第50話 零陵帰還
零陵軍から戦果と帰城の報せが細梔に届いた時、武装させていた侍女が勝利の報せにざわめくのを尻目に、細梔は衛兵隊長に指示を出した。
「勝った、との報せではありますが、兵符を預けた郭石から直接報告があるまで警戒を緩めぬよう徹底させなさい。味方を騙る敵や賊が居ないとも限りませんし、勝利の酒宴に酔った所を狙い襲撃するのも古来からよく知られるところです。我らに油断の無い所を示すため、城壁の警備と夜間の篝火も増やすように」
衛兵隊長は「何もそこまで――」と思いながらも細梔の指示に従った。平時の柔和な印象とは似ても似つかぬ、有無を言わさぬ風格を感じたからだった。
報告には真名を交わした李梅や一刀たちが戦闘に参加し、並ならぬ功績を上げたというものがあった。戦が命のやり取りである以上、規模の大小に関わらず危険はつきまとう。功績を上げるついでに負傷してはいないか心配な気持ちがあればこそ、彼らの帰る場所を守らねばという覚悟に繋がってゆく。
細梔は侍女たちに向き直って言った。
「さあ、今一度警戒を強めなさい。今晩は酒宴を催しますが決して勝利に酔わず、敵が紛れているかもしれないと言う気持ちで給仕をするように」
「はいッ」
長沙での諸々を終え零陵に戻った一刀たちを迎えたのは、市民の歓声だった。長沙の叛乱軍討伐での兵の損失が零陵軍としてはほとんど無かったことからだろう。
元々、荊州全体で討伐に当たると説明されての出兵だったが、それでも攻城戦となれば被害は出るだろうと心配して送り出した家族が大した怪我もせず帰って来たのだ。
「すごい盛り上がりだったな。家族が無事に帰ってきたら嬉しいもんな」
「それもあるが、区星が思うに今年は豊作を期待するには少し冷えている。それを感じているからこそ、努めて明るく振る舞っているのだろう」
「そうなの? ……そうか、品種改良とか肥料の発展のお陰で多少の冷夏でも満足に食っていられたんだな……」
戦後に水稲農林1号から今の品種に繋がっていったんだっけ――、と一刀は子供の頃の授業を思い出した。
「街中は明るい感じだけど、城門の警備隊とか政庁前の衛兵は真面目というか、いつもより緊張してるような気がするな」
「勝利に驕って浮かれているよりはずっと良いと思うが、趙忠の間者でも見つかったのかもしれん」
「多分、呂強様の方針だよ……黄巾の乱の前にも叛乱があって鎮圧したんだけど、呂強様は凱旋した兵が乱痴気騒ぎを起こさないよう風紀を引き締めてた……それもあって血の気の多い将軍たちからケチだって言われてたけど、呂強様は今も変わってないみたいでシャンは嬉しい……」
不思議に思っている一刀たちに香風が言った。
政務の間に着くと郭石から兵符の返還と戦闘の報告がされた。
郭石は李梅率いる異民族の活躍と交州軍の武勇と規律の高さを賞賛し、中でも作戦の全体像を作り実行させた朱里、雛里の軍師の功績が大であるとして褒賞として中央への推挙と金銭を与えるよう訴えた。これは最初、一刀たち全員が貰えるように報告しようと郭石が言ったのを一刀、香風が辞退したのだった。
香風は曹操に仕官の誘いを受けていて金には困らないと言い、一刀は既に零陵から給金を貰っているから朱里たちの路銀の足しにして欲しいと言って辞退した。
これに朱里たちは「私たちは一刀様の食客なのだから、むしろ一刀様が受け取るべき」、と主張したが、武の面で頼りない二人が仕官先を求めて旅をするなら護衛を雇えるようにと言って承服させた。
そして、ある意味それら戦闘行動の報告が雑事になってしまう本題が始まった。
「これが漢から皇帝位を簒奪した王莽の玉璽ですか……」
「はい。長沙で見つかりましたので、既に太守に任命されていた孫文台様に届けましたところ、『本当にこれが玉璽であるか判別がつかない。偽の玉璽を洛陽へ送り主上の手を煩わせるのは臣下のすることではないから、まずは故事にも明るい呂強殿が真贋を見極めてから判断するべきである』、とのご指示を頂きました」
「成る程……2百年前の文字でしたら確かに即位儀礼などの原典で見慣れています。それではまず玉璽本体から……」
それから細梔は玉璽の鑑定を始めた。本体の材質や文字の彫り方、捺した時の字体。そして同席していた士燮とも話し合い――
「これは2百年前の物に相違無いと判断します。当時の字の特徴でこの部分の膨らみ方、止め方、彫刻の形……いずれもが宣帝期の頃の流れを汲んでいます。これが王莽の玉璽となると、主上にお渡しして光武帝の大業を果たして頂く他ないでしょう」
(大業を果たす……確か光武帝が後漢の祖だから王莽を倒した。その玉璽が見つかったから、今の陛下が壊すことで王莽の王朝を完全に倒した事になる……ってことかな?)
こうして玉璽は早馬を飛ばして洛陽へ報告して朝廷の判断を待つこととなった。
「張津のその後についてはどうでしたか?」
「捕縛した張津はそのまま長沙にて牢に繋がれております。常用していた薬が切れたせいか、うわごとをぶつぶつ呟いていたかと思えば身体から虫が這い出て来た、と叫んで身体中を血が出るほど掻きむしったりしているようです。また、言葉が通じるかと思えば隠し財産の在り処を教えるから薬を持ってきてくれと言ったり……勇猛で鳴る孫文台様の精兵ですら不気味がって近寄ろうとしません。梟首とする前に、人間をこのような廃人にする薬を作ったジョカという者について尋ねなければならぬと御怒りに震えておられました」
麻薬の恐ろしさを一刀と華佗の二人が伝えるまでもなく、孫堅は実例を見て認識していた。
「そうでしたか……薬も用法を間違えれば毒となる。対策を考えておくべきでしょう……他に報告する事が無ければ一度解散、宴席の用意をしておりますので後ほどお集まりください」
長沙での顛末を報告し終えると宴席の準備が始まり、一刀たちはそれぞれ割り当てられた官舎で休むよう促された。
香風に聞いた通り乱痴気騒ぎ――戦後で気の逸った兵が女官を手籠めにしようとすること――を起こさないためか警戒されており、そもそも何か手伝おうにも一刀に出来る事はほとんど無いという状態だった。
いつもしていた事と言えば士燮に借りていた孫子の写本だったが既に終えていたし、喫緊でやらなければならないことは無かった。
「厩舎に行くくらいならいいかな。幹部用の所を借りれたから近いし」
官舎の警備兵に行先を告げてから厩舎に行くと、意外な先客が居た。
「細梔、様。厩舎に居るなんて意外でした。自分の馬を持っていたんですか?」
「様は要りませんよ、一刀様……そういう訳ではなく、皆を無事に連れて帰ってくれた功労者たちを労いに来ていたのです。長旅と戦と、本当によく頑張ってくれました」
そう言いながら首を伸ばしてアピールしている董衣の鼻先を撫でた。
「聞けば長沙だけでなく、黄巾党とも戦ったとか」
「あれは……行先が塞がれる形でしたし、そうしないと流民の人たちが危なかったかもしれないので……」
「咎めているのではありませんよ。そこで良い縁に恵まれ、これから世に出る才覚の持ち主たちと出会ったのですから」
「朱里や香風たちですね。香風は洛陽で仕官していた頃に世話になったって細梔さ……細梔に会いたがっていました。後で話してあげて下さい」
「徐晃さんですね。あの方が官を辞した時、私もそうですが、皇甫嵩様や何進様も残念に思っていましたよ。そうした良い縁だけなら良かったのですが、王莽の玉璽の所在を予言してしまったのですから……」
「冗談で言っただけなんですけどね……それはそうと、長沙で保護した子の事なんですけど……」
「長沙で分かったのは名前と親に売られたという経緯だけ、でしたか。悲しい思い出があるでしょうし、落ち着くまでは長沙から連れ出すのには賛成です。もしジョカが必要としてのことなら攫いに来るかもしれません。何にせよ手の届くところで保護しておきましょう。そろそろ宴席の準備も整う頃ですので、あまり遅れずに来てくださいね」
一刀は細梔を見送ると飼い葉桶から人参を取り出し董衣の前に差し出した。隣の馬房から羨ましそうな視線を感じるが、おやつのタイミングはそれぞれの主人が管理しているので勝手には与えられない。
「本当にお疲れ様だ……良い食べっぷりだ。秋にはまだ早いから少しだけだぞ」
零陵へ帰還してから数日が経ち、士燮ら交州軍は帰還の途に就いた。
新野の義勇軍も零陵で官軍に協力した褒美を貰うついでに出稼ぎ大工をやってから順に帰ると言った。組織的な輜重隊をもっていなければ、官軍でもないのに大人数で移動するのは長沙の敗残兵に間違われるリスクがあるからだった。
朱里たちは一度水鏡女学園に戻り、それからまた旅に出て仕えるべき主を探すと言っていた。その際一刀に、もし天下の乱れを正そうとする気になったら同志として協力は惜しまないと約束した。
「荊州、益州、交州の軍を統括する御方がもうじき決まりますが、おそらく主上の妹様である劉協様が選ばられると思います。十常侍の性質から考えて、都合の良い傀儡として政務の経験はされていないと思われます。その補佐として十常侍の息のかかった者が私腹を肥やしにやってくるでしょう。その専横を止める力が劉表様に残っていれば良いのですが……」
「水鏡先生の所に戻ったら徐庶ちゃんに一刀様の事を話してみますね。徐庶ちゃん、かなりの引きこもりだから一刀様からのお手紙に返事を出さなかったのも悪気があった訳じゃ無いと思います。私と朱里ちゃんで話せば何かしら知っていることを教えてくれるかも、です」
二人は乗合馬車で学園へ帰って行った。
香風は曹操の下へ仕官することを決めたが、李典たちから渡されていた曹操の書状には特別急ぐ必要は無いとあった。そのため、呂強から宝の護衛を兼ねて面倒を見て欲しいと頼まれていた。
当初は何にも興味を示さなかった宝だったが、一刀が朱里に返却しようとしていた山海経を紙芝居のように朗読したところ食い入るように見つめた。
「お兄ちゃん……宝の事だけど、昔話が好きって言うよりは、昔の鬼神や伝説に興味があるみたい……シャンが子供の頃、お婆ちゃんから聞いた河北の伝説を話したらなんとなく聞きたがってた……」
「そっか……じゃあしばらくはそっち方面から攻めてみようか。せめて会話できるくらい心が持ち直してくれればいいんだけど……」
「細梔様も時間を見つけて話してみるって……」
香風がどこか満足気に細梔の真名を口にした。元々、都では話す機会が無かっただけで互いにその働きや実力を認め合っていた者同士であり、話している間に自然と真名を交換していたのだった。
「俺はこのまま二胡……胡琴? の練習をするけど聞いてく?」
「少しは上手くなった? お姉ちゃんの演奏に比べたら、その……」
「桜桃と比べるなよ……一応、音と音の繋ぎは出来るようになったぞ」
長沙で世話になったモンの村長から贈られた二胡を取り出し一刀が構える。モンの村で行った戦勝会の余興で桜桃が村長から借りて演奏したところ、感激した村長が持って行ってくれと渡して来た物だった。
それを手持無沙汰な一刀が借りて習っていると、江南異民族を饗応するにあたり彼らの言葉や音楽などが出来る人間が居るのは心強いとして二胡に慣れるよう文官たちから要請されていた。これには額面通りの意味がほとんどだったが、政務の処理能力が素人レベルの一刀に勉強のための時間を与えるという理由もあった。
桜桃に教えられた簡単な曲をたどたどしく演奏しながら一刀は尋ねた。
「素人ながらちゃんと音が出るのは結構楽しいぞ。香風もやってみるか?」
「止しとく……手で爪弾いた方が楽そう。天和たちがそういう楽器を持ってたよ……こんな風に演奏するの」
香風がエアギターのように身体を動かした。
「ギターとダンスパフォーマンス? やっぱ俺と同じような時代から来た人が居たんだな……」
「ふぅ……それと、曹操様からお兄ちゃんに書状があるよ。しばらく過ごして女っ気がなければ渡すように、ってシャンが貰った書状に添えられてた」
「女っ気って……今の時代は奔放かもしれないけどさぁ」
香風から渡された書状によると、項羽と虞美人の子孫が汝南の山奥で項羽の剣を守っているという噂を伝えるものだった。
「覇王の光る剣、だって。洛陽の貂蝉さんから頼まれた遺物探しの情報をくれたのか」
「どんな内容なの?」
「えーっと、山奥で遭難した行商人の男からの情報で、死にかけていたところを美しい娘に保護されて話が始まる……その夜、厠の帰りに蔵から光が漏れている事に気づいた。男は泥棒が入ったか娘が何か作業をしているのかと思って中を覗いたが、中には誰も居らず金色の鞘に納まった剣が光を放っていた……思わず手に取って抜いたのを娘に見咎められ、思わず剣を手放してしまうと地面に深々と刺さっていた……翌朝、目隠しをされながら馬に乗せられて、人里が見えるところで開放されたそうだ。どうして剣が項羽の物か分かったかったかっていうと、鞘に有った模様を学者に伝えたら恐らくそうだろうと言われたから……この行商人、飲み代欲しさに吹かして回ってるんじゃないか? あと蔵に入ったのも泥棒しようとしたとか……って、曹操も同じ事を書いてた。何であれ汝南周辺の名士と縁を結んでおきたいから人を派遣するので、一緒に行きたければ秋までに来てくれってさ」
「……行ってみるの?」
「李梅たちに相談してからだけど、行ってみたいと思う。汝南だったら安全だろうし。でもどうして女っ気が無い場合に渡せって書いてたんだ?」
「……虞美人のような絶世の美女を相手に変な気を起こして、項羽の力で締め上げられたら死んじゃうから……じゃないかな」
「あー……なるほど。取り敢えず次の目標が決まったな。楽器の練習は……新野の天和たちに教えてもらえるかな? 流石に甘えすぎか」
音楽の世界で3千人の流民を養いながら旅をした破格の実力者たちに音楽を師事してくるという名分もあれば、中央の情報や文物を持ち帰ることもできる。政争に敗れたり戦乱から逃れて荊州に来た者たちの中には必然的に知識人が多く、文化の中心と言える中原の新しい書物などは喉から手が出るほど欲している。一刀が汝南へ旅に出ることを止める者はほとんどいないであろう。
さらに、零陵としては未だ帰還しない本来の太守である劉度の消息も知っておきたいところだった。最後に受けた連絡では徐州から青州の間で輸送路の守備に充てられているとのことだったが、伝令を飛ばす余裕もないのかただの不手際なのかも判別がついていない。汝南は袁氏のお膝元ということもあって栄えた地であり、情報も集まりやすい。
「うん。行く理由はある……でもいろんなところにほっつき歩いて仕事しない奴って思われないかな?」
一刀の不安に香風は呆れながら言った。
「お兄ちゃん……何時どこが戦地になるか分からないのに外に出ようとする人なんて居ないよ……きっと、命がけの偵察に行きたがる烈士か何かに思われるよ……」
職場がコロナのクラスター認定されたり色々あって疲れました。筆者は陰性だったのでずっと働いておりましたが、N95マスク君はつらいですね……




