睦みごと
色々大変な時期ではありますが。
あまびえますくおんらいん
stay home, enjoy home.
少しでも早く終息することをお祈りしています。
「あまびえさーん!」
振り返らずにわたしはそのまま先を急ぐ。わたしの名前は阿満美枝であり、妖怪などと言われる筋合いはないのだ。
「あまびえさーん」
後から迫る声が気持ち悪い。後輩の声であることは判ってはいるが、わたしは振り向きもせずにエレベータのドアのボタンを押し、そのまま中に入る。ふりむきざまに後輩の駆けてくる姿は見えたが、そのまま目的階を押す。ドアがすぐに閉まって後輩の姿が見えなくなるとわたしはほっと詰めていた息を緩めた。
「おつかれさま」
耳元で声がして、ぎくっと振り返ると、そこには見知った顔があった。
「武良くん……」
声で誰かは判ってはいても、姿が見えてほっとする。そのまま、エレベータの壁に背中が触れるのを感じると、長い腕に閉じ込められた。たった二本の檻に。
「ま、待って……」
「待たない。っつーかずっと待たされてた」
不機嫌さを募らせた低い声が、甘く耳元でわたしを翻弄する。その声に弱いことを熟知しているひとは、うっそりと目を細めてわたしの頬を撫でる。
「……っ!」
わたしを隅々まで学んだ指が、やわやわと撫でる。やさしい動きである筈なのに、それは甘さよりも執念さえ感じさせられた。どうあってもここで、という。わたしは白旗を上げるしかない。ただし、要望はきちんと伝える。そうしないと悲惨な目に遭うと身に染みているからだ。
「するのはベッドの上じゃなきゃイヤ。体はちゃんと一人でお風呂に入って綺麗にしてから。避妊は必須。明日は普通に仕事だから夜もそれなりの時間にはきちんと休ませて」
恋人に求められるのは嬉しくない筈がない。でも準備が整わない状態とか無茶振りとかはごめんである。あとが色々大変だからだ。
細めた目が満足気にわたしを見つめて、「わかってる」と甘えるような軽い口づけを施す。エレベータの監視カメラには映っているだろうけれど、わたしが彼と婚約しているのは知られているので、警備の人に見られたくらいなら問題にはならないだろう。警備待機所を通り過ぎた時に口笛を吹かれるわたしが恥ずかしいだけで。
そっと視線を外すと、顎を指先で掴まれる。「俺を見つめてくれないの?」と甘える声は、自信に満ちていてその言葉は嘘だろうとつっこみたくなるが、言っても無駄なことは判っている。
「その……、待ってくれないから、……イヤ」
声が甘えたものになった自覚はあった。途端に激しく口づけられて翻弄される。先程までの軽いものとは違う、深さと激しさに、膝があっさりと力を失った。
「着いた。丁度いいね」
わたしを横抱きにして、エレベータを降りる。そこに広がるのは、彼の気分で用意された部屋だ。……今日は、青空が広がっている。それが天然のものではないと判っているけれど、気分的な忌諱感は拭えない。わたしは頭を抱えた。
「寝室じゃなきゃイヤって」
「でもベッドの上ならいいんでしょ? ほら、ちゃんと用意した」
「体を綺麗にしたいって……!」
「その状態じゃ一人で歩けないでしょ? 洗ってあげる」
不埒なことしか考えてない目だ、とわたしはじっとりとねめつける。
「希望を叶えてくれないなら、ヤだ」
つん、とそっぽをむくと、ベッドの上に座らされて、隙間なく隣にその太腿が座る。強弱をつけて膝頭を撫でる指がそっと内側へ入ろうとするのを、なんとか踏ん張って留めているが、あまり持たないかも知れない。指先がそっと内腿の端で円を描くように撫でると、思わず声が漏れる。
その隙を逃すような甘い男なら良かった。つけこむような指の動きはもう攻撃を緩めてはくれそうにない。体を清めることは断念しなければならないかも知れない。
「希望を叶えてくれないなら、ヤ」
わたしの涙が滲むのを見て、流石に慌てだしたようだ。そこまで嫌がって見せないと、彼は本気で留まってはくれない。察してくれるだろうなんて甘い考えはすっぱり捨てることにした。彼には空気を読むなんて高等技術はない。
「ごめん、悪かった。美枝」
硬い膝の上に載せられて、すっぽりと抱き込まれて頭を撫でられる。滲んだ涙をそっと舌先が舐めとって、思わず手を払いのける。
「イヤって言った!」
「可愛かったから、つい。ごめん」
「イヤって言ったのに!!」
こういう言動は子供かと思うけれど、イヤだったということをしっかり伝えないと、この男は何度でも同じことをするのだ。毎度それで被害を受けてきた身は、おざなりにすると悲惨さが格段に増すのだということを理解した。「可愛かったから」は免罪符にならないのだと骨の髄まで学んで貰わねばならないのだ。彼は、それを学べるのだから。
「ごめん、どうすれば許してくれる?」
苦笑するような声が耳元に響く。甘い低い声はもうなんでもいうことを聞いてしまいたくなるほど好きだけれど、ここはむしろ要求の聞かせどころだとわたしは鋼の意志でなんとか持ちこたえる。珍しく彼が譲歩しようとしているのだ。叶う限りの条件を飲ませたい。そうでないと身がもたない。
「今日はなしでずっとこのままぎゅってしてて欲しい」
「……………………………………………………………………」
わたしを抱きしめたままの体ががくんと揺れる。折角ここまで連れ込んだのに、とか彼は思っていそうだけれど、ずっと彼の望みばかり聞いていたわたしが甘すぎたことも知っている。我慢させるのは申し訳ないけれど、一度くらいは許されるはずだ。もう一押し、しておこうか。
「たまにはいいでしょう? こういう風に甘えていちゃいちゃするのも」
上目遣いでそっと見つめる。彼がこの表情に弱いというのは、周囲から聞いた話なので間違いはないだろう。
「明日は、いい?」
ここで対応を間違ってはいけない。うっかりすると零時過ぎればいいんだよね?と返ってくるに違いない。
「明日の仕事が終わってからなら」
そうきっちり言わないと零時を過ぎたからと抱きつぶされて朝までになりかねない。そうなったら仕事に身が入らないどころか下手をすると休む羽目になる。
「わたしは人間として、ちゃんと仕事と家庭を両立させたいの。その望みを叶えてくれなきゃ、イヤ」
視線を合わせてそういうと、拗ねたような顔だった彼の目がちょっと緩んだのに気付く。
「良かった。今日は全然目線を合わせてくれなかったから」
やさしい微笑みに、思わず視線を逸らす。美形というのは罪つくりだ。いろんな意味で。
「だって……」
それ以上の愚痴は流石に零せなかった。またベッドへ雪崩れ込むことになりそうだったので。
「判った。たまにはゆっくり君を膝の上で甘やかそう。溺れるほど、ね」
どこまでわたしが持ちこたえられるかは不明だけど、今夜は彼が甘やかしてくれるらしい。うっかり色々おねだりしてしまわないか心配ではあるけれど、思い人の腕の中で優しく愛されることは嬉しいことなのだ。……時々、過剰すぎてあとが大変になることも多いけれど。
わたしは彼の首元にそっと額を寄せて、鎖骨のあたりにそっと唇を落とした。
その反撃が来ることも知らずに。
少しでもお時間つぶしになれば幸いです。
書き切れなかった裏設定とか、色々勿体無いけど、まあ機会があれば。