第57話 動乱の幕開け
陳留を出た一刀たちは徐州の彭城を目指した。
郭嘉や程昱によれば官軍は徐州の彭城から東進し、下邳から北上して黄巾軍を制圧するため物資を彭城に集めているらしい。
零陵郡の代官である細梔、さらに兗州刺史となっていた曹操からの符と布令文が出ていたことで旅は順調なものとなった。
「――この辺が黄巾党に占拠されてた頃、零陵の劉度様は物資輸送や後方の治安維持で活躍されておりました」
道中、零陵軍の足取りを尋ねるとそう返ってくるのがほとんどだった。
「前線に食糧を運ぶのは当然として、奪われたり焼かれたりした分の食糧を持って来たり、防備の薄くなった地域を盗賊から守るために戦ったり……後方支援って言っても楽じゃないんだな」
「叛乱鎮圧だから楽な方だ。外征ならば現地の支持を失えばすぐに敵地に逆戻りして孤立する。腐っても官軍で解放者だからこそ進軍も早いし、少数の零陵軍でも迅速に物資が運べる」
「孫子で似たようなの見たかも……やっぱ実感することって大事だな。百聞は一見に如かず、だ」
零陵軍の足跡を追うように沛国へ入った。
沛国では農業に注力していたのか、農村では食糧を官軍が買い上げて行くため好景気に沸いているようだった。
「ここ数年の気候の中で備蓄できる程に豊かだったとは。蝗と軍からの買い上げで今年の収穫分は少ないだろうに、民には余裕が見えるぞ。少し農業の事を聴いて来ても良いか?」
李梅の興味を引くものがあったのだろう。急ぐ旅でもないから、と一刀は快諾した。
村に立ち寄ると李梅は村長の家を尋ねて行った。
「やっぱり村の生産性を高めるのに感心が強いんだな。リトマス試験紙とか作ったら喜ぶかな……」
「りとます試験紙? とはどういったものですか?」
「土を紙に付けると赤か青色に変わるんだよ。赤が酸性で青がアルカリ性……アルカリって何だろ? まあ土がどういうものかを簡単に調べられるんだよ」
「赤か青……植えたアジサイやアサガオの色で肥料の調整をしていますので、それと似たようなものでしょうか?」
「あー……まさにそれ。すごいね人類の知恵……」
「経験則でやっているものを言葉で説明できるようにするのが大事ですよ。私たちがやっているのも半ば神事や占いのようなものですし……おや?」
桜桃が何かに気づいて振り向くと、浅黒く日焼けした眼鏡の少女を村人たちが迎えようとしているところだった。
「……チントウサマ、と呼ばれているようですね。かなりの身分のようです。挨拶しておいた方が良いかもしれません」
「分かった、て言うかこっちに来てるな」
見慣れぬ人間が居たことで警戒しているのか、一刀たちを睨むように見つめている。
「この村に何か御用ですか? 兵糧を買い上げる際は直接村と交渉せず、ボクか宰相を通すように決まっているはずですが」
「兵糧? いいえ、私たちは零陵軍の劉度様に零陵で起きた事の報告をしに来ているだけです。この村に立ち寄ったのは、冷夏が続く中で農業を成功させている事に感心したためです。申し遅れました、私は北郷一刀、こちらは区連、それと村長の所に区星という者がおります」
「それは失礼しました。ボクは陳登。黄巾軍と戦うとか、蝗害の復興のため、とか言って食糧を買い上げようとする商人や官軍が多かったもので……」
どうやら陳登は一刀たちに敵意があって睨んでいるのではなく、多忙を極めていることから気難しい顔が癖になっているだけのようだった。
一通り挨拶を済ませると村長の家から李梅が村長を伴って出て来た。
「おお、陳登様。いつもながらこんな鄙びた村に足を運んで下さり言葉もございません」
「そんなに畏まらないで。ボクにとっても畑を見るのは息抜きになっているから」
どこか突き放すような言い方になってしまうのは陳登が口下手なのだろうか。それを心得ているのか村長は気にした様子もなく、李梅に陳登を紹介した。
「この御方が先ほど話した陳登様です。陳登様、こちらは陳登様がよく読んでおられる本の……神農様の土地の出身の区星殿です」
「ここで話せなければ政庁で探していたところだ。この村は開墾して間がないそうだが、肥料や麦の品種をどうやって選定したのだ?」
「うん。それはこの辺り一帯が農業試験の村々だから。ここの土壌では上手くいったし、上手く行かなかった村もあった。だから来年はこの村と似た土壌の村はこの村のやり方でやる。不作の村は減税と収穫量の多い村から格安で作物を買えるようにしてる」
「広く農地を使える利点だな」
お互い口数の多い方ではないため飾り気のないやり取りが続いた。
「ボクからも聴きたいのだけれど、神農の農政書にあるもみ殻やワラを使った生物炭ってどんなもの? そのまま土に鋤き込むのではいけないの?」
「それこそ試してみるべきだが、土質への影響が不安なら木炭に木酢液を染み込ませて――」
当人同士は盛り上がっているようだった。
話に付いて行けない村長は困った顔をしていたが、立ち話をさせるのは失礼だからと自宅に招いた。
「――なあ桜桃、生物炭って何だ?」
「炭のことですが、特にワラや鶏などの家畜の糞から作った炭のことです。田畑に鋤き込むと土壌が良くなると伝わっていますが、やはりその原理を言葉で説明するのは……」
「燻炭とか鶏糞堆肥のことか……園芸コーナーで見かけるから確かに効果はあると思う。理屈までは知らないけど……」
村長の家でも李梅と陳登の農業談義は止まらず、陳登は農村での好景気を活かして家畜の購入をする計画や近隣の郡や州にも農政指導をしたいと語った。
「そのためにも早く黄巾の乱には鎮圧されて欲しいのだけれど。奪うよりも耕す方が得をする……冷害や虫害にも強い品種を作りたい」
陳登の志の高さには一刀も尊敬を覚えた。
どうやら陳登も一刀たちの事を気に入ったようで、互いに真名を交換した。
「話していたいのは山々だけど、ここの畑の記録をしないと……その後は政庁に戻るけど、一緒に行く?」
陳登、真名は喜雨。喜雨の提案で沛国の政庁まで同行することにした。
「零陵軍なら東の方でいくつかの部隊が物資を集めてるから、彼らと合流すれば劉度様に会えると思う」
翌日、現在零陵軍がどの辺りに居るのかを政庁で調べた喜雨が教えてくれた。
この日は登庁しての仕事があった喜雨と別れ、言われた通り東の方へ行くと零陵の旗を掲げた一団を見つけた。
「行進の足並みが揃っている。官軍に化けた賊ではなさそうだ」
近付いてみると牛車の一団を護衛している兵に呼び止められた。
「黄巾軍を倒すための物資なのだ! 済まぬが分けてやることは出来ない!」
「零陵の武官、区星だ。呂強様から劉度様への伝令で参った」
そう言って李梅は細梔の符を見せた。
「区星殿……苗族の武官ですか。苗族の武官は刑道栄殿のような武勇を持つと聴きますし、少数での伝令というのも納得です。本隊は道なりに進んだ先の砦に駐屯しており、劉度様もそこに居られます。それほど遠くはありません」
「そうか。護衛の手は足りているか?」
「巡察は沛国と協同して本隊も行っておりますので。区星殿は早く劉度様の下へどうぞ」
「ではそうさせてもらおう」
零陵の輜重隊と別れて道なりに馬を走らせると古い砦があった。
攻城戦でもあったのか、一部の壁には最近補修されたような跡が見える。
下馬した李梅が大声で城門の上に居る兵に零陵から報せがある旨を伝えると、少し待つよう言われた。
「やっと着いたな。季節ももう秋……結構寒いな。董衣たちの抜け毛も凄いし。俺の国だと天高く馬肥ゆる秋、なんて言ってたけど、冷夏や蝗で大変な冬になるのかな」
「既に諸物価の高騰が起きているだろう。とは言え馬たちには冬に向けて良く食べさせてやりたい。帰りに喜雨の開拓村で飼い葉や豆を買わせてもらおう」
しばし雑談していると城門が開き、中から李梅と同じ褐色肌の女性が現れた。比較的長身で鎧を纏った姿に、女騎士と言う言葉がぴったりだと一刀は思った。
『李梅様……「おう」の姓を持つ貴女が姉上まで御連れして使い走りなど……』
李梅が中原の言葉に不慣れだろうと気を使ってかモンの言葉で話しかけて来た。
『働く必要があれば働く。それに良い出会いもあった。紫露も良い経験を積んだようだな』
『はい。幾度かの実戦を経て成長できました。自身の武力をどう振るうのか、どこまで手が届くのか……戦場で私の手の届く範囲とは、あまりに狭い事に気付きました』
『うむ。紫露の成長も気になるが零陵より報告がある。中へ入って良いか?』
失礼しました、と女性が一礼して道を開けた。
面識のない一刀が気になるのだろう。中を案内しながら女性が一刀に話しかけた。
「貴方とは初めて会いますね。私は刑道栄と申します」
「俺……じゃなくて私は北郷一刀です。東の島国の出身ですが、一応李梅たちと同じ言葉が出来るから、話し難かったら話しやすい方でどうぞ」
「……お気遣い感謝致します。ですが、漢人の知らない言葉で話していると兵たちに警戒心を与えてしまいますので。北郷殿は李梅様たちと真名を交わされたのですか?」
「そうです。真名の習慣が無い土地の出身なので交わしたと言うか正確には分かりませんが」
「そうでしたか。では私からも真名を預けさせて下さい。私はジル、漢の字で紫に露の発音です」
「えっと、「る」の音がちょっと飲みこむように発音するんですね……私は名前の一刀が真名のようなものです。よろしくお願いします。紫露さん」
「李梅様たちを差し置いて私に丁寧な言葉は不要です」
「は、はぁ……分かった。時間と場所は弁えて、あまり馴れ馴れしくならない程度にやってくね……」
一刀の知識では刑道栄と言えば軽率な武将だったが、生真面目そうな態度の紫露からは正反対な印象を受けた。
「こう見えて紫露は昔、区星から区の姓を奪おうと躍起になっていたぞ。幾度も模擬戦を挑まれては返り討ちにした」
過去の事を言われ、真面目そうな表情だった紫露の頬に朱が差した。
「李梅様! ……いえ、確かにそうでしたが、今は己の思慮の至らなさを恥じております」
「その辺りの事も今の紫露なら笑い話に出来るのではないか?」
「まあまあ李梅……劉度様には私と李梅とで報告をしてきます。紫露は一刀様を案内してくれますか?」
「御意。劉度様はこのまま真っすぐの所に居られます。それでは私が馬を厩に預けておきます。ですので一刀様、お手間ですが厩の後に宿舎に案内させていただきます」
「一刀様はご自身で馬の世話をなさるのですね……」
宿舎で茶を入れた紫露が言った。
どうやら馬装解除やその後の手入れまでしている所を見て、紫露は一刀を見直したようだった。
「俺からしたら当たり前だけどな。毎日重い荷物の俺たちを乗せてるんだし、信頼関係が無いと上手く走ってくれないだろ……って牧場をやってる親戚が言ってた」
「そうだとしても井戸からの水汲みまで率先するのは……ただの育ちの良いだけの人では無いのですね」
「いやいや、本当に当たり前のことだから。なんだか挨拶するだけで褒められてるような、変な感じがするからやめてくれ」
「はい。それでは、先ほど李梅様が言った区の姓を奪おうとした頃の話をさせて頂きます……若気の至りとしか言えないのですが、当時の私は己の武を過信しておりました。そして李梅様を模擬戦で降せば一族の宗主権が我が家の物になると思っていたのです……」
「一つ訊いても良い? 区の姓ってそんな簡単にやり取り出来るものなの?」
「ああ、そこですか。「区」は中原の「王」から来ているのです。我々の祖先についてはご存知ですか?」
「桜桃の昔話で聴いたよ。神農氏の末裔だって」
「その通りです。蚩尤の叛乱で中原と袂を分かった後、敗れた我々の祖先は侮蔑的な意図を込めた字で呼ばれるようになりました。その中でも王族は国構えの一部が欠けた区の字で表記されるようになったのです。敗れた国、城壁が崩れている、と……」
そう言って紫露は机に□と匚の字を指で書いた。
「つまり王の称号みたいなものか……じゃあなんで今でも区の字を使っているんだ?」
「それは我々の本質に近かったからです。壁は開かれ、人の交わりがある」
「成る程、匚の中のメを交わると捉えたのか。西方とも交易してるし、確かに国境なんか関係ないな」
「さらに言えば黄帝の時代から続く侮蔑ということは、その時代から続く血統であることの証明にもなります……そして、母系を辿れば李梅様も私も、皆同じ祖に辿り着きます。ですので力を証明すれば区の姓、つまり宗主になれるのでは、と考えたのです」
「へー……」
「ですが、そんな私の挑戦も全て敗れました。大斧を振るおうと、槍で突こうと、短刀一本で受け流されてしまいました。もっと恐ろしいのは近付かれた際の寸勁や体術なのですが――」
「刑道栄様! 至急劉度様の下へお越しください!」
部屋の外から兵の声が聞こえた。
「どうした、騒々しい」
「失礼しました。勅使がお見えになりました」
「ご苦労。すぐに行く……一刀様、そういう事ですので行って参ります。もしかしたら予定を繰り上げて出陣せよということかもしれませんので」
「分かった。ここで皆を待ってるよ」
紫露が出て行くのを見送り、一人になった一刀は大きく伸びをした。
「黄巾党の後で大きなイベントって言ったら董卓が朝廷で実権を握る、だったか。その前に袁紹と袁術の宦官虐殺だっけ……って事は何進の暗殺でもあったのかな?」
区の姓は漢の景帝の時代、歐姓の慈悲深い裕福な商人を賞賛して區の族姓を下賜したのが起源だとかなんとか……他にも越王勾践の剣を作ったとかもあったり、区と王は発音がどうとか色々あるのでいつものことですがここでの話は鵜呑みにしないでくださいませ。
刑道栄の真名の紫露は縞紫露草シマムラサキツユクサから取りました。読み方は中国語から……地域によって発音変わりそうですが。
シマムラサキツユクサの花言葉は「尊敬しているが恋ではない」、薬効に利尿作用がある植物です。劉度は恋姫の小説で失禁キャラらしいので……もう一つの候補は「逆境に耐える」が花言葉のカモミールの徳国洋甘菊から甘菊でした。甘菊は甘菊で別に有るので紛らわしさが爆発なので却下。シマムラサキツユクサもムラサキツユクサも花言葉は同じ(らしい)なのでこれはまあ許容範囲かなと。




