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内川まゆみ

作者: すがなみ もへい

『おまえ、また同じとこでミスしただろ』

『小さい会社なんだから、こういうことは、ほんと困るんだよね』

『社長とお前の親父が大昔友達だったってだけで、

なんで俺たちがおまえの尻拭いしなきゃなんねぇんだよ』

『とろいくせに……!』


私は……

私は、一生懸命やろうとしてる。

でも、うまくいかない。


父にはこれ以上迷惑をかけたくない。

弟にも、今のまま、頼れる姉のままで見ていてもらいたい。

絶対に、家族に涙は見せないようにしていた。

どんなに追い詰められていても、余裕があるように見せようと一生懸命だった。


今まで必死にやってきて、何とかごまかせていた。

でも、いつまでも通用するわけないんだ。

そう……

私はバカな厄介者だから。


もう無理。

さっさと死にたい。


そんなこと考えてるなんて家族に知れたら、病院に連れて行かれるな。


たぶん、検査かなにかすれば、精神的にどうたらこうたらと診断されるだろう。

なにかしらの病名をいただけるのかもしれない。

でも、そんなことをしてる時間もないし、お金の余裕もない。

ただでさえ、家計が苦しいのに。


そうなったら私は……、本当に生ごみ以下の存在になってしまう。


仕事が終わり、重い足取りで職場を出た。

なんの達成感もなく、気持ちは重いまま。

また明日も来なければいけないのだから。


車に乗って、ふっと息をついたとき、スマホが震えた。

体が凍りつく。

何か、また仕事でミスをしたのだろうか……?

呼び戻される?


冷たくなった手でスマホを掴み、画面を見る。

弟の瑛太からだった。

体の力が抜けていくのを感じる。

「はいはい、どうしたの?」

「30分くらいしたら駅に迎えに来て」

「いつものとこでいいんだよね、30分後だね」

「……うん、そうだけど。なんかあったの?」

「え、なんでよ」

「姉ちゃん、びくついてない?」

「んなことない。えーた、遅れないでよ。こないだは随分待たされたんだから」

「あぁ、はいはい。じゃ、お願い」


とりあえず車で近くのコンビニに向かう。

暖かいコーヒーを買ったが、駐車場で飲むのも落ち着かない。

そんなわけで、ここから少し行ったところにある山際の大きな駐車場で時間をつぶすことにした。

夜は不気味なところだが、明るい時間帯なら、なかなか気持ちのいい場所だった。

いつも営業のおじさんが車の中で爆睡しているのだが、今日は一台も停まっていない。

夕方だし、こんなものだろう。


イスを少し倒してフロントガラス越しに少し曇った夕空を見る。

いつまで、仕事を続けなくちゃいけないんだろう。

いつまで、こんな毎日を繰り返していくんだろう。


あきらめない、頑張る……。

そう自分に言い聞かせてずっとやって来た。

でも、正直……そろそろ壊れてしまいそうだった。

前の職場も、同じような理由で辞めた。

今回の職場で働き始めてから、まだ一年もたっていない。

辞めるわけにはいかない。

もっと頑張らないと。

もっと……。


ドリンクホルダーにおいてあるコーヒに手を伸ばした時だった。

視界の端、……助手席のドアのすぐ外に誰かが立っているのに気が付いた。

「(え……?)」

考える間も無く、“それ”は素早くドアを開け、隣に乗り込んできた。

声が出ない、体も動かない。

呼吸してるかどうかも分からないし、何が起きているのか分からない。

「大声を出すなよ。すぐに殺せる」

男は低くかすれた声で言った。

その手には刃物が握られている。

刃先は私の脇腹に向けられていた。

「……ぁ」

「ケータイ持ってるだろ、……それだ。よこせ」

男はスマホを掴むと不気味に笑った。


「どういう……ことですか?」

私はぐらぐらする頭の中から何とか言葉を拾い上げて男に尋ねた。

「車を出せ。言った通りに車を走らせるんだ。いいか、二度と質問するんじゃない。

意味は分かるよな。早く出せ」


そうか。

こうやって、ニュースになるんだ。


私は言われるまま、車を走らせた。


人気のない道を奥へと進んでいく。

私のスマホは途中で壊されて投げ捨てられた。


車を走らせながらも、私は気を失いそうだった。

全く余裕などなかったが、余裕があるようなことを考えようと必死になった。

それで、私がなんとか逃げ出せた時、警察にこの男のことをなんと説明するかを考えた。


おそらく、男は私よりも年上。

作業着のような服を着ており、息づかいが特徴的。

…………。

もっと、なにか、

もっと情報を集めないと。

でも、男の方を見る勇気はなかった。


体は凍りつき、私はただ機械的にハンドルを動かしていた。


「ライトをつけないのか」

タイヤやエンジンの音の中を彷徨っていた私は、その男の声で我に返った。

私は反射的にライトをつけた。

言われてみると、外はかなり暗くなっていた。

今走っている山道に、街灯などほとんどない。


「言われないとできないようじゃだめだな。まぁ、そういう子も悪くはないけどね」

大きくカサついた手が、私に触れてくる。

「……今回は当たりかな」

男の顔が近づいてくる。


…………


でも、平気。

そう。

この体は私じゃないから。

今頃私は弟と家に帰っている。

ここにいるのは誰でもない、私じゃない。

わたしじゃない……。


男は車をとめるように言った。

それから何かが起きたが、何があったのかはわからない。


枝が体に刺さって痛い……


……寒い……


…………


荒々しいエンジンの音……


車が来たの?


助かるかもしれない……


いや……違う


男の仲間だった……


やめて……


苦しい、飲みたくない……


ここって、車の中?


わたしの車、じゃないよね?


街の明かり、暗い道……


あれは、ビル?


……わたし……


いたい。


体中が痛い。


車の走る音が上から聞こえる。


ここは、……橋の下?


手をつきながら、何とか体を起こす。

ドブのようなニオイがする。

大きくてボロボロのシャツに、おかしなズボンをはいている。

靴も履いてない。

下着もつけていない。

財布もない。

のどが……痛い。


目の前には大きな川が流れていた。

見たことない川。

対岸の景色に目をやる。

見覚えのある建物は一つもない。

見たこともないような都会の景色。


痛む体を引きずって、下品な単語が書かれたコンクリートの壁にもたれる。

横を見ると、ほんの少し前まで誰かが住んでいたような痕跡があった。

ホームレスがここで寝泊まりしていたのだろうか。


ふと下を見ると、ズボンに大きなシミがあるのに気づく。

さわると痛い。

そっとまくり上げる。

右足から血が出ていた。

傷口は汚れているように見えたので、川の中で洗おうと考えた。

立ち上がり、身を低くして川に向かって歩いた。

橋の陰から出ないように、自分の体が街の明かりに照らされないように……。


川の水は淀んでおり、ゴミだらけ。

それでもわたしは構わず、服のまま川の中に入った。

体中が熱く、痛んだ。

でも冷たい……。


意識が遠のく中、私は何とか川から上がってホームレスが残していったであろう毛布に包まった。

濡れて張り付いた服のことなど、どうでもよかった。


…………


まぶしい……。


気がつくと、太陽は真上に来ていた。

私は寝ていたのか、それとも気絶していたのだろうか。

橋の間に渡されている網には、缶やビニール袋などがたくさん捨てられていた。

でもその隙間に、光り輝く太陽が見えた。

陽の光に照らされ、いろんなものが目に飛び込んでくる。

でも、状況は変わらない。

知らない場所にいることだけは確かだった。

サイクリングロードを元気そうに走ったり、自転車に乗ったりしてる人に見つからないよう、

うずたかく積み上げられたゴミの山の後ろにそっと姿をひそめた。

体を動かすと傷が痛むので、毛布に包まったまま、横になった。


弟のこと、父や母のことを考えた。


心配してるだろうか……。

探してくれてるのかな。


会社はどうだろう。

無断欠勤してしまった。

クビにする理由ができて社長も、同僚もきっと喜んでるだろう。


そして、昨日のことを少しづつ思い出しはじめた。

男が車をとめるように言った後のことを。

わたしは……


…………そう、叫んだ。

襲われた時、とにかく叫ぶようにとどこかで教わったから。

どれほど助けを叫んでも、誰もいない深い山の中では意味はなかった。


男はたじろぐどころか、かえって恐ろしい力でわたしの首を絞めつけてきた。

狭い車の中で、逃げ場などない。


とても痛くて、とても苦しい……。

そんな時間が1秒1秒と過ぎていく。


少しづつ、低い唸りのような音が頭の中で響き始める。

車のメーターのぼんやりとした明かりに照らされた恐ろしい男の顔もますます見えなくなっていく。

舌の先から痺れ始め、わたしは……。


……体の痛みで気がついた。

目を開けてもなにも見えない。

男がわたしを地面に押さえつけている。


枝のようなものが背中に刺ささっている。


男はわたしに何かしている。


手が動かない。


どっちが右手?


どうして、こんなに寒いの……?


えーた、迎えに行けなくなった。


なんで?


わたしは、どうなってる?


…………


そのあとのことは、思い出せない……。

でも体は知っている。

使い捨ての道具のように扱われたことを。

思い出せない、出したくない。

けど……。


もう、だめだ。


父さん、母さん。えーた……。

ごめんなさい。


……何か聞こえる?

声?

かすれた声がする。


「……もしもし」

「大丈夫かい?」

目をあけると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。

眼のくぼんだ年配の男性が覗き込むようにこちらを見ている。

「……あ、あの……わたし……」

「いや、起きなくていい。ここは俺の家だ。そこは俺の寝床なんだが、そのまま寝てなさい」

「その服……、びしょびしょじゃないか。それに怪我もひどいな。

近くに病院がある。すぐに行った方がいいだろう」

「いえ、いいです……。何も、持ってない……ですから」

「家出してきた奴を何人か泊めてやったことはあるが、お前さんみたいなのは初めてだよ」

「その表情では……、男にやられたか」

わたしはうなずいた。

涙がとめどなく流れた。

顔を伝って落ちていく自分の涙は、とても熱かった。

「俺は、孝一郎だ。仕事は、まぁ、いろいろだが。住んでるのは橋の下。お前さん名前は?」

「……、……さやか、です」

「で、どこに住んでるんだい?」


いろいろ尋ねられた。

でもわたしはごまかしながら話を進めた。

それでも、孝一郎さんと話しているうちに、わたしは家から100キロ以上離れたところまで

連れ去られていたことが分かった。

彼はかなり驚いた様子で話を聞いていたが、わたしの方は、ほとんど何も感じなかった。

ここは死後の世界と同じだったから。

何が起きても、もう驚くことなんかない。


孝一郎さんは、本当に優しくしてくれた。

傷口の消毒から食事の準備、下着も着る服も分けてくれた。

あまりいいにおいはしなかったし、男物だったが、心から嬉しく感じた。


二日目の朝には、自分でも驚くほど元気が出てきた。

「おはよう。寝れたかい」

「おはようございます。はい、おかげさまで」

「そうか、良かった。これなんだが……」

そういうと孝一郎さんは、服がたくさん入っているゴミ袋を私に差し出した。

「いつも男物の服だけもらうから、用はないんだが。

昨日の夜探してみたんだ。捨てられたものを着るのは抵抗あるだろうが、今はしょうがないだろう。

気に入るのがあれば着てみるといい。女はすぐに服を捨てるからな。

まだまだ新しいのも入ってるだろう?」

中には若い女性が着るような服がたくさん入っていた。

長い間しまってあったからか少しカビ臭い。

クローゼットの整理でもしたのだろう。

ベロア調のマキシ丈のスカートにレースが付いたちょっとセンスの悪いブラウス……

「もったいないですね。まだ着れるのに」

「だいたいの男は“ぼろ”になっても着るのにな」

「ありがとうございます。じゃぁ、遠慮なくいただきます」

そういって選んだのは、先ほどの丈の長いスカートと、英字のロゴが入っているTシャツ。

それと、深緑色のカーディガン。

着替えてみると、ぴったりサイズだった。

お礼を言うと、孝一郎さんは照れたように笑って、自販機のお釣り探しに出かけて行った。

わたしは、しっかり寝ているようにと言われたので、孝一郎さんから最初にもらった服に着替えなおして眠りについた。


それから数日間は、孝一郎さんの後について缶を集めたり、使えそうなものを拾ってきたりと、けっこう忙しかった。

ただ目の前にある仕事を黙々とこなした。

いつも先々の心配ばかりして憂うつになっていたわたしにとって、そのような毎日は新鮮だった。

お互い親しくなり、さやか、じいちゃん、と呼び合うようになった。


でも、押し殺しているものは、いつまでもだまってじっとはしていない。


わたしは、じいちゃんと夕食の準備をしながらラジオを聞いていた。

ニュースの時間になり、最初のニュースを聞いて血の気が引いた。


「21歳の女性が行方不明になっている事件で、警察は今日、

女性のものと思われる軽自動車を発見しました。

軽自動車が発見されたのは、女性の自宅から20キロほど離れた山中で、

周辺には被害者のものと思われる着衣や靴が散乱していたということです。

車内には血痕も残されていたということで、

被害者のものかどうか、調べを進めています。

今回の発見で、警察は、内川まゆみさんが何者かに連れ去られ、

事件に巻き込まれた可能性が高いとして……」


「21歳でねぇ……。かわいそうだ。さやかくらいじゃないか」

「……」

「どうしたんだ?」

「え? あぁ、そうですね……」

「……まさか、この事件、お前さんのことじゃないよな」

「……ぅ」

「すまん、まず名前が違うもんな。行方不明になってるのは、まゆみっていうようだし……。

まぁ、お前さんも、おんなじような目に遭ったんだ。

さやか。

くれぐれも無理だけしないようにな」

そのあと、夕食を食べて、毛布にくるまった。

しかし、寝ることなんてできなかった。

行方不明になり、事件に巻き込まれた内川まゆみさん……。

間違いなくそれはわたしのことだったから。


じいちゃんに名前を聞かれたとき、とっさに仲の良かった同級生の名前を出した。

もう自分は、まゆみじゃない。

心も体も傷だらけになったことを受け入れたくなかった。

でも、もう、自分は騙せない。

いままで逃げて避けて考えないようにしてきたことが、次々に襲いかかってきた。


お父さんは、死に物狂いで私を探しているのだろう。仕事なんかそっちのけで。

お母さんは、どれほどの涙を流し、わたしのことを考えているのだろう。

弟は、あの時ああしていればと、自分を責めていないだろうか……。

えーたは感じやすい。

時間がたてばたつほど、弟を傷つけることになるだろう……。


わたしは……、何をしている?

警察の人にも、会社の人にも、いろんな人に迷惑をかけてる。

どうすれば、どうすれば……


唇をかんで、声を押し殺して泣いた。

でも、急に気分が悪くなってきた。

まずいと思って、起き上がろうとしたとき、一気に食べたものをもどしてしまった。

もう……、抑えがきかなくなった。


わたしは泣いた。


頭上を通るトラックの音よりも大きな声で。


その時、じいちゃんが肩を抱いてくれたのが分かった。

「わ、私、じいちゃんに嘘ついた……」

「私は『さやか』なんかじゃない」

「あぁ。……まゆみ、かい?」

私はうなずき、じいちゃんに抱き着いた。

げろまみれの私をじいちゃんはしっかり受け止めてくれた。

その時、長い間心の中でこわばっていたものが砕けていくのを感じた。


しばらく泣いていたが、ようやく落ち着いた私は、服から毛布まで汚してしまったことに気が付いた。

「大丈夫。はやいとこ洗剤につけておけば、落ちるよ。

俺はよそ行きの服があるし、お前さんも着替え持ってるもんな」


着替えと厄介な洗濯を済ませて、私たちは腰を下ろした。

「本当に……すみませんでした」

「まゆみ、俺に謝ることはない。その言葉は、お前さんを愛してくれてる人のためにとっておきなさい」

「はい……」

「いや、しかし。げろと言えば……。昔、ホントにガキだったころだ。

隣の席に頭もよくてかわいい女の子がいたんだ。

もともと色白だったんだが、あるとき、ホントに顔面真っ白になってな。

今にも小間物屋を広げそうになってたんだ」

「こまものや?」

「あぁ、今おまえさんが盛大にやったやつだよ。

それで、俺はまずいと思って、すぐにでも逃げ出したい気分だった。

隣で吐かれたら、たまったもんじゃないと思ってな。

でも、その子に嫌われたくなかったから、大丈夫かと声をかけた。

まぁ、大丈夫だ、と言うんだが、そんな様子じゃない。

そのあとも、俺は心配しているふりをしながら、机を少しずつ、離してな。

気遣ってる振りをしながらもなんとか逃げようと必死だったんだ……。

げろがかからないように」

「それで?」

「あぁ、……じつは、そのあとはよく覚えてない。

たぶん吐かなかったんだとは思うんだ。

でも俺は時々、その時のことを思い出して、なんでもっと優しくしてやれなかったのかと後悔する。

げろかぶっても、人としてやらなくちゃいけないことはあるんだよな。

だから、さっきのことで俺はすっとしたね。

ちょっとでも、あんたの役に立てたんだったら、あれくらいなんでもない」

それから、じいちゃんは自分がどうして今のような生活になったのか話してくれた。

今までのこと、これからしたいと思ってることを。


朝日が昇り、辺りが明るくなった頃、じいちゃんは私にある場所を紹介するといった。

簡単な朝食を食べるとすぐ、私たちはお昼近くまで延々と歩き続けた。

寝てないこともあってしんどかったが、じいちゃんがいつになく真剣な表情をしているのをみて、

私も力を振り絞って歩いた。


大きなビルが遠くなり、緑が少しずつ増えていく。

新しい家よりも、どちらかというと古い家が目立ち始める。

その中に、ぽつぽつと高い建物があるのだが、そのうちの一つ、かなり古そうなビルの前で、

じいちゃんは足を止めた。

「……確かここだな」

7階建てのビル。事務所がいくつか入っていて、ガラスはピカピカに磨かれている。

それでも、立てられてから数十年経っているようで補修の跡も目立つ。

「俺の知り合いがここで働いてるんだ。ビルを管理する仕事をしてる。おまえさんに紹介するよ」

そういうとじいちゃんは、私の服のほこりを払った。

どうやらきれい好きの人らしい。


建物の中は静かでひんやりしている。

床はピカピカで、ゴムサンダルなんか履いてることが少し申し訳なく感じてくる。

受付の窓をたたくと、中年の男性が奥から出てきた。

じいちゃんを見てその人は微笑みながらお辞儀をした。

「あれ、孝一郎さんじゃないですか」

「久しぶりだね、山江君。うまくやってるかい」

「おかげさまで。孝一郎さんは、新しい仕事決まりましたか?」

「あいにく、重い腰が上がらなくてね。でも君からはいろいろ教わったからな。

年内には仕事も住むとこもちゃんと決めようと思ってるよ」

「今こうしてるのも、孝一郎さんのおかげですから。……ところでそちらは? お孫さんですか?」                                        

「まぁね。確かに、こんなかわいい孫がいたらいいんだけど」

そういうと、二人は私の方を見た。


さて、自己紹介をしなければ。

自分の名前を言うのに、困ったことなど今までなかったのだが。

でも、私は覚悟を決めた。


「内川まゆみと申します」

「うちかわまゆみ?……今テレビで」

「山江君。今日はこの子のことで君に相談があって来たんだ」

山江さんの表情が変わったのが分かった。

「と、とにかく、中で……」

私も中へ入ろうとしたのだが、じいちゃんは財布から千円札を二枚取り出し、

お昼の弁当を買ってきてほしいと言った。

私のことを考えてのことだと感じたので、何も聞かず、素直に言われた通りにすることにした。

「じゃ、頼むぞ。コンビニよりはスーパーのほうがいいな。山江君、近くにあるかい?」

「えぇ、ここから北の方にありますよ。ここを出てまっすぐ行けばつきます」

「ありがとうございます。行ってきます」

「ゆっくりでいいからな。それと、前髪は分けないでおろしなさい。気を付けてな」

「……はい」


私がいない間、どんな話をしているのだろうかと少し不安を感じながら歩いていたが、

ポカポカ陽気も手伝って、心配はいくらか薄らいだ。

どうなろうと、じいちゃんを信じよう。


平日のお昼ということもあってそれほど人通りは多くない。

車もほとんど通らない道を北に向かって歩いた。

自転車に乗ったおじさんや、犬の散歩をしている若い女の人とすれ違う。

たぶん、みんな私の名前を知っている。

覚えてなくても、一度はニュースで耳にしたはずだ。

私は買い物を済ませると、少し足を早めながら来た道を戻った。


管理人室に入ると、ちょうど話に区切りがついたところだったようだ。

「ずいぶん早かったな、ごくろうさん」

「あの、しゃけのお弁当でよかったですか?」

「よし、じゃ、それはそこにおいて」


「まゆみさん。どうぞお座りください。お話は孝一郎さんからお聞きしました。

何と言ったらいいか……。

僕もいろいろ恐ろしい目には遭ってきましたが、これほどのものはなかなかありませんでしたね。

だから何も余計なことは言いませんが……。

一つ、お聞きしたい。

これからどうするか、なにか決めてるんですか?」

私はとっさに、じいちゃんの方を見た。

「ん? ただ正直に言えばいいんだ、まゆみがどうしたいか」

「……、はい。無事に生きてること、伝えないと、そう思ってます。

でも、

自分でもよくわからないんですけど……、

このまま、こうやって生きていたいとも思うんです……」

私は思っていることをそのまま話した。

山江さんはうつむきながらうなづいていたが、何かを決したように私の顔をすっとみた。

「よく分かりました。

では、少し僕の話をさせていただきます。

このビルで僕は管理人として働かせてもらっています。もちろん、オーナーではありません。

わたしは管理会社から派遣されてここの管理をしています。だいたいはここにいますけどね。

このビルの隅から隅まで、僕ひとりで掃除しています。

壊れているところがあったら修理したり業者を呼んだりします。

このビルの屋上には、とりたてて珍しいものはありませんが、ちょっとした物置小屋があります。

数年前からほとんど使われていません。

それでは、ここから本題です。

その物置小屋をあなたに無料でお貸しできます。もちろん内々にということで。

バレればおそらく僕は首になっちゃいますから。この点はほとんど心配してませんけどね。

あなたの気持ちが落ち着くまで、もしよければ使ってください」

「橋の下ではなにかと気持ちの整理が難しいだろ。ここは山江君の好意に甘えたらいい」

「……ありがとうございます。

山江さん、孝一郎さん。

……ほんとに」


胸が熱くなった。


素敵な人たちに出会えて、良かった。

私は立ち上がって、深く、ふかく頭を下げた。


私のことを本気で気にかけてくれる人がいるんだ。

本当に短い間しか一緒にいなかったが、おじいちゃんは家族のように接してくれた。


家族のように……。


その瞬間、いろんな思い出がよみがえってきた。

必死に押し殺してきた自分の感情と一緒に埋もれていた、家族との思い出が。


いつだって、力になろうとしてくれた両親。

わたしの言葉をなんでも真に受けて騙された時の弟の顔……。


こんなにも大切なものに囲まれていたなんて……。


あきらめちゃだめだ。

辛くても、現実を見なければ。

私はみんなに支えられている。


自分と確認を取るように軽くうなづき、私は顔を上げた。

「私……、

家に帰ります。

お電話、お借りできますか?」

山江さんはふっと微笑みながら電話の方を指差した。

「えぇ、どうぞ。そこのを使ってください」


「まゆみ、よく決めたな」

じいちゃんの顔からして、私の答えを知っているようだった。

「どれどれ。山江君、わたしらは向こうでしゃけ弁当をごちそうになろう」


震える手で父の携帯に電話をかけた。

心臓の鼓動が強くなり、周りのものまで脈と同時に震えて見える。

「……はい、……内川ですが」


「……ぁ、父さん……。まゆみです」


「ぇ? ……まゆ……、まゆみ……?」


「怪我したけど……無事に生きてる。連絡、遅くなってごめんなさい」

「あぁ……、はぁ、良かった、よかった! まゆみ、ゴメンな、ありがとうな……。

あ、母さんに代わる、えーたにも。

母さん、まゆみからだ! 

無事だったんだ!!」

 

———


それからしばらくは本当に神経が磨り減ることがたくさんあった。

でも、家族みんなで、耐えていくことができた。


悲しいこと、苦しいこと、辛いことは次から次へとやってくる。

でも、一つ一つ、やっつけることにしている。

やられる時もあるけど。


私の中に焼きついた恐ろしい記憶は、いつか消えるだろうか。

時が経てば、あるいは……


いや、心にできた深い傷跡が完全に消えることはないだろう。

思い出したくないのに、突然目の前に突き付けられるように感じることもあるだろう。


でも、私のそばには家族がいる。

寝る間を惜しんでわたしをずっと探してくれた父さん、母さん。


そして、えーた。

いつもそっけないが、本当に深く私を思ってくれてる私の大事な弟。

ずっと昔の思い出だって、しっかり抱きしめていれば今の自分の力になる時もあるのだ。


少し落ち着いてきた頃、わたしはえーたと二人であの橋の下に行ってみることにした。

じいちゃんには警察の事情聴取の時にもいろいろお世話になった。

もう一度しっかりお礼がしたいと思い、橋の下に向かった。

何をどう言えば良いだろう。

うまく言葉をまとめることがでいない。

でも……

綺麗に言葉を連ねられないとしても、気持ちは伝わる。

そう思った。


とうとう、あの橋の下に着いた。

しかし、そこには誰もいなかった。

人が住んでる痕跡は全くなかった。

橋を間違えたかと思ったが、ここで間違いない。

どこかに引っ越したのだろうか。

後で山江さんとも話をしたが、なにも聞いていないようだった。


冷たい風が吹く季節。

じいちゃんはどこにいるのだろう。

元気にしているだろうか……。


それからすぐのこと。

いいニュースがあった。

犯人グループが捕まったのだ。

同じ手口で、犯行に及んでいたところを、通行人に目撃されてあっけなく御用になったのだった。


そしてもう一つ。

じいちゃんから手紙が来た。

親戚の一人と連絡が付き、今は川沿いのぼろアパートに住んでいるらしい。

私を孫というより、娘のように思っていること、あの時、私から生きる力をもらえたことへの感謝の気持ちが書かれていた。

住所は書かれていなかった。

俺のことより、前を見て進んでいけ、ということなのだろう。


宛名は達筆な筆文字で、


 


と書かれていた。


そう、私の名前だ


— 完 —



この小説はフィクションです。

実在の人物や団体などとは関係ありません。





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