第58話 罪己詔
「華琳様は何処か!?」
調練から戻った夏侯惇が足取りも荒く政庁へ戻った。その様子に警備の兵が怯えながらも政務の間を示す。
夏侯惇が政務の間の扉を開けると、曹操が荀彧に指図しながら上洛の準備をしているところだった。
「華琳様! 董卓の求めに応じて上洛されると聞きましたが事実ですか!?」
「そうよ春蘭。供には流琉を連れて行くわ。出立は黄巾党討伐の閲兵式の後よ。もし徐州の討伐軍が動くようなら貴女が私の名代として出兵なさい。それと軍師として稟を連れて行き、よく言う事を聴くこと」
「ですが華琳様、朝廷では董卓が主上に譲位を迫ったと聞きます。ここは黄巾党の事は徐州に任せて置き、董卓を討伐する軍を起こす事が先決かと!」
「それは性急過ぎるわ。譲位を迫ったと言うけれど、それなら何進や麗羽たちは何故黙っているのかしら? 十常侍を始め宦官を誅殺すると麗羽が文を寄越したけれど、もし董卓が譲位を迫ったのならその軍はそのまま逆賊討伐軍になっているはずよ。まずは朝廷や洛陽がどうなっているのか確認しないと」
「そんなこと、董卓が主上や劉協様を人質に取ったに違いありません! 何にせよ危険です! どうか御考え直しを――」
「くどい。これは決定よ」
曹操の為政者としての声音に夏侯惇は言葉を失った。
「……とはいえ、私の事をこれだけ想ってくれるのは嬉しく思うわ。何らかの事情があって主上から罪己詔と劉協様への譲位の宣言がされたのよ。もしこれが董卓の姦計なら主上からの勅令を以て討伐の軍を起こすし、歴史に見るような政争の結果なら推移を見るわ。どちらにせよ、この曹孟徳の飛躍の礎となるわ。時が来たら貴女の武を存分に振るってもらうから、今は力を溜めておきなさい」
曹操は夏侯惇の震える手を握りながら言い聞かせた。
(罪己詔……? 旱魃や災害は私の不徳の所為だから民を苦しめないで下さいって神様とかに出す手紙か?)
一刀は劉度の下から戻った李梅たちから洛陽で政変が有ったことを聴いた。
「現皇帝が蝗や黄巾党、冷夏の責任を取って譲位をするとのことです。そのため黄巾党でも降伏する者には恩赦を与えるように、と先ほどの勅使から伝えられました」
「皇帝の不徳が天候を左右する……そういうのが信じられてる時代なんだな。俺たちに関係あることは?」
「ありません。劉度様も計画通り、徐州黄巾党討伐軍の動きに合わせるとのことです。それと、一刀様が見つけた王莽の玉璽ですが、良く見つけてくれたと褒められていました。零陵の人間が祖業を果たす助けになった事を誇りに思う、と」
「長沙のアレな……まあ、このまま徐州攻め? に付いて来いって訳でもないなら零陵に劉度様の無事の報告と書簡を渡せばいいんだよな」
劉度は客人の学者をもてなさなければならないとのことで一刀が会うことは無かった。
しかし翌日、出発の準備をしているとその学者が挨拶にやってきた。
「初めまして。私は盧植、字を子幹と申します。皆さんのことは弟子の義妹たちから聴いております。兵糧を得る手助けをしてくれたそうで、本当に助かりました」
「盧植さん……ということは関羽たちから聴いたのですね。ですがあの時知恵を貸してくれたのは夏侯淵ですから。私たちはそんな大したことはしていませんよ」
「あらあら。そんなに謙遜することはありませんよ。でも、そんな謙虚な所が愛紗ちゃんの琴線に触れたのね……」
「関羽がどうかしましたか?」
「何でもないわ。もしも桃香ちゃん……いえ、劉備ちゃんの軍の近くに寄ることがあったら是非訪ねてあげてね。御礼がしたいって言ってたから」
「分かりました。私たちは零陵に戻りますが、何かの縁でまた会うことがあれば。それまでお元気で」
「ええ。あなたたちもお元気で」
旅装を終えると紫露も見送りにやって来た。
「盧植さんに紫露まで来てくれるなんて贅沢な出発だ。それじゃあ零陵に帰ろうか」
零陵には来た道を戻る形で進路を取った。
沛国政庁の喜雨に旅の目的は果たせたことの報告と、ついでに洛陽での譲位の件を聴きたかったからだ。
「ボクの方には皆が聴いたのと同じ大まかな情報しか降りてきてない。多分母様なら何か知ってると思うけど、知る必要が無いと判断した相手には何も教えてくれないと思う」
「そっか……長沙に迎える王様が誰になるとかいつ頃になるかとか、結構色んな所に影響あるしなあ……まあちょっと気になっただけだから。あ、それより近くの村で馬用の飼い葉とかを買っても良い?」
「自分たちで消費する分なら構わない。商売に使えるような量の取引は禁じてるからほどほどにね」
沛国を出発し道すがら情報収集を行うが、やはり詳細な洛陽の情報は得られなかった。
期待していなかったとはいえ少し残念に思いながら、そろそろ陳留に着こうかという距離で何か作業している集団を見つけた。
「こんにちは。ここで何をしているんですか? 石と草を集めているようですが……」
「その馬で競馬に参加しに来たんじゃないのか? 曹操様の軍が閲兵式をやるから場を整えてるんだよ。その次の日には武術大会やら競馬をやって曹昂様の馬術武術の教師を決めるんだそうだ。そのお布令が出てから兗州の腕自慢やら遠方の武芸者まで集まってるのさ。優勝賞金も出るし仕官の機会にもなるからあんたも出たらどうだい? 曹操様は下々にも優しい御方だよ」
教えてくれた人足に礼を言って陳留の門へ進むと、確かにいかにも屈強そうな男たちが演舞をしたり馬を走らせたりしていた。
そういった武芸者たちの中で食糧や武具の手入れ道具などの消耗品を売る商人や、小さな天幕の前で売春を持ち掛けたりする女性も多く見られた。
気が立っている男たち相手にそんなことをして大丈夫なのか、と一刀は心配になったが、どうやら大きなトラブルもなく済んでいるらしい。
「巡回してる治安維持の兵が居る訳でもないのに、どうしてこんなに平和なんだ?」
「先ほどの人足が言っていただろう。仕官先を求めてやってきているのだから、騒ぎを起こす者が居たら捕まえて心象を良くしようと考えているのだ。それでもこれだけ多くの人が居るとなると、詐欺やスリにも会うだろう。だが、そんな事を訴えたら自分の間抜けを晒すことになると考えるから騒ぐに騒げないのであろう」
「そういうことか。新しい武官を雇うってことは、これからの戦で減るって予想してるのかな?」
「或いは任地が増えると考え、今のうちに家臣を増やしておきたいのではないか?」
武芸者たちの間を抜けて陳留に入り政庁へ行き、夏侯淵に取り次いでもらうと中庭の東屋で待つように言われた。
東屋には先客が居り、程昱と胸元の開いた白い服の女性が話していた。
「おや、お兄さん方。もう零陵の軍に会えたのですか?」
「お陰様で。夏侯淵を待ってるんだけど、俺たちも相席していいかな?」
「どうぞどうぞ。あ、星ちゃん、ちょっとややこしい事になるかもしれませんよ」
「え、星ちゃん? 何時の間にそんな親しくなったの?」
一刀が驚いて尋ねた瞬間、白い服の女性が怒りと困惑が混ざったような顔をした。
「知らん。区星は程昱にそのように呼ばれる程の縁は結んでいない」
「風が呼んだのは区星ちゃんではなくて、こっちの星ちゃんなのです」
そう言って程昱は隣の女性を手で示した。
「最初私の真名を呼ばれたのかと思ったのだがそういう事情か。私は趙雲、字は子龍と申す。武者修行の途中だが路銀が尽きてしまってな。そこでかつての旅の仲間に何か仕事は無いかと訪ねて来たのだ」
「まさか真名とは知らず、失礼致し――」
一刀が謝罪しようとしたのを遮り趙雲が言った。
「格式ばった言葉遣いは結構。風の友ならば我が友も同然。それに、私の他に星を名に持つ者が居ようとは思わなかった。やはり世界はまだまだ広いようだ」
「そう、か……じゃあ改めて、俺は北郷一刀。字も真名も無い島国出身だ。それでこっちから区星、区連だ」
軽く自己紹介をしてみると、どうやら趙雲と程昱は郭嘉も合わせて各地を放浪して仕官先を求める旅をしていたらしい。結果として程昱と郭嘉は曹操に仕官することを決め、趙雲は未だ主を決めかねて武者修行に明け暮れているとのことだった。
「しかし風、何故北郷たちと真名を交わしておらんのだ? 風が普通の人を気に掛けるなど珍しいではないか。明日も知れぬ世なのだから、良い縁はさっさと結んでおくに限るぞ」
「そういう星ちゃんこそどうなのです?」
「おっと。私としたことが既に交わした気になっていたようだ。私の真名は星だ。良ければ受け取ってくれるか?」
一刀たちが星と真名を交わすと、
「……風です。風だけ仲間外れにするのはひどいのですよ」
風も一刀たちに真名を預けた。
「その論法で行くと私も預けてやりたいところなのだが、職責上そう簡単に真名を交わすのは難しいのだ。利害関係や癒着といった不正を疑われるのでな」
「おぉ~秋蘭様、お仕事お疲れ様でした。こちらの星ちゃんを徐州黄巾軍討伐に加えて欲しいのです」
「今しがた不正な人事は駄目だと言ったと思うのだがな。しかし、一目見ただけで実力者だと分かる。夏侯淵、字は妙才だ。貴殿のような武芸者と肩を並べられることをありがたく思う」
星が持つ独特な雰囲気は彼女が己の武に自信によるものなのだろう。それが虚勢や慢心ではないことを見抜いた夏侯淵は、即決で星を迎えることにした。
「趙雲、字は子龍です。是非とも後ほど手合わせ願いたい」
「うむ。後ほど練武場に行こう」
夏侯淵はいきなりの挑戦を怒るでもなく穏やかに受けた。
「それと桜桃、李梅とも手合わせ願いたいのだが」
「む? 桜桃ならともかく、区星は星ほどの武は持ち合わせていないぞ」
「そうか? 私から見れば李梅はから何があっても生き延びる、目的を果たす、という強い信念を感じるぞ。それに奥の手のような、何か自信のようなものも見える。まあそれは一刀からもだが」
「……組手に持ち込めば数回は星を退けられるかも知れない。だがすぐに型を見破られるだろう」
「なるほど。秘中の秘という訳か。だが私との手合わせでも何か得られるモノがあるだろう。組手無しで互いの稽古と思って一本やろうではないか」
「では一つ稽古を頼もう」
李梅が同意したことで桜桃も参加を表明した。
「俺は見学……見取り稽古をさせてもらおうかな。っと、その前になんだけど、夏侯淵は洛陽の情報とか何か知らない? 江南を一まとめにして軍事と外交の即応性を図るとかなんとかの王様が誰になりそうとか」
「それについては私も何も聴いていない。だが、華琳様に新体制の朝廷に出仕するよう辞令が来たと聴いている」
「そうなのか? あー、まあ優秀な人だからな曹操……」
黄巾党の次は反董卓連合と覚えていただけに、曹操が七星剣で董卓を暗殺しようとするのだろうかと考えた一刀。
「ところで趙雲殿と北郷たちは今日の宿は借りられたのか? 武芸者はともかく、閲兵式を一目見ようと遠方の金持ちまで来ているから宿はほとんど埋まっていたはずだ」
「屋根を貸して頂けますかな?」
星が手を振りながら言った。
「俺たちも一部屋貸してもらえれば……あ、俺は馬房でもいいし。屋根と壁があるだけで全然違うから」
「華琳様の客人にそんな浮浪者のような真似はさせられん。官舎には一人一部屋の余裕があるからそちらを使ってくれ。北郷たちは壮行会……閲兵式と競馬も見て行くだろう? それまでの間好きに使って構わん」
夏侯淵の申し出のお陰で宿と食事の心配は無くなった。
それでは心置きなく手合わせをしようと練武場へ向かおうとしたところで侍女がやってきた。
「お話し中に失礼致します。曹操様がもうじきお越しになると連絡がありました。夏侯淵様にはお迎えの準備をして頂きたいのですが……」
「華琳様が? ……なるほど。済まんが私と風は華琳様のお迎えに行かねばならぬことになった。
「主を迎えるのだから仕方あるまい。では我らだけで行くとするか」
・閲兵式後の武術大会は募兵も兼ねています。これは織田信長が募兵も兼ねて相撲興行してたという説からですが、黄巾党の旗色が悪くなってから集まった自称武芸者の実力を選別する目的もあったり。
・曹操が陳留に通達していた予定よりも早く到着したのは暗殺対策です。夏侯淵がそんな大事な日をすっぽかして手合わせなんてしないでしょうし。




