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二話 紫水晶の君

 今日もエリーズにとっては変わり映えのない、あくせく働くだけの日で終わるはずだった。

 ゲオルグとジェゼベルに朝食の給仕をして、その後片づけを済ませたところで再びエリーズは二人に呼びつけられた。今度は何かしらとゲオルグの書斎に向かうと、義父と義妹はにこやかにエリーズを出迎えた。エリーズに何か言いつけるときの二人はいつも不機嫌そうな様子なのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。


「あの……何のご用でしょうか?」


 何か粗相(そそう)をしてしまったかしら、朝からの仕事に不手際はなかったはず……エリーズが内心びくびくしていると、ゲオルグが口を開いた。


「今夜なんだがな、国王陛下の誕生日を祝う夜会が王城で開かれるんだ」

「そうなのですか? でしたら今からお父様とジェゼベルの支度をしないと……」


 すっかりこの屋敷の下女となっているエリーズにとって、国王など雲の上より更に高いところにいる人物だ。情報を得る機会も少なく、知っているのは彼はまだ三十歳に届かない若い男性であることと、安定した治世を行っていることくらいだった。

 エリーズの頭に浮かぶのは、家事と並行しながら夜会に向けての支度をどう行うかの段取りだけだ。特にジェゼベルは出かけるとなると髪型からドレスに至るまで、自分の納得いく姿になるまで延々とエリーズに髪結いや着替えを手伝わせる。

 だが、ゲオルグの隣に立つジェゼベルの口から放たれた言葉はあまりにも意外だった。


「エリーズ、あんたも一緒に行くのよ」

「えっ!?」


 エリーズは目を見開いた。一般的な貴族の令嬢が夜会に参加するのは十五、六歳になってからだ。エリーズは十歳にならない頃からずっと屋敷で働きづめの日々を送っていたため、無論王家や他の貴族が開く催しに足を運んだことなどない。それらに行くのはいつもジェゼベルだ。


「で、でもわたしはお仕事がありますから」

「お前はいつも頑張ってくれているからな。今日くらいは羽を伸ばしてもらいたいんだ」

「国王様に会ってみたいでしょ? ヴィオル様は『紫水晶の君』って呼ばれるとってもかっこよくて素敵な人なのよ!」


 ヴィオル――それが現国王の名らしい。

 もちろんエリーズにも、(きら)びやかな夜会への憧れはある。国王の誕生日を祝うのだから、きっと国中の貴族が集うのだろう。

 もしかしたら、素敵だと思える人物に出会えるかもしれない。その人から愛されることまではさすがに望み過ぎだが、恋がどのようなものなのかを知れるかもしれない。

 そう思うと、エリーズの胸は高鳴った。


「ありがとうございます、お父様」


 エリーズはゲオルグに向かい、深々と頭を下げた。


***


 そしてその夜、ゲオルグとジェゼベルに連れられてエリーズも馬車に乗り、生まれて初めての王城に足を踏み入れた。

 祝宴の会場である大広間は、抜ける程に天井が高い。数百人が集まっていても狭いとは少しも感じなかった。エリーズが寝起きする屋根裏部屋の十倍以上もありそうな程の広さなのに、濃紺色の床は天上からぶら下がる巨大なシャンデリアの明かりに照らされ、ぴかぴかと輝いて塵一つない。真っ白な壁には美しい景色や王城を描いた絵画が飾られ、複雑な模様の彫刻がされた太い柱が四隅で部屋を支えている。これらを美しく保つ手間を考えると気が遠くなる程だ。この城では何人の使用人が働いているのだろう。

 広間の中央の奥には大きな階段が据えられていて、その先の二階には両開きの扉がある。その向こうはおそらく王族の住まいに繋がっているのだろう。

 密かに夢みていた夜会。しかしエリーズの心は早くも曇りはじめていた。


(わたし、まるで野草みたいだわ)


 どこを見渡しても、男性はぱりっとした燕尾服姿、そして女性は華やかなドレスを着て、髪も綺麗に結ったり目立つ飾りをつけている。赤、青、ピンク、黄色……彼女たちは大切に丁寧に育てられたバラのような美しさを放っている。

 エリーズは自分のドレスに目を落とした。袖の長い水色のドレスは、胸と腰のところにリボン飾りがついているだけの質素なものだ。エリーズの母親が(のこ)したドレスはすべてジェゼベルの小柄な体型に合うように仕立て直されてしまったので、彼女より頭ひとつ分ほど背が高いエリーズでは着られない。唯一、ジェゼベルの興味を引かずに残ったのがこの水色のドレスだった。屋根裏部屋の衣裳ダンスの奥に大切にしまっていたものの手入れをする時間がなかなか取れず、よく見るとくすみや(ほころ)びがあるのが分かってしまう。

 装飾品と呼べるものも、エリーズが身につけているのはたった一つの首飾りだけだ。親指の爪より一回りほど大きい緑色の宝石に、留め具と細い紐が繋がっているだけのこれまた簡素な作りだった。これが何という宝石なのかは知らないが、光にかざすと石の中で緑色の濃淡が生まれる様子がエリーズは好きだった。おそらく価値はないに等しいものだろうが、エリーズはこれをお守りとして幼い頃から大切に持っている。

 幸いにも思い思いに談笑する貴族たちはエリーズのことなど気にも留めておらず、笑われたり後ろ指をさされることはなかった。ゲオルグとジェゼベルは友人に会うと言って行ってしまったため特にすることもない。野草のようにしかなれずとも、隅に立ってこの華やかな光景だけを目に焼き付けておくためエリーズが広間の端に向かおうとしたその時、大階段の先にある扉が開いた。それに気づいた貴族たちがさっと静まり返る。

 やがて、扉の奥から一人の男性が姿を現した。貴族たちが階段の下に集い、一様に頭を垂れる。突然のことに驚いたエリーズは人の波により後ろの方まで流されてから、急いで姿勢を低くした。

 階段を下りることなく二階から人々を見つめる男性、誰もが敬意をもって跪く彼こそが――


「我らがヴィオル王よりお言葉を頂戴致します」


 王の傍に控えていた、近侍と思しき赤毛の男が告げる。ヴィオル王は階下の貴族たちを見渡してから口を開いた。


「……この日を迎えられたことを嬉しく思う」


 穏やかだが広間中に響く、よく通る声だった。


「我がアルクレイド王国は、大地の精霊の加護を受け建国から今まで、争いや飢えに巻き込まれることなく平和に発展してきた。だがその上に胡坐をかくばかりではいけない。僕は歴代の王たちの意志を継ぎ、王国に更なる発展をもたらしたい」


 群衆の後ろにいるエリーズは、低くした体勢を崩さないまま朗々と語る王へ目を向けた。紫色の髪が神秘的で、表情までは分からないがその立ち姿は遠目からでも凛々しかった。


「そのためには、君たちの協力が不可欠だ。どうかこの先も民たちの上に立つものの責任を持ち、王家と共に歩んで欲しい」

「ヴィオル王万歳、アルクレイドに栄光あれ!」


 貴族たちが声を揃える。ヴィオルはもう一度、集まった人々を見渡した。ゆっくり顔を動かしていた彼が、ある場所で動きを止めた。

その視線が捉えていたのは――エリーズだ。


(わたしを見ておられる……?)


 とくん、とエリーズの鼓動が大きく打った。ヴィオルとの間にはかなり距離がある。それにも関わらず、目が合ったように思えた。


(まさか。気のせいよ)


 王とは知り合いでも何でもないし、自分は取り立てて美しい娘というわけでもない。きっと近くにいる誰かを見ていたのだろうとエリーズは己に言い聞かせた。

 エリーズの心臓はまだとくとくと早く動いている。恐怖や緊張とは違う、何かもっと別の理由で。

 間もなく、ヴィオル王がまた言葉を続けた。


「皆、集まってくれてありがとう。今日は心ゆくまで楽しんで欲しい」


 その言葉を合図に貴族たちが顔を上げ、惜しみない拍手を王へと送った。


***


「しかしまあ、陛下はよく名君と呼ばれるまでに成長したものだ」


 再び招待客たちが談笑を始める中、エリーズの近くにいた初老の男が話し出した。


「そうですね。母君を亡くされた時にはどうなることかと思いましたが」


 壮年の男が相槌を打つ。


「後は相応しい妃を(めと)ればいよいよ安泰なのだがなぁ」


 どうやら、ヴィオル王は未だ独身のようだ。盗み聞きはいけないとは思いつつ、エリーズはその場に留まって彼らの話に耳を傾けた。


「エーデルバルト公女殿下との縁談も結局お流れになってしまいましたしね」

「大陸一の美姫と言われるサンディリアの王女からの求婚も断ったそうだ」

「女性関係については何にも噂を聞きませんし、これはいよいよ男色という噂も真実味を帯びてきますね」


 壮年の男が笑いながら言った。


(だとしたら、お世継ぎはどうなさるのかしら……?)


 余計な心配だと思いつつ、エリーズはそう考えずにはいられなかった。当の本人、ヴィオル王はあの後広間の一階に降りて来たが、すぐに貴族たちに囲まれてしまったようでエリーズのいる位置からはもうその姿は見えない。

 彼の優美な立ち姿が今もエリーズの頭に焼き付いている。男色という噂があっても、国内外の高貴な生まれの女性が彼の花嫁の座を射止めるために努力を惜しまないはずだ。

 せめてもう少し近くで王の顔を見てみたかったが、この夜会の間にそれを成し遂げることは難しそうだった。彼と話そうとする者は後を絶たず、何より見すぼらしい格好で王の面前に立つなど以ての外だ。


「エリーズ、ここにいたのね」


 ジェゼベルが近づいてきた。彼女はエリーズとは違い金髪に真っ赤なリボンを留めて、フリルがたっぷりあしらわれた濃いピンク色のドレスに身を包んでいる。


「あたしはこの後も友達とお話しするけど、あんたも来る?」


 エリーズは首を振った。


「いいえ。ご迷惑になるといけないから……わたしは隅の方にいるわ」

「ふーん、じゃ、後でまた行くわ」


 それじゃあね、と(きびす)を返し、ジェゼベルは広間の中央の方へ歩いていく。エリーズは静かに隅の方へと移動した。

 しばらくぼんやりと広間の様子を眺めていると、一人の若い男がエリーズの元へやって来た。


「やあ、御機嫌よう」


 知った顔ではないが、エリーズは慌ててドレスの裾をつまんで礼をした。貴族相手に失礼があってはいけない。


「こんばんは。エリーズ・ガルガンドと申します」

「僕の名はヘロルフ・リートベルフ。ジェゼベルの友人だ」

「まあ、そうなのですね。ジェゼベルと仲良くして頂いてありがとうございます」

「君の話は色々と聞いているよ……」


 そう言いながら、ヘロルフは舐めるようにエリーズの頭からつま先までを見た。向けられたことがない類の視線に、エリーズは思わずたじろいだ。


「あの、見苦しくてごめんなさい。これは古いドレスで……」

「なに、気にしないさ。大切なのは『中身』だ」


 ヘロルフが笑い、距離を詰めてくる。反射的にエリーズは数歩後ろに下がった。


「怖がらなくてもいい。君に貴族のあれこれを教えるようにジェゼベルから頼まれたんだ。さぁ、こっちにおいで。悪いようにはしないよ」


 ジェゼベルの名を出されたものの、エリーズは差し伸べられた手をすぐに取れなかった。ついていくべきではないと、心の中の何かがエリーズを引き留めている。しかし断るなら何と言って断ればいいのか。今まで籠の鳥も同然だったエリーズには何も判断ができなかった。


「あ、あの、わたし……」


 その時、エリーズの視界の端で大きな動きがあった。広間の中央に近い位置に集まっていた人々がぱっと二つに分かれる。その間から出てきたのは――紫水晶の君ことヴィオル王だった。

 王はつかつかとエリーズがいる方へ歩いて来る。一体何事かと思っていると、彼はエリーズとヘロルフのところで足を止めた。お喋りに興じていた貴族たちは全員口をつぐみ、成り行きをじっと見つめている。


「へ、陛下……?」


 驚いたヘロルフが上ずった声を出す。


「邪魔だったかな?」


 ヴィオル王が静かに問うと、ヘロルフはぶんぶんと首を横に振った。


「なら良かった」


 王がエリーズの方を向いた。エリーズよりも更に頭ひとつ分ほど背が高く、緩く波打つ髪はつやがかっている。髪よりも深い紫色の瞳を持つ美貌はまさしく「紫水晶の君」と呼ぶに相応しい。

 身を包んでいる正装用の軍服は上下ともに染みひとつなく真っ白で、上衣には肩章と赤いサッシュ、下衣には金色の側章が入っている。革靴は磨き上げられていてぴかぴかと輝きを放っていた。ふちに毛皮が縫い付けられた紺色のマントが、より威厳ある姿に見せている。

 エリーズはその姿に釘付けになってしまった。一度は落ち着いた鼓動が再び早くなっていく。顔を近くで見てみたいと思った王が自分の目の前にいる。今日は願ったことが何でも現実になる日なのだと錯覚してしまいそうだ。


「君の名前を聞いてもいい?」


 穏やかな声でヴィオル王が尋ねる。エリーズははっと我に返り、慌てて再びドレスの裾を持って頭を下げた。


「エリーズ・ガルガンドと申します……!」

「可愛い名前だね」


 エリーズは驚いて王の顔を見上げた。彼は優しく微笑み、すっと片膝をついてエリーズよりも姿勢を低くした。続いて白い手袋がはめられた手が差し伸べられる。


「エリーズ、どうか今日という特別な日に、君の手を取って踊る極上の時間をくれないだろうか」

「え……!?」


 周りの貴族たちがざわめく。ヘロルフは棒のようにその場に立ち尽くすばかりだ。エリーズは驚きのあまり、ただぱちぱちと瞬きをするしかなかった。

 踊りたい? こんなに素敵な王様が、わたしと?

 腰を抜かしてその場に座り込んでしまいそうになるのを何とか踏みとどまった。ヴィオル王は体勢を変えず、エリーズの答えを待っている。大広間にいるすべての人間の視線がエリーズただ一人に集中している。強すぎる刺激に逃げ出してしまいたいという思いが一瞬エリーズの頭をよぎったが、ぐっとこらえた。国中がかしずく、王国の頂点にいる人物が今、自分に向かって跪いている。誘いを断ったり逃げ出して恥をかかせるなど絶対にしてはいけないことだ。


「あ、あの……」


 意を決して、エリーズは震える手を王のそれに重ねた。


「よろしく、お願いします……」

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