褒美になってしまうよ」


 でも、とヴィオルはエリーズに顔を寄せ額同士をくっ付けた。


「君が望むなら、百回でも千回でも」


 ずっと恋しかった、愛する人との口づけ――エリーズは目を閉じて、存分にそれを味わった。

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