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十五話 とびきり甘いひと時を

 女官が食事を運ぶカートにケーキと茶の用意を乗せ、エリーズはヴィオルの執務室へ続く廊下を歩いていた。着替えていないので、まだエリーズはお仕着せ姿だ。途中、王城仕えの文官や使用人たちと何度かすれ違ったが、まさか王妃が女官の出で立ちをしているとは思わないからだろう、エリーズだと気づいた者は誰もいなかった。

 エリーズはあくまでも女官としての態度を貫き通すつもりでいた。ヴィオルに気づかれなければそのまま帰ればいい。今回の目的はさりげなく彼の顔を見ることと、束の間の息抜きを手伝うことだ。

 執務室の前へたどり着くと、エリーズは大きく深呼吸を一度してドアに手を伸ばした。軽く三回、拳で扉を叩く。「入って」という声が聞こえたのを確かめ、エリーズはドアノブを回した。


「失礼致します陛下、お茶をお持ち致しました」

「……エリーズ?」


 まさか一瞬で気づかれるとは思っていなかった。部屋に入ってきたお仕着せ姿の妻を、ヴィオルはぽかんと見つめている。


「まあ、どうして分かったの?」

「どうしても何も間違いなく君の声だし、僕が君を見つけられないはずないよ」


 変装など最初から無意味だったようだ。きっと気づかれることはないだろうと思っていたエリーズに気恥ずかしさがこみ上げる。


「その恰好は……」

「カイラにお願いして貸してもらったの……似合ってない?」

「まさか。最高に可愛いよ。女官のお仕着せってこんなに良い意匠だったんだ……」


 エリーズはカートをヴィオルの執務机の傍らまで押していった。お仕着せ姿を披露しただけでここまで喜んでもらえるとは思っていなかったためむず痒い気分だ。


「一体どうしたの、女官になってここに来るなんて」

「あの……どうしてもヴィオルに会いたくなって」

「僕に?」

「できるだけあなたの邪魔にならないようにするにはどうしたらいいか迷ったのだけれど……お茶とお菓子を運ぶくらいなら大丈夫だと思ったの」


 エリーズがカートの上の皿に被せられたクローシュを外すと、生クリームと果物が添えられたケーキがヴィオルの目の前に現れる。


「ヴィオル、いつも大変そうだからわたしに何かできないかと思って作ったの。良かったら食べてもらえる?」

「作った!? これを君が?」


 エリーズが頷くと、彼は大急ぎで執務机の上の書類を脇に押しやった。


「君が作ったものなら何だって頂くよ」


 普段は食べられないご馳走を前にした子供のように目を輝かせて言う。その期待に沿えているかしら、という一抹の不安を抱きつつエリーズはケーキの皿を机の上に置いた。


「ありがとう」


 ヴィオルがフォークを手に取り、ケーキを少し崩して口に運ぶ。彼が口元にふっと笑みを浮かべた。


「美味しい……!」

「本当? 良かったわ」

「こんなに美味しいものを食べたのは生まれて初めてだ。君は本当に素晴らしいね」


 ずっと王族として生きてきた彼は一流の料理ばかりを食べてきたはずだ。エリーズが作ったものなどそれらには遠く及ばないはずで、お世辞だと分かっていてもエリーズの胸が喜びで熱くなる。

 ついぼんやりしてしまいそうになったが、エリーズははっと我に返りケーキと共に持ってきた茶の用意に手を伸ばした。カップに茶を注ぎヴィオルの執務机の上に置く。


「ありがとう……ああ、僕としたことが君を立ちっぱなしにさせるなんて」

「わたしに気を遣わないで。今は女官の一人だと思ってくれたらいいの」

「いや、そういう訳にはいかないよ」


 そう言いながら、ヴィオルは座ったまま椅子ごと少し後ろに下がり自分の膝を指し示した。


「さあ、ここにどうぞ」

「えっ!? そ、そんなことできないわ」


 膝の上に座るだなんて――エリーズはぶんぶんと首を横に振った。


「どうして?」

「どうしてって……わたしは小さい子でもないし、膝に座ったら重くて痺れてしまうでしょう?」

「君は軽いから大丈夫だよ。仮に痺れたとしても君ならいい」

「……それに、あの、恥ずかしいわ」


 それを聞き、ヴィオルは小首を傾げてみせた。


「ん? 今までもっと恥ずかしいことをしてきたと思うけどなぁ? そもそも夕べだって僕の上で」

「やめて~~~~~~っ!」


 エリーズは顔を真っ赤に染めてヴィオルの言葉を遮った。彼の口調は優しいが、言っていることは全くもって優しくない。


「エリーズお願い。君が頑張ってくれたら僕も頑張れるから」


 ヴィオルに紫水晶の瞳を潤ませるようにして懇願されることにエリーズはとことん弱い。この眼差しに(ほだ)されて、決して他人には漏らせないようなことをする羽目になったのも一度や二度では済まない。今回も陥落してしまったエリーズは、覚悟を決めてヴィオルに一歩近づいた。


「……怒らないでね」


 エリーズはゆっくりと身をかがめ、ヴィオルの膝の上に腰を下ろした。彼に負担をかけまいと前のめりになり脚で踏ん張ったが、腰を抱き寄せられて彼に体を預ける形になってしまった。


「ああ、最高の気分」


 ヴィオルはエリーズの体を支えながら、器用にケーキを口に運ぶ。彼に触れられていることはもちろん嬉しいが、もし今ジギスや使用人の誰かが入ってきてしまったらと思うとエリーズは緊張を解くことができなかった。

 そのまま上機嫌でケーキを食べ進めていたヴィオルだったが、残り最後の一口というところでぴたりとその手が止まった。


「どうしたの? お腹いっぱい?」

「いや……これを食べたら全部無くなってしまうと思うと勿体なくて」


 冗談めかした様子ではなく真剣な表情で小さな子供のようなことを言う夫にエリーズは一瞬ぽかんとした後、ぷっと吹き出した。


「もう、面白いんだから。せっかくだもの、全部食べてくれたら嬉しいわ」

「んー、じゃあ……」


 膝に座らせたままのエリーズの手に、ヴィオルがフォークを握らせる。


「食べさせて欲しいな」


 民や臣下から慕われる名君は、妻の前では甘えたがりに変貌する。このことを知っているのは自分だけなのだと思うと、エリーズは夫を(たしな)める気にはなれなかった。


「そうしたら食べてくれるのね?」


 ヴィオルに渡されたフォークで残ったケーキを取り、彼の口元までそれを運ぶ。ここまで来るともう恥ずかしいと思う気持ちはどこかへ消えていた。


「はい、どうぞ」


 ヴィオルが口を開け、最後の一口まで食べきる。その後、彼は嬉しそうにエリーズに頬をすり寄せた。


「ありがとう、本当に美味しかった」

「ふふ、また作るわね」

「楽しみにしてるよ」


 いつまでも寄り添っていたいが、ヴィオルには仕事が残っている。もともと彼がケーキを食べ終えたら戻るつもりでいたため、エリーズはヴィオルの膝から降りようと体を動かした。


「そろそろ行くわ。ヴィオルの邪魔になるといけないし、お片付けが残っているから」

「エリーズ、こっちを向いて」

「なあに?」


 彼の方へ顔を向けると、ちゅ、と音を立てて唇を(ついば)まれた。不意打ちの口づけにエリーズは思わず固まった。心臓が嬉しい悲鳴を上げている。


「今夜、頑張って早めに帰るから……今日はもう疲れるようなことはしないで待っていてくれる?」

「わ、分かったわ……」

「可愛いエリーズ、約束だよ」


 名残惜し気にエリーズの手の甲にもキスをしてヴィオルが微笑む。エリーズは半ばふわふわする頭で食器類をカートに乗せ、頑張ってね、とヴィオルに声をかけて執務室を後にした。

 扉を丁寧に閉め、エリーズは長いため息を一つ零した。つかの間の甘いひと時のおかげで、夫への恋しさは一層募る。

 今夜もたっぷり愛を注いでもらえるのだと思うと楽しみでたまらない。先ほどの彼の笑顔を思い起こすと、エリーズもつられて破顔してしまう。


「……ふふ」


 鼻歌混じりでカートを押しながら廊下を歩いていると、前から王の近衛、ローヴァンがやって来た。何かヴィオルに用があるらしい。上機嫌な微笑みを浮かべながら、エリーズは彼とすれ違いざまに声をかけた。


「ローヴァンさん、こんにちは」

「ああ、ご苦労……お、王妃殿下!?」


 挨拶してきたエリーズを、彼も一瞬は女官だと思ったらしい。お仕着せを来ている王妃だと分かると足を止めてまじまじと見つめてきた。


如何(いかが)されたのです、まさかヴィオルに何か妙なことを吹き込まれたのですか?」

「ふふ、違います。わたしがしたくてしているのですよ」

「は、はあ。なら良いのですが……?」


 ローヴァンにお仕事頑張ってくださいねと声をかけ、エリーズは再びるんるんとした様子で歩き出す。その場には、ただただ困惑して立ち尽くす騎士だけが残された。


***


「ヴィオル、今そこで女官に扮した王妃殿下とすれ違ったんだが」


 執務室に入るなり、ローヴァンは先ほど見た光景について王に問うた。ヴィオルの頬は完全に緩み切って、ほとんど心ここにあらずという状態だ。彼と長い付き合いのローヴァンですら初めて見るような呆けた表情だった。


「ああ、似合っていただろう? 僕を驚かせたかったみたいなんだ。エリーズが可愛すぎて僕は心臓麻痺で死ぬかもしれない」

「そんなことで人は死なん……まったく、お前が妙な知識を王妃殿下に吹き込んだものと思ったぞ」


 どうやら一連の出来事は、本当に王妃が自分で考えてしたことらしい。ローヴァンは彼女のことを大人しい小鹿のようだと思っていたが、意外にも茶目っ気と大胆さがある女性なのだと考えを改めた。

 仲が良いのは何よりだがあまり変なことはさせるな、という近衛の言葉は、熱に浮かされた様子の主君の耳には入っていないようだった。

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