十七話 風邪ひきお妃様
正式に王妃を名乗れるようになり、エリーズも政務に携わることとなった。
とはいっても、内容は想像していたものとはまったく異なっていた。ヴィオルと同じく執務机に向かい書類仕事をこなす、といったことは一切なく、ヴィオルの外出に同行し、着いた先でもてなしを受けたり見聞を広めることがエリーズの主な務めだった。
ヴィオルは様々な場所にエリーズを連れ出した。王国の貴族が治める領地だけでなく、劇場や美術館といった娯楽の場にも。そういった所に足を運び文化を支援することも王族の務めなのだとヴィオルは話した。
王妃も国王に限りなく近い権限を有するためエリーズも内政に関わる仕事はできるのだが、ヴィオルは一切しなくていい、の一点張りだった。
「でも、わたしが少しでも手伝った方がヴィオルも楽ができるでしょう?」
「大丈夫だよ、今までも僕と側近たちで全部やってきたことだから。君は難しいことを考えずに色々なものを見て聞いて、楽しんでくれればいい」
それから、と彼はエリーズの髪を撫でた。
「僕の隣で笑っていてくれたらそれで十分」
エリーズがヴィオルと共に過ごせる時間は、以前と比べるとかなり多くなっていた。さすがに人の目があるところで必要以上にべたべたとすることはないが、移動中の馬車の中ではこっそりキスをしたり膝枕をし合って過ごす。忙しくはあったが、格段に楽しい日々だった。
***
それからあっという間にふた月が過ぎた。今日の外出の予定はなく、エリーズは近衛のリノンと談笑しながら城の廊下を歩いていた。
「それであたしが賊の頭に踵で一発食らわせて、ぎゃふんと言わせてやったわけ」
「まあ、すごい……」
リノンが足を止め、エリーズの顔を見て首を傾げた。
「エリーズ、大丈夫? なんか今日元気ないよ?」
「そ、そう? 大丈夫よ、何ともないわ」
口ではそう言ったものの、エリーズは少しばかり不調を抱えていた。今朝から頭痛があったのだが、ただ疲れているだけだろうと女官には伝えていない。勿論リノンやヴィオルにもだ。
再び歩き出したものの、しばらくして今度はエリーズが足を止めた。めまいと共に体の力が抜け、その次には廊下の壁に身を預けるようにして崩れ落ちた。
「エリーズ!?」
リノンが隣にしゃがみ声をかけてきたが、答えられるだけの気力がエリーズには残っていなかった。全身から脂汗が吹き出し、普段は何とも思わない腰回りが酷く苦しい。
リノンの声を聞きつけ、近くの部屋にいたらしい使用人が三人、何事かと飛び出してきた。
「担架持ってきて! あとお医者さんとカイラさん呼んで!」
エリーズの背を擦り、嘔吐しても受け止められるよう口元に手を差し出しながらリノンが使用人たちに指示を出す。使用人たちの早急な行動で、間もなくエリーズは担架に乗せられて運ばれていった。
***
医師の診断結果は極度の疲労による風邪だった。医務室に担ぎ込まれたエリーズはカイラたち女官の手によって締め付けの少ないガウンに着替えさせられ、ベッドに力なく横たわっている。
「申し訳ございません、私が早く気づくべきでした」
カイラが深々と頭を下げる。まるで重罪を犯してしまったかのようだ。
「あたしも悪かったよ。無理やりにでも休ませれば良かった……」
リノンもいつもの明るさは鳴りを潜め、しゅんと肩を落としている。
己を責める女官と近衛に向かい、エリーズは声をかけた。
「二人のせいでは……ないわ。わたしが黙ってたのが……いけなかったの」
ガルガンド家で下働きとして暮らしていた時のエリーズには、どれほど体調が悪かろうとも休む暇などなかった。そのせいでつい我慢したり、この程度なら問題ないと自身で決めつけてしまう癖がついてしまっていたようだ。
医師の見立てでは薬を飲んで二、三日ほど安静にしていれば良くなるだろうとのことだった。すぐに調合して届けますと言い、部屋を後にする。エリーズはカイラとリノンに微笑んで見せた。
「大したことがなくて……良かったわ」
治るまで政務に関われないのは心苦しいが症状が悪化したり長引くかもしれない以上、無理はできない。
突如として、静かな医務室にどたどたと音が響いた。誰かが外の廊下を走っているようだ。次の瞬間には医務室の扉がどんどんと叩かれ、それから一回瞬きするよりも早くがちゃりと扉が開いた。
「エリーズ!」
ヴィオルが大股でベッドに走りより、傍らに膝を付くと横たわるエリーズの手を包むように握る。
「ヴィオル?」
「ああ、すまない……! 全部僕が悪かった、君に無理をさせ過ぎた。エリーズがいないと生きていけないのに……僕は君の夫失格だ……」
ヴィオルの顔は病人のエリーズよりも蒼白だ。医師か別の使用人から王妃が倒れたと聞いて疾走して来たのだろう。いつも整っている髪が紫水晶の名に見合わぬほど乱れてしまっている。
稲妻のように突然現れた国王を見てカイラもリノンもしばらく呆気に取られていた。先に我に返ったカイラが、項垂れる王の隣に膝をつく。
「陛下、そこまで慌てずとも王妃様は静養していればすぐに回復するとの診断でした」
「でもとても辛そうだ。もしかしたらこのまま弱って死んでしまうかもしれない……」
「さすがに大げさすぎますよ陛下。エリーズだって人間なんですからたまには風邪くらいひきますって」
リノンが宥めるように言う。そうよ、とエリーズも頷いた。
「お医者様が……お薬を用意してくださるから大丈夫」
先ほどよりもヴィオルはいくらか冷静さを取り戻したようだったが、それでもエリーズの手を握りしめて離さない。
「……カイラ、リノン、すまないけれど二人にしてくれないか」
かしこまりましたと答え、女官と近衛が揃って退室する。扉が閉じられると、ヴィオルは手袋を脱いであらためてエリーズの手に触れた。
「……本当にごめんね」
今にも消え入りそうな声で言う夫の手をエリーズは握り返した。
「謝らないで……ヴィオルは何も……悪くないから」
「いや、僕のせいだよ。君の体のことを何も考えていなかった。毎日毎日無理をさせて……」
「すごく……楽しいわ」
エリーズは笑みを浮かべながら言った。
「色々なところに行って……たくさんのものを見て……聞いて……毎日、素敵なことばかりだもの……」
この数か月間で、エリーズを取り巻く環境は大きく変わった。小さな屋敷での下働きから一転、王城に住む貴い娘に変わり、今は王妃として王国のあちこちを訪れる日々。自分がどれほど狭い世界で生きてきたのかを知り、受ける刺激の数々に胸を躍らせた。
「それに……ヴィオルと一緒にいられる時間も……うんと増えたでしょう」
夫の様々な表情を見ることができるのも、エリーズにとっては楽しみの一つだった。ヴィオルは移動中の馬車の窓から見えるもの一つ一つについて説明してくれる。自分の足で各地に赴き他の貴族たちと真剣に議論を交わす姿は、彼に対する敬意をより深めるきっかけになった。
「本当に……毎日が楽しいの。今まで生きてきた中で、一番」
屋根裏部屋で寝起きしていた時のエリーズは日が昇る前に目を覚まし、今日はどれほど大変な一日になるのだろうかと重い気持ちを抱えていた。しかし今は違う。朝日が部屋に差し込むと、今日はどんな楽しい出来事が起こるのかしらとわくわくした気持ちになれる。
「楽しすぎて……疲れてしまっただけ。だからお願い、そんなに悲しい顔をしないで」
「うん……分かったよ」
ヴィオルは優しく笑って、エリーズの手に頬をすり寄せた。
「ヴィオル……わたしは大丈夫だから、お仕事に戻って?」
「君こそ、僕の心配なんてしなくていいよ。こんな時くらいもっとわがままを言って甘えて欲しいな」
本音をいえば、今二人きりでいられることがたまらなく嬉しい。ヴィオルの温もりを感じていると体の辛さなどとるに足らないことだと思えてくる。
いつまでも、彼をこの場に引き留めておくわけにはいかない。けれど――
「じゃあ……ヴィオルの声……聞いていたいの」
妻の願いに、ヴィオルは嬉しそうに目を細めた。片手でエリーズの手を握ったまま、もう片方の手を彼女の肩に伸ばし一定のリズムで優しく叩く。
――愛しき人よ あなたの髪は葡萄の香りを放つ絹の糸
肌は真珠のようで 瞳は碧玉のごとく輝く
唇は甘露に濡れた薔薇 その手は泉のほとりに咲く百合の花
愛しき人よ あなたがわたしの名を呼ぶ声を聞くために
わたしは千の山を 千の海を超えましょう
愛しき人よ あなたの口づけを得るために
わたしは天ほどの崖も登り 奈落ほどの谷も下りましょう
愛しき人よ どうかわたしを憐れんでください
嵐に打たれて飛ぶ蝶を 百合の花びらの中に匿ってください
愛しき人よ どうかわたしを思い出してください
太陽に焦がれる小夜啼鳥を 真珠の籠の中で飼ってください――
名もなき詩人が残したという愛の詩を、ヴィオルが優しい声で聞かせてくれる。この詩を教養として習ったエリーズはいたく気に入って暗誦できるよう懸命に覚え、ヴィオルに聞かせたことがあった。
幼い頃に母が歌ってくれた子守歌と同じように、彼の囁きがエリーズを眠りの世界に誘う。エリーズは目を閉じ、直にすうすうと寝息を立て始めた。
その様子を見届け、ヴィオルは妻を起こさないようその指先に軽く口づけを落とした。彼女の手を離して己の手に手袋をはめ、足音を立てぬよう扉に向かう。
部屋の外では、カイラとリノンが律儀に待っていた。
「エリーズは眠ったよ……先ほどは取り乱してしまってすまなかった」
滅相もございません、とカイラが微笑む。
「エリーズは優しくしてもらっちゃっていいですねぇ。ローヴァンなんてあたしが体調崩しても、どうせ食いすぎだろうとか言って全然心配してくれないんですよ」
小さな声で、しかしおどけた調子でリノンが言った。
「僕はもう戻らないといけない。あとのことは頼むよ」
カイラがお任せくださいと答え、リノンが行ってらっしゃい、と笑顔で手を振る。彼女たちがいればエリーズも安心できるだろう――やっと平静さを取り戻したヴィオルは、執務室へと向かった。
***
執務室に戻ったヴィオルを待ち構えていたのは、近侍のジギスだった。
「すまないねジギス。急に飛び出していったりなんかして」
「……王妃殿下のご容態は」
顔色のひとつも変えない無機質な問いかけだった。
「疲労から来た風邪らしい。しばらく安静にしていれば回復するそうだ」
「左様でございますか」
その返事に、ならばさっさと政務に戻れ、という彼の心の声を聞いたヴィオルは何も言わずに机にかけた。たかが妃の体調不良で血相を変えて政務を放り投げるなど、国を束ねる王としてすべきではなかったと思っている。だが、本当に心配だったのだ。いつもの調子で政務に取り組むなど、果たして血の通った人間にできることだろうか。
「ジギス、僕はもう大丈夫だから君は自分の仕事に戻っていいよ」
書類に目を通しながら、ヴィオルは近侍に声をかけた。しかしジギスはすぐに動こうとしない。もの言いたげな視線を王に向けるだけだ。
「ジギス、言いたいことがあるなら早く言って、そうでないなら下がってくれないか」
普段のジギスが滅多にとらない態度に若干の苛立ちを覚え、ヴィオルは棘を含ませた声で再度告げた。
「……失礼致しました。私はこれで」
それだけ言うと深々と頭を下げ、ジギスは部屋を後にした。




