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帰りたい。今すぐにでも帰りたい。
私は一人だらだらと冷や汗を流していた。
場所は見慣れた自社の会議室。
隣にはポーカーフェイスを貫く青柳課長、愛想の良い笑みを浮かべるCharme特別チームの主任。
そして前にはリトプリの所属事務所とイベント会社の関係者が並んでいる。
──実は、Charmeの新イメージキャラクターであるリトプリを交えた新作コスメ発売記念イベントが決定したのだ。事前に抽選で選ばれた百名にリトプリ本人が新商品を手渡しするというイベントである。彼女たちは自分の担当カラーのリップとアイカラーのセットを五種、各二十名に特設会場で直接手渡す。もちろんそれだけではなく、リトプリと一緒にプロのメイクさんにメイク方法を学び、さらにはプロのカメラマンに写真を撮ってもらえるという、リトプリファンにとってもCharmeの新商品を心待ちにしている女の子たちにとっても楽しみなイベントなのである。
前に由梨子が言っていた〝まだ言えないデカイ話〟とはおそらくリトプリとのコラボのことだったんだろう。まさかコラボ商品のコスメ開発に由梨子が関わってるとは。友達としてとても嬉しい。
今日はイベントの打ち合わせで、関係者の皆様に我が社の会議室に集まってもらった。残念ながらリトプリ本人は来ていないのだが、公私混同はしないと豪語していた通り、課長はいつものようにテキパキと仕事をこなしていたので何も問題はなかった。打ち合わせはスムーズに進んでいたのだ。……途中までは。
「遅くなってすみません」
──会議室に響いたその声に、私達は一斉に顔を上げる。黒いシャツにズボンという、比較的ラフな格好をした長身の男性。彼と目が合った瞬間、私の思考回路はバッチバチにショートし、体の機能が全停止した。目の前が真っ白になり、何も考えられなくなる。だって……だってそこには、私がもう二度と会いたくないと思っていた人物が立っていたのだから。確かにカメラマンが一人遅れてくるという連絡はあったけど、まさかコイツがそのカメラマンなの? まさか、そんな……。
継ぎ接ぎにでも思考回路を修復した私は、動揺を悟られないよう不自然なほどの笑顔を顔に貼り付けた。早く時間が過ぎろ早く時間が過ぎろと呪いのように頭の中で繰り返しながら、寝る間も惜しんで作った資料をこれでもかと凝視し続けた。
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「はぁ〜〜〜〜〜〜」
私は誰もいなくなった室内で深い深い溜息をついた。打ち合わせもなんとか無事に終わり、一人で会議室の後片付けを進める。ああ……たった数時間で何キロか痩せた気がする。体重が減るのは嬉しいが、こんなダイエット方法は精神的に良くないので絶対にオススメしない。そんな事を考えながら最終確認をし、電気を消して会議室を出る。
「久しぶり」
私はピタリと全ての動きが停止した。どうしよう、嫌な予感しかしない。ギギギと錆びたおもちゃのような鈍い動きで嫌々ながらに振り向くと、一人の男がドア横の壁に寄り掛かりながらこちらを見ていた。柔らかそうな茶色い髪が目立つ。顔に人懐こそうな笑みを浮かべたその男は、再び口を開く。
「久しぶり」
「……どちら様でしょうか」
「つれないなぁ」
「気安く話しかけないでもらえます?」
「いやー、莉奈は昔とあんまり変わってないね! 会えて嬉しいなぁ。相変わらず綺麗だよ!」
私はもう一度はぁ〜、と大きな溜息をつく。そして、このどうしようもない不快感と不愉快さを隠すことなく相手の目を見ながら言った。
「出来ることなら二度と会いたくなかったわ」
「またまたそんなこと言って〜」
「で? 病気だったお母さんは元気?」
「うぐっ……」
その言葉に、彼は鳩尾を殴られたような呻き声を上げる。私はそんな男を一瞥し、はぁ〜〜〜〜とさっきよりもだいぶ深い溜息を吐き出した。
男の名は市川翔。何を隠そう、遠い昔に親が病気だと嘘をついて浮気していた元彼クソ野郎である。
「それで? 元気なの? 入院してたお母さんは」
「おまっ……会ってすぐにそれはないだろ」
口ではこう言ってるが、彼もさすがに思うことがあるようでバツが悪そうな顔をしている。何を今さら。私の受けた傷は深いのだ。嫌味の一つや二つや三つぐらい許されるだろうに。
「……あの時は悪かったよ。反省してる」
「別に。もう関係ないし」
「マジでごめんって! あ〜でもほら、これから一緒に仕事していくんだからさ、仲良くしようよ! 仲良く!」
一体どの口が言うんだふざけんな! と喉まで出かかった言葉を理性と意地でなんとか飲み込む。それに、ここはうちの会社の廊下だ。誰かに見られて変な噂をたてられたらたまったもんじゃない。
「用件はなに? ないならさっさとお帰り下さい」
「あー、うん。莉奈の連絡先教えてほしいなぁと思って」
「……は?」
低音ボイスで思いっきり睨んでしまった私は悪くないはずだ。
「いや、お前あのあとすぐブロックしてスマホも電話番号も変えたろ? 連絡取れないし会おうにも会えなくて困ってたんだ。だからもう一回教えてほしくて」
そう言って、人当たりの良い爽やかな笑顔を向けてくる市川に怒りが湧いてくる。はぁ? バカなのかコイツバカなんだなバカなんだなコイツ! ていうか自分が浮気しておいてよくこんな無神経なこと言えるよね! やっぱり反省なんてまったくしてないじゃないの!! 怒りに任せて口を開こうとした瞬間、自分を呼ぶ聞き慣れた声が耳に入ってきた。
「佐伯?」
「課……長」
私は青柳課長の顔を見ると、何故か泣きそうになった。驚いたように目を開いた課長は市川に視線を移すと、ぱっと営業スマイルを浮かべる。
「カメラマンの市川さんですね。うちの佐伯に何か?」
課長の顔を見ると、市川も営業モードの笑顔に切り替わった。
「ああ、青柳さんでしたよね? 先程はどうも。……すみません、彼女とは昔の知り合いでして」
「そうなんですか? それはすごい偶然ですね」
「でしょう? それで、懐かしくて思わず声をかけてしまったんですよ。しかしこの場では不適切でしたね、申し訳ありません。佐伯、引き止めちゃってごめんな?」
「いえ……」
私は不快感を抑えてなんとか答える。
「これから仕事でお世話になります。よろしくお願いしますね。では、失礼します」
丁寧に挨拶をしてぺこりと頭を下げると、市川は私たちの前から立ち去って行った。その後ろ姿を見てほっと安堵すると同時に、これからの事を考えると憂鬱になる。なるべく関わらないようにしないと。小さく息を吐き出すと、課長が気遣わし気に声を掛けてくれた。
「……大丈夫か?」
「はい」
無気力気味に頷くと、課長は突然その綺麗な顔を歪ませる。
「今の奴とは本当に知り合いなのか?」
「知り合いというか……」
「なんだ?」
言い淀んだ私に対し、課長は追求を止めない。なんだか課長の機嫌がよろしくないというか、むしろ悪い気がするのは私の思い過ごしだろうか。じっと睨むように見つめる課長からの異様な圧に負けた私は諦めて白状することにした。
「実は、大学時代に付き合ってた元彼でして……」
「アイツが……!?」
驚いて開かれた課長の目はすぐに細められ、眉間にグッと力が入る。
「大丈夫だったか? 何かされたのか?」
「いえ何も。ただ、連絡先を教えろなんていう無神経なことを言われただけです」
「それは……確かに無神経だな」
呆れたように溜息をつくと、ふと微笑みを浮かべた。
「何もなかったならいいが……彼とはこれから仕事で嫌でも会うんだし、何かあったらすぐ俺に言ってくれ」
「でも、」
「すぐ言ってくれ」
「……わかりました」
有無を言わせない態度に、私はしぶしぶながら了承した。課長は何故か満足気に頷いている。迷惑をかけるわけにはいかないので、何もない事を祈ろう。
「そういえばそれ」
課長は細長い指を私のスーツのポケットに向けて指す。いや、正しくはスーツのポケットに挟んである青いボールペン。ペンギンのチャームがゆらりと揺れるそれは、先日課長から貰ったものだ。ちょっとダサいけど、せっかくなので仕事で使わせてもらってる。
「あ、はい。さっそく使わせてもらってました」
「そうか。使ってくれて嬉しいよ」
課長はほくほくと嬉しそうに笑った。とりあえず機嫌が直ったようで何よりである。




