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「佐伯」
総務課に書類を出しに行った帰り、廊下で課長に呼び止められた。その顔はさっき見た時と同じく、不機嫌そうに歪められている。
「なんでしょうか?」
「あの男と会ったのか?」
「あの男?」
「写真、届けに来たんだろ?」
……なるほど、市川のことか。課長は過去の出来事について知っているから、アイツとの接触を気にしてくれてるんだろう。
「会いましたよ。応接室で写真を受け取りました」
「二人でか?」
「そう、ですね。……誰かに嵌められたみたいで」
「よりによって俺がいない間にか……」
チッと舌打ちを鳴らした課長の顔がますます歪む。
「さっき佐野も言ってたが、その……佐伯があの男と付き合ってた事はみんな知ってるのか?」
「ああ……打ち上げの時あっちが勝手に喋ったらしくて。みんな知ってるみたいですよ」
「そうか……悪い。俺があの時帰らなければ止められたかもしれないのに」
「課長のせいじゃありません! 私が逃げたからです。自業自得ですね」
課長は少しばかり眉間のシワを緩めると、私の様子を伺うように言った。
「それが原因か?」
「え?」
「ずっと浮かない顔してる。あの男と何かあったのか?」
そう言われても話せるわけがない。アイツと会った原因が課長にあると知ったら気にしてしまうだろうし。
「あの男に何か傷付けられるような事を言われたのか?」
「いえ、違います」
「もし何かあったなら話してほしい。俺は、佐伯にそんな落ち込んだような顔をしてほしくないんだ」
口を真横に結んでいると、課長は私の名前を呼んだ。
「莉奈」
根負けした私は口を開いた。
「写真を届けに来た日とは別の日に……二人で話す機会があって。別れた時の浮気が誤解だったことが分かったんです」
「……誤解?」
「はい」
市川が従姉妹に騙されたこと、嘘をつく気はなかったこと、好きなのを諦めるから自分のお願いを聞いてほしいと言われたこと。そして、私を傷付けた事に対して謝罪してくれたことを掻い摘んで説明する。ちなみに、課長のドルヲタがバレていることは伏せておいた。
「そうか……」
話を聞き終えた課長はそう一言呟いた。難しそうな顔で顎に手をやると、その顔のまま続ける。
「たとえ嘘をついていなかったとしても、彼女とのデートを中止して他の女性と会っていたのは事実だろ? それに、もう少し考えれば他に諦めてもらえる手段はあったかもしれないし、お願いってやつも断ろうと思えば断れたはずだ。でも、そうしなかったのはあの男自身だ。莉奈は悪くない」
「……そう言ってもらえると、気が楽になります」
「でも、浮かない顔の原因はそれだけじゃないだろ? ここまできたら全部話せ」
……鋭い。どうやら誤魔化しはきかないらしい。
「……課長のアイドル好きが市川にバレました。リトプリのライブに行ってる時の姿が、偶然写真に写ってたみたいで。あ、でも誰にも言うつもりはないって言ってたんでバラされることはないと思います」
「ああ、それは別にいい。気にするな」
「えっ?」
意外な言葉に驚いている私をよそに、課長はサラリと言った?
「バレたらバレたで別にいいんだ。今まで言ってなかったのは周りに色々言われるのが面倒なだけだったし。今は別に言われても気にしないからな」
まさかのヲタバレ容認宣言。課長が困ると思ったから市川と会って話したのに……結局私の一人相撲だったわけか。内心で溜息をついた。
「で? それだけか?」
課長に促され、私は観念して続きを話した。
「実は……市川にもう一度付き合ってほしいと言われまして……」
「は?」
その一言で、廊下は冷たい静けさに包まれた。
課長の眉間にみるみるうちにシワが寄っていく。こころなしか、目尻の角度がさっきより上がっている気がする。……沈黙が痛い。まるで蛇に睨まれたカエル状態だ。
パンパンに空気が入った風船のような現状に穴を開けたのはひどく機嫌の悪そうな課長だった。
「俺と付き合ってるって言ったはずだが?」
「それが……嘘だってバレてしまって」
「何故だ」
「その……私の癖で」
「癖?」
「はい。私、嘘つく時髪を耳にかける癖があるらしくて。それでバレたみたいです……すみません」
再び流れる長い沈黙の後、課長は大きな舌打ちを鳴らすとぼそりと呟いた。
「……あの男が知ってて俺が知らないのは不愉快だな」
課長は眉間にますますシワを刻むと、その顔のまま詰め寄る。
「付き合うのか」
「え?」
「あの男と付き合うのかって聞いてるんだ」
私の胸がざわりと騒いだ。
「いえ……とりあえず考えてほしいとは言われましたけど」
「いくら誤解だったって言ってもお前を傷付けた事には変わりないんだぞ。そんな男とまた付き合うのか? 言っておくが俺は認めないぞ」
課長は責めるように捲し立ててくる。ただでさえ思考がごちゃごちゃしてるっていうのに、そんな風に言われたら何て答えたらいいのかわからなくなってしまう。
……だって、課長は私を一番好きになってはくれないでしょ? もう誰も傷付けたくないから恋はしないって。だから都合の良かった私に彼女のフリを頼んだ。後腐れなく終われそうだから。課長が今まで私に話しかけていたのは、好きなアイドルのことを気兼ねなく話せるから。同じ趣味を持つ弟がいるから。他人に口外しなさそうだから。ただそれだけだ。……分かってる。青柳課長を好きになっても報われないのは。私が一番良くわかってるつもりだ。
──それなのに。こんな事されたら、もしかしたら課長も私のこと気にしてくれてるんじゃないかって。もしかしたら嫉妬してるんじゃないかって勘違いしてしまいそうになる。そんな訳ないって何度も言い聞かせてるのに、愚かな私の心は期待を抱いてしまうのだ。そんな思わせぶりはやめてほしい。……ずるい男だ。
「……課長に。関係ない、じゃないですか」
私は絞り出すように言った。感情的になっているせいか目頭が熱い。気付かれたくなくて、私は下を向いた。
「関係はある! 期間延長しただろ!」
聞こえてきた声にハッと顔を上げると、驚いたように右手で口を覆う課長と目が合った。私を見た課長は力なく眉尻を下げる。
「……いや、何言ってるんだろうな俺。……すまない。忘れてくれ」
課長はそのまま私の横を通り過ぎる。足早に立ち去って行くその音は止まることなく、だんだん小さくなって消えていった。
私はその場で静かに目を閉じる。
……お願いだから、これ以上期待させるのはやめてほしい。私は胸ポケットに刺さったダサいペンギンのボールペンをギュッと両手で握った。




