一話 屋根裏部屋の令嬢
エリーズ・ガルガンドの一日は、まだ太陽が昇りきらない時から始まる。
小さなベッドから降りて衣裳ダンスまで向かい、古ぼけたこげ茶色のワンピースを取り出す。仕事着は他に同じようなものがあと二着。その上から、一着しかない少し黄ばんだエプロンをつける。
さっさと着替えを済ませて、今度は姿見の前に立つ。古い鏡は少し曇っているが、手入れを欠かさないお陰か役割は十分に果たしてくれる。
「おはよう、今日も元気そうね」
鏡の向こうからこちらを見つめる菫色の瞳に挨拶をして、腰まである銀色の巻き毛に櫛を通していく。髪が長いことで何も得はしないが、幼い頃にこの世を去った母が綺麗だと褒めてたくさん撫でてくれた髪を切る気にはなかなかなれなかった。
梳かし終えた髪を一つにまとめて、その上に三角巾をつける。両手の指で頬をむに、と持ち上げて笑っているような顔を作り、すり減った木靴を履いて部屋を出る頃になって、ようやく太陽が頭の先を出していた。
***
アルクレイド王国の都から馬車で数時間以内にたどり着ける場所の中でも、ガルガンド領は上位に入る緑豊かな場所だ。
領主ガルガンド伯爵の娘として生を受けたエリーズは優しい両親に可愛がられ、花の香りに包まれて、小鳥たちのさえずりを聞きながらすくすくと育った。
しかし、幸せな令嬢としての生活は長く続かなかった。エリーズが六歳の時、母が病に倒れて間もなく息を引き取った後、そのことにすっかり憔悴してしまった父親も後を追うようにして相次いで亡くなったのだ。
独りで残されたエリーズに屋敷や領地を管理する能力は無論なく、新しい領主そして養父として父の縁者にあたる男、ゲオルグが娘ジェゼベルを連れてやって来た。
しかし、ゲオルグに領主としての器は備わっていなかった。蓄えられていた財産は己と娘のために全て使われ、使用人たちに払う給金を渋って彼らを解雇し、やがて家事を一手に引き受けるようになったのは居場所のないエリーズだった。
「エリーズ、食後の茶はまだか! いつまで経っても気の利かない奴だな」
「エリーズ、あたしのストールどこやったの!? 盗んでないでしょうね!」
親子は日常の世話から些細なことまで、ありとあらゆる雑事をエリーズに要求してくる。どれほど効率よく動こうと頑張っても、エリーズ一人では到底対処しきれないほどの仕事量だった。
間違いをしたり対応が遅くなると、直接的な暴力こそ振るわれないものの罵られたり物を投げられることが頻繁にあった。
(殴られないだけまし、追い出されないだけ幸せ)
長時間の水仕事によって手荒れは酷いが、他には怪我と呼べるようなものはない。この家を追い出されてしまえば、行くあてがなく道端で物乞いをしなければならなくなる――エリーズは自分を慰めながら、十九歳の今まで懸命に働いてきた。
昼下がり、ほんのわずかな自由時間をエリーズは庭で過ごす。かつて両親と共に暮らしていたときは、腕のいい庭師によって整えられた木々や花を愛でながら皆でテーブルを囲み茶を嗜んでいた。
今、その美しい庭は見る影もない。草取りこそ行っているが、花を育てる余裕まではエリーズにはなかった。
庭どころではない。ゲオルグとジェゼベルの浪費によって、屋敷のすべてがどんどん荒れ果てているのがエリーズの目から見ても明らかだった。両親の遺品はほとんど売り払われて残っていない。それでも義父は夜な夜な賭博に出かけ、義妹は高価なドレスや装飾品を父親に強請る。持ち合わせが少なくなれば以前に買った品を売って、手に入れた資金で新しいものを買う。その繰り返しだった。
美しかった光景が日に日に失われていくのを見るのは辛いが、目を閉じれば何もかもが輝いていた時の景色を思い描くことができる。
「エリーズーーーーっ!」
その時間は長くは続かない。義妹の甲高い声で、エリーズは一瞬で現実に引き戻された。
「はい、今行きます!」
***
忙しいと、時が経つのが早く感じる。それだけがエリーズにとっては救いだった。
休めるのは真夜中近い時間だ。ベッドに倒れこむようにしてそのまま眠ってしまう日もあるが、余力が残っているときには必ずすることがあった。
エリーズは古びた小さな棚にしまっている本を一冊取り出した。子供向けに書かれた絵本だ。母が生きていた頃、彼女はエリーズを膝に乗せてこの本を開き、読み聞かせてくれた。
とある国の王子が美しい王女と恋に落ちて、彼女を攫った悪い竜を倒した後に結ばれずっと幸せに暮らす――単純な物語だが、エリーズはこの話が大好きで何度も読み返し、すべて諳んじるまでになった。
それほどまでに文字を追っても絵を眺めても、ひとつだけエリーズには分からないことがあった。
(恋をすると、どんな気持ちになるの?)
本の最後には、幸せそうに口づけを交わす王子と王女の絵が描かれている。彼らが感じているのであろうその幸福が、小さなエリーズにはぴんとこなかった。
時が過ぎ、その感情はやがて憧れへと変わっていった。一度だけでいいから誰かを愛し愛されて、幸せなキスをしてみたい――この屋根裏部屋で暮らす限り、その願いが叶うことはない。
本を閉じ、エリーズはベッドに横たわった。目を閉じると浮かぶのは、大好きだった母の顔だ。
「エリーズ、強い子になってね」
ある日、母は小さなエリーズの髪を撫でながらそう言った。
「わたしも剣をもって、ドラゴンとたたかうの?」
小さなエリーズが首を傾げて無邪気に問うと、母は笑って首を振った。
「それだけが強さではないの。辛い時でも周りの人に優しくできること、自分を信じて正しいと思った道を歩くこと……それができる人も、強いのよ」
今の自分は、強くなれているのだろうか。思い出の中にしかいない母が答えてくれることはこの先もない。
疲労感と共に、目蓋が下がってくる。エリーズは目を閉じて、眠りの海に沈んでいった。
***
アルクレイド国王ヴィオルは、執務室の扉を開け早足で机に向かった。
執務机から書類の束が無くなることは滅多にない。椅子に座るなり、羽ペンを片手に一枚一枚に目を通していく。
まだ齢二十六という若さながら、即位してから十年以上。その年月のほとんどを政務につぎ込んで過ごし、王国の平和を維持する彼は名君と言われ、紫色の髪と目を持つ容貌は紫水晶に喩えられる。
黙々と書類を片付けていると、執務室の扉を叩く音が聞こえた。入室を許可すると、赤い髪をひとまとめにして垂らした痩躯の男性が姿を現す。近侍のジギス・クルディアスだ。
「予定よりもお早いお戻りですが」
「思っていたよりさっさと片付いてね。クリフィトン伯が早く行動してくれたお陰で水害といっても被害は少なく済んだ。支援については依頼書が届く前に先だって準備しようと思う」
承知致しました、とジギスが頷いた。
「ところで、サンディリア王国とは大揉めにならず済みそう?」
王の問いにジギスはまた頷く。
「王女様との婚姻関係は結ばない代わりに、サンディリア産の鉄を輸入する際に払う税額を上げることで合意頂きました。後ほど報告書をお持ち致します」
「ありがとう、面倒ごとを押し付けて悪かったね。まあ、どれほど悪い結果になっても戦争にだけはならないから」
「陛下、差し出がましいようですが少しご休憩なされてはいかがですか。急ぎで処理しなければならないものはなかったと記憶しております」
いや大丈夫だ、と答えながらヴィオルは書類に判を捺した。
「そこまで疲れてないから、今の間に終わらせておくよ」
「左様でございますか……衣装係より、三週間後に開かれる夜会のお召し物の調整のためお時間を頂きたいと言伝がありましたが」
「ああ……もうそんな時期か。一時間後に行くと伝えておいて」
「承知致しました。ではこれにて失礼致します」
頭を下げ、ジギスが部屋を出て行く。扉の閉まる音がした後、ヴィオルは手を止め頬杖をついて窓の外を見た。三週間後、ヴィオルは二十七歳の誕生日を迎える。毎年、アルクレイド王国中の貴族が集めて夜会を開くのが習わしだ。
「あとどのくらいか……」
ぽつりと呟きしばらく目を閉じた後、ヴィオルは再びペンを手に取った。