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泡沫の君へ

作者: 緋絽
掲載日:2015/03/26

どうも、緋絽と申します。

久々に長い短編を書きました。最長かもしれません。

読み辛いかもしれませんが、どうぞ!



この小さな赤銅色の体には、この小ささには不釣り合いな鋭い爪があった。


────ねえ、待って。そこの不思議な姿の生き物さん。


『うわぁぁあ! 竜だ! 皆、撤退だ!』

『くそ……! この竜さえいなければ、この恵まれた大地に住めるのに……!』


────待って、どうして逃げるの? ねえ、あなたが持ってるその銀色に光る物は何?


気になって気になって、自分に向けられた銀色の物に爪を当ててみた。それはあっけなく粉々になってしまい、さすがに私は慌てた。


───ごめんなさい!


『ひっ、うわぁぁあ!!』



何かが、目に刺さった。

痛みに耐えられず、暴れたのはその一度きり。



片目が見えなくなったのはその時から。

そして、私が『人間』という種族を敵に回したのも、この時からだった。



目を覚ます。

体を起こすと、体にとまっていたらしい蝶が飛んでいく。

ずいぶん昔の夢を見ていた。

この身は竜でありながら、夢を見るとは、なかなか不思議だ。

褐色の肌に赤銅色の髪。人型になれば人に見つかりにくいから、もうずっと何年もこの姿のままだ。紫水晶の目は、片方は潰され何も映さない。

あれから長い時が経った。

その間に、“聖女”と呼ばれる人間の雌が幾人私のもとに訪れたか知れない。“聖女”とは、悪なる竜を滅ぼすために選ばれる人間の雌のことだ。稀に見る強さを持ち、その力は人間の雄の猛者を凌ぐらしい。そして、悪なる竜とは、私のことのようだ。

肥沃な土地を荒らし、人間を喰らう竜。それが私らしい。実際に人など食べたことはない。

体が小さければ見つからないと気づいたのは、何人目かの“聖女”を追い返した時だった。もう、昔のことは、はっきりとは覚えていないけれど。

鱗がかすかに残る肌は、人間が見ればすぐに竜だとばれてしまう。だからはじめは隠していたけれど、最近は諦めてしまった。

もう、いいのだ。

『誰だ?』

久しく聞いていなかった人間の足音。それに気付いて私は目を覚ましたのだ。

繁みが揺れ動き、すらりとした体躯の人間が姿を現す。栗色の短い髪に男かと思ったが、それにしては輪郭が柔らかい。

男の格好をした女のようだった。腰に実用的な剣を下げている。私はそれに、見覚えがあった。

だから、あぁまたか、と、肩を落とした。

そして返ってくる言葉に、身構えた。

「やあ、竜のお嬢さん。そんなに肌をさらしていては、こちらが戸惑ってしまうよ。それに、君の柔肌に傷がついてしまう」

さっぱりとした笑みと共に返ってきたのが予想だにしない言葉だったせいで、私は驚いてしまった。

『りゅ、うの肌が、人のように脆弱なわけがないだろう。それに、人など滅多に来ない』

中性的な美貌だった。声すらも朗々として張りがあり、美しい。

「そうかもしれないね」

微笑んだ人間の目が楽しげに細まる。かつての人間は皆、私を前にしてこんな風にして笑んだことなどなかった。珍しい事態に、私はまた驚く。

『…………お前が、新たな“聖女”か?』

私の問いかけに、人間は目を瞬かせ、そして微笑みで答えた。

『そうか』

その剣を抜き放ち、この身に刃を食い込ませる。この人間も、そうするためにここまで来たのだ。未練も何もないこの世界で、私が邪魔だというのなら、この命を明け渡すことなど何ほどでもない。

『好きにするがいい。“聖女”の役割は心得ているぞ。────殺せ』

疲れていた。

死ぬことに、なんの躊躇いもないこと。あえて言うならば、それだけが心残り。そんな生を、私は過ごした。

無言の時を、目を閉じて黙ったまま立つ。

「───私は、君を殺したりしないよ」

フワリと体にかかるものがあって、目を開ければ体にケープがかけられていた。ぐるりと体を被われ、その窮屈さにぞわりと肌が粟立った。

力強く振り払った私に、“聖女”がよろめいた体を立て直して目を瞬かせる。

『あ……』

しまった。また、怪我を?

言葉を詰まらせたのを見て、“聖女”が微笑む。そして肩を竦めて見せる。

怪我などしていない。そういっているのが伝わった。

なんだか、悔しい気分になる。

別に、お前の心配などしていない。

『な、んのつもりだ!』

「………言ったろう? 君を、殺す気は、ないよ。ほら、肌を隠して」

落ちたケープを拾い上げ、私に差し出す。

『は?』

ケープと“聖女”の顔を交互に見比べる。それに、“聖女”はまた笑った。少し、おかしそうに笑った。

「落ち着いて話をしよう? お嬢さん。私の名はスーセン。あなたは?」

あまりにも含みのない笑みだから、また、私は呆気にとられて素直に返してしまった。

『…………ウィルダリア……』

この、邂逅を。

私は、命のつきるそのときまで、持っていく。



それから何度も、不定期にスーセンは私のもとを訪れた。しかしいつも剣を携えていた。だから、私をいつかそれで殺すのだと思っていた。

「君はいつも人の姿をしているね」

『気楽なんだ』

「………生きるものは、すべからく、元来の形が最も楽と聞くけれどね」

地面にべたりと座り込み、スーセンがカラカラと笑う。

彼女は笑っていながらも私の返事に納得していないようだった。

『……お前こそ、いつまでそうやって悠長にしているつもりだ? 私を殺しに来たのではないのか』

だから話題を変える。私が人型である理由など、お前が知る必要はない。殺すつもりの相手の内心など、いったいどこで役に立つ?

殺すなら、早めに殺してほしい。私に殺意を抱く者と、話していたくないのだ。それも、まるで親しい友人のように。殺戮の時を待ち続けたい生き物が、この世のどこに存在するというんだ。

スーセンは唇を尖らせた。少女のような可愛らしい表情だった。

「ウィルダリア、何度言えば君はわかってくれるのかな。私は、君を殺すつもりはないよ」

じゃあ、なぜ剣を置いてこないんだ。

――……あぁ。そうか。殺すつもりはなくても、私を恐れているのか。納得だ。

スーセンの持ってきたワンピースを握りしめる。こんなものを親しげに持ってきても、所詮は竜と人間。

仲良くなど、なれはしない。

『そうか。ではそういうことにしておこう』

「信用がないなぁ。私、何かした?」

私は言葉を飲み込んだままそっぽを向く。

わからないから、嫌なのだ。恐れているのなら、恐れているなりの態度を示してもいいだろうに。殺意があるならばそれを曝せばいいのに。

お前の、真意は、どこにある?

「ふふ。君が私を信じていなくても、私は君を信じているよ、ウィルダリア」

剣を横たえて、彼女はそう言う。



それからしばらくしてある日、繁みがガサリと音をたてた。

『何をしている?』

なかなか出てこないので不振に思う。私は油断していた。ここしばらくスーセンしか来ていなかったため、彼女だと疑わなかった。

『………スーセン?』

彼女は不意をついて悪戯を仕掛けるようなところもあったから、その類いなのだろうと思っていた。

「今だ、殺せ!!」

だから、飛び出してきた男達に、簡単に組伏せられた。

強い力で抑え込まれ、動けない。過ぎるほどの強い力は、人型の私の腕を砕いてしまいそうだった。

なんだ、これは。こんな痛みを与えられるほど、私は憎まれているのか。

頭は真っ白だった。

スーセンという奇特な人間が訪れるせいで、ほんの少しだけ勘違いをしていたのだ。竜である自分を、嫌っていない人間もいるのではないかと。そしてそれは、実は少なくないのではないかと。

とんだ思い違いだ。

奥歯をかみしめる。

竜に戻れば振りほどけるが、今戻ればまず間違いなく何人も潰してしまう。魔法は、加減が難しい。

───もう、誰も殺したくない。

そう思ったら、抵抗する気力が失せた。

振りほどこうとしていたのを諦め、腕から力を抜く。

「邪悪な竜め、滅びるがいい!」

あぁ。私は、邪悪か。ただ存在していただけで、滅ぼされるほどに。

私は、こいつらに殺されるのか。

構わない。もう、いい。



「───ウィルダリア!!」



一瞬の出来事だった。

私に降り下ろされるはずの剣が弾き飛ばされ、あっという間に拘束が外れる。と思ったら、景色がぐるっと回って、珍しく焦りを浮かべたスーセンの顔が間近にあった。

「怪我は!?」

『………な、い』

私が生きているのを確認すると、ほっと小さく息を吐いて、そして、男達に目を向けた。冷ややかで氷のような眼差しを。

「聖女様……! なぜ貴女が邪悪な竜を護るのですか!?」

「君達は虚言を信じているんだね。すまないが、私は自分の目で見たことしか信じない質なんだ。───彼女は、とても、優しいよ。優しい竜だ」

少し柔らかくなった声音が、まるで頭を撫でるように響いた。

「さあ、帰るんだ。竜殺しなんて愚かなことは、おしまいにしよう」

「聖女様は……国を裏切りなさるのか……!」

スーセンはその言葉に、微笑んで見せた。少し、悲しげに。

男達が立ち去ると、スーセンはようやく私に目を向けた。

「間に合って、よかった」

『スー、セン』

背中に腕が回され支えられているお陰で、私はなんとか立っていた。

そっと頬を撫でられ、戸惑う。

何故、スーセンは私を助けたのだろう。所詮人間であるスーセンと私は、相容れないのに。

「あぁ本当に……! 心臓が止まるかと思ったよ。何故、抵抗しなかったんだ!?」

荒々しくなった言葉とは裏腹に、そっと抱き締められる。スーセンの腕は震えていた。

『泣いて、いるのか? どうして』

「君を失うかと思ったら、とても恐ろしかった。私は、君が大切なんだ。とても大事な友達だ。どう言えば、君に伝わるの? どうすれば、信じてもらえる? …………っ、お願いだ……生きようとしてくれ……!」

ぎゅうと抱き締められる。

普段は飄々としていて、男よりも男らしいスーセンが、女の子に見えた。

『私は、邪悪だ』

「君は邪悪なんかじゃない! 君が何をしたっていうんだ!!」

跳ね返すようにスーセンが言い返す。

私が、何をしたか。そんなの、知らない。でも、なぜだ。なぜ、目が熱くなる。

『スーセン、苦しい』

本当に苦しいので腕を緩めるようにそっと叩くと、スーセンは鼻をすすって顔を背けてしまった。

「ええい、君は竜なんだから本当に苦しかったら自分で振りほどけるだろう。知ってるよ。君はほんとに意地悪だ。そもそもあいつらの拘束だって、簡単に抜けだせただろうに!」

抗議を受け入れろ。強く締め直すな!

やっと押し付けられていた顔を上げ、スーセンに怒鳴る。

『こ、の体躯で竜と同じ力なわけないだろう! それなら今ごろ私は筋骨隆々だ!』

ピタリとスーセンの動きが止まる。こぼれ落ちそうなほど目を見開いて、ぱちぱちさせた。

「え、そうなの?」

『当たり前だ! この姿のときは皮膚の強さと魔力量しか竜から受け継がない!』

そして、スーセンは、堪えきれないとばかりに吹き出した。

「あはっ、ははははっ! きっ、君は本当に、筋骨隆々という言葉が似合わないね! そんな真剣な顔をして言わないでよ!」

くの字に体を折って体を震わせる。

何がおかしいのか。こちらは必死で事実を述べただけだ。

一頻り笑ったあと、スーセンは今度はギュッと優しく抱き締め、頬を寄せてきた。

「ああ……私、なぜ君がずっと人型なのか、やっとわかったよ。力が制御できるから。人に怪我をさせないですむから。そうでしょう?」

穏やかな声に、私は返事をしない。代わりに額を預ける。彼女はそれを、肯定と受け取ったらしかった。

私は、君の優しさを知っている。だから、君が大好きなんだよ。

彼女はそう言って、私の頭を撫でた。私は、こっそり抱き締め返した。

私は、私を守るために彼女が剣を持っていたことを知った。



それからまもなく、スーセンが来る頻度が減った。彼女はぼんやりと時間を過ごすことが多くなっていた。

最後の訪れから三ヶ月を空けたある日のこと、フラリと彼女が現れた。

見違えるほどに痩せていたし、腕に怪我を負っていたが、微笑みの柔らかさは変わらなかった。

「やぁ」

『その怪我、どうしたんだ?』

触ろうとすると、体を引くことで拒否される。不可解に思って見上げると、スーセンは困ったように笑った。

「たいした怪我じゃない。心配いらないよ」

睨め上げると彼女は、幸せそうに微笑む。次いで、悲しそうな笑みに変わる。

「………今日は、さよならを告げに来たんだ」

一瞬、何を言っているのかわからなかった。

さよならとは、なんだ。それはつまり、私と彼女が、二度と会わないということを指しているということだろうか。

『なぜ?』

「私は旅に出る。東へ。恐らく、二度と戻らない。君がいつまでも私を待つなんてことになったら、申し訳なくて」

待ったことなどない。そう言いきれない。それほど最近は、彼女の来訪を待っていたのだ。森の入り口まで、探しに行ったこともある。

認めたくはないけれど。大事だと言ってくれたあの時から、スーセンは大事な人間になっていた。やっと、大事だと思えたのに。

『…………待つわけ、ないだろう。何処へなりと、行くがいい』

所詮、私とお前は、人と竜。相容れるわけがないのだから。嫌われても仕方ない。

そうやって言い訳をした。だがどこかで、スーセンが私を嫌いになったわけじゃないと思っていた。彼女は初めて会ったときから、私を受け入れていたのだ。

「………西へ。西へ行くんだ。約束して、ウィルダリア」

肩を掴まれ、いつになく真剣な目で見つめられる。普段の彼女からは考えられないほど強い言葉だった。

『私は、何処へも行かない。行く理由がないからだ』

その手を払う。どこかへ行くのなら、ついて行こうと思った。言葉にできなくても、頭ではもう、スーセンの傍にいたいときちんと自覚している。

「行くんだ。…………この国に、君はいてはいけない。東へも、来てはいけない」

『何故? 人に嫌われているからか? お前も、私を嫌っているからか?』

挑むように問うと、彼女は顔を歪めた。傷ついたかのように。

すぐに否定の言葉が返ってくると思った。だって彼女は以前、私に、大好きだと言ったのだ。だからこれは、彼女を困らせるための、ちょっとした意地悪だったのだ。そう、だったのに。

けれどそれは、たちまち笑みに変わる。蔑むような笑みだった。

「……そうだよ。君のせいで、国は歪んだ。ある程度の脅威なら、人間は団結する。だけど君はそれを超えてしまった。もう邪魔なんだよウィルダリア。私にここまで言わせるの? 優しくあるはずの“聖女”に、こんな言葉を吐かせないでくれよ。……君のせいで、“聖女”なんて偶像をやらされるはめになっているのに」

呼吸が、一瞬止まった。何を言われたのかわからなかった。

まさか、本当に?

「君に少しでも私に対する愛情のようなものが湧いているのなら、今すぐ消えてくれないかな。邪悪な竜にも、それぐらいの優しさはあっていいんじゃない?」

肩を押されて、よろめく。

嘘だ。嘘だろう、スーセン。そんな笑みを浮かべてこっちを見ないでくれ。

「行け、ウィルダリア。人間の目につかない、地の果てまで」

絶望とは、こういうことを言うのだと思った。

もう二度と、彼女が優しく、私に微笑むことはないのだ。あの包むような優しい笑みを見ることは、二度と叶わない。

『────……そう、か』

竜である私が嫌になったのだと、そう思った。だから、彼女はもうここに来ないのだ。当然だ、人にとって私は邪悪な竜。…………大丈夫。人に嫌われることは慣れている。

私は、スーセンの横を通り過ぎた。彼女の腕が、引き留めるために延ばされることはなかった。




竜の姿のままだと、すぐに人にばれてしまう。スーセンからもらったケープを被って肌を隠し、私は西へ人の形で歩いた。竜の翼ではすぐに超えられる国境が遠かった。

胸に、ぽっかりと穴が開いたようだった。今なら、誰に殺されても構わない。むしろ、己で命を絶ってしまっても構わない。今生きているのは、単にそれすら行う気力がわかないからだ。

彼女は、私のせいで“聖女”にされたと言った。怒っていたのだ。きっと、初めて会ったあの時も、私を助けたあの時も。人と関わらなかったばっかりに、憎んでいる相手を助ける理由が私にはわからないが、彼女は優しいからその感情を押し殺して助けてくれたのだろう。

そう、思っていたから。彼女の本当の気持ちに、気づけなかったのだ。

隣国との境に近付いたとき、とある女性の処刑の噂が耳に入った。



邪悪な竜を逃がした罪深き“聖女”は、明日、その身を裁かれる。



その噂を口にした人は皆、“聖女”へ怒りを抱いていた。人間を裏切った、紛い物の“聖女”は、この世から消滅すべきである。

私は、愕然とした。

すべての言葉も、行動も、表情も、何もかも───私を、逃がすためのもの。

あぁ。こんなことになるのなら、誰かと繋がりを持つことを、恐れるのではなかった。こんなことにすら気づけないなんて。

スーセン。君の優しさに、助けられた。

だけどそれで君がいなくなるのなら、私に生きる意味はない。

君がいないのなら、私が存在する意味などないのだ。

だから私は、彼女のもとへ、飛んだ。───巨大な竜の姿で。




人々は、空を飛ぶ私を見て、恐怖したらしかった。

次々と私に向かって矢が飛ぶ。

以前はそれに悲しみが募ったものだが、今はもう、構わなかった。

だって、私にはもう、大事だといってくれる彼女がいる。

海に迫り出した処刑台に磔にされた彼女を見つけ、私は愕然とした。

流れる血、さらに痩せた体。

目を閉じた彼女からは、生気が感じられなかった。

ざわりと血が騒ぐ。

許さない。例え本当に彼女が私を嫌っていたとしても、彼女を私は愛している。愛する彼女を傷付けた人間達を、許してたまるか。

私が翼をはためかせれば、風が強く吹き、脆い人間を容易に殺せる。この牙を突き立てれば、この爪を振るえば───。

仄暗い感情が心を覆う。

怒りは、力だ。振るわないと決めた力を、彼女のためなら振るってもいい。いや、これは私のただの願望だ。私の友を傷つける者を、許せる道理などあるものか。

私は魔法を使い、地面を歪ませた。ひび割れた地面の隙間に、人間共が埋もれていく。

まだだ。まだ許さない。

彼女を苦しめる者は、何者も許さない。

倒れかけた磔の柱の側に降り立ち、支える。

彼女を縛る縄を切るために、牙を使った。初めて鋭い牙があることに感謝した。今このときのために、私はこの姿で生まれたに違いない。真剣にそう思う。

丘の上に横たえると、力の抜けている彼女の体はだらりと横を向いた。まるで死人だ。それが恐ろしくて、私は声をかけた。

『目を覚ませ、スーセン。起きろ!』

鼻先でそっと押す。

生きている。彼女はまだ生きている。鼓動の音が、まだ聞こえる。

眉間に皺寄せ、彼女が微かに息を吐きながらその目を開いた。

「…………あれ……?」

どこかぼんやりとした表情の彼女が、優しい笑みを浮かべる。

彼女の血に濡れたその手を、私に伸ばす。

「あぁ……夢を、見ているのかな……。ウィルダリア……君が、目の前に、いる」

その指先が、私の鼻を撫でる。

なぜ彼女は一度も見たことのないはずの竜の姿を、私だと見抜けたのだろう。

「竜の姿も、美しいね。その瞳が、もう一度見れるなんて……」

ふと言葉が途切れる。次に聞こえたのは、震える吐息だった。くしゃりと顔が歪む。

「あぁ、君が、いるはずないんだ。だって、私が、彼女を追い払った。ひどい言葉で、傷つけたろう。ごめん、ごめんね、ウィルダリア。あれは本心じゃない」

スーセンの瞳からパタリと涙が一粒溢れ落ちる。スーセンはそれを見られないようにか腕で顔を隠した。



「それでも、私は君に、生きてほしかった」



人に襲われれば、私は抵抗せずに大人しく殺されるだろうと思った。だから、私を竜を愛する隣国へ逃がそうとした。

それを聞いて、胸に迫りくるものがあった。

目の奥が熱い。なんだ、これは。悲しくはない。これを、なんと呼ぶ?

「もしももう一度、あと一度だけでいい。君に会えたなら、今度はちゃんと、伝える。私は、君が大好きだった。……どうか、信じてくれ……。貴女を嫌になったわけじゃないことを」

次々と溢れる涙は、彼女の苦しみのようだった。溢れるだけ、彼女の苦しみがあったかのようだ。

まっすぐな言葉は、私の心を癒した。

私は、スーセンの頬を舐めた。

『信じよう』

私の返事に、驚いたように瞠目する。次いで、その唇を震わせて私の鼻あたりを何度も確かめるように触った。

「何故、君がここにいるの!?」

『助けに来た』

喜ぶと思ったが、彼女は存外慌てふためいた。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ……! なんで、だって、私は君をあんな酷い言葉で───」

狼狽えたように言葉をと切らせたスーセンは、口を押さえて俯く。

深い後悔。それが全身から溢れている。

彼女が既にいっぱいいっぱいであることに、私は気がついた。肉体疲労的にも、精神的にも。だから私が目の前にいることをまだ、受け入れられていない。

私は、そっと彼女に鼻先を近づけ、擦り寄った。

『共に行こう、スーセン』

誰にも見つからない場所へ。

貴女が如何なる苦境に在る時も、常にその傍らに立ち、守護することを誓う。

私の瞳を見たスーセンが、今度こそ顔を酷く歪ませた。折角止まっていた涙が幾多の筋を作りながら零れ落ちていく。

言葉さえ発せないほど嗚咽をこぼし、スーセンは私の鼻先を抱き寄せた。

そこには、傷ついた“ただの人間”が一人きりでいたのだった。



しかし、人間はそんな私達を咎めるように、一斉に矢を仕掛けてきた。

怒りに駆られあわや街を倒壊させようとした私を止めたのは、スーセンだった。

「いいんだ、ウィルダリア。どんな事情があるにせよ、皆を裏切ったのは確かなんだから。皆を、殺さないで」

微笑んだ彼女が、私を静謐な目で見つめる。

「それに、私はもう長くない。目ももうあまり見えないし、何よりこんな腕さえ、持ち上げるのが億劫だ」

その折れそうに細い腕さえも、彼女は持ち上げられなくなったというのか。

まだ周囲には矢が飛び交っているのに、世間の音が遠く聞こえた。まるで彼女の発する一言一句を、聞き逃すまいとするかのように。

「助けてくれたのに、ごめん。でも、───私は、人も竜も、愛してるんだよ。心から」

胸まで熱い何かが込み上げた。

誰か。この優しい人間を許す人間はいないのか。人々が忌み嫌う竜ですら、人間と等しく愛をくれる彼女を。そんな“聖女”を滅さんとする人間ですら、愛していると言った彼女を。

嫌だ。死なないでくれ。何を引き換えてもいい。どうか、私から彼女を奪わないで。

喉がつまり、何も言えないでいると、彼女は不思議そうな顔をした。

「…………ウィルダリア? 行ってしまったのかい……?」

訝しく思って見る。変わらずそこにいるのに、スーセンがそんなことを言うからだ。

しかし、彼女はもう、目が見えていなかった。

スーセンは嬉しそうに微笑む。そんな彼女に、何も言えなかった。

「……行ったんだね……ウィルダリア……。どうか……、あの子が、傷つかないで、生きられますように。君が幸せに生きることを、願うよ。………もしいつか、生まれ変わったなら、今度は」

ふっと息を吐いて、目を閉じる。

「二人で、世界を見に行こう」

そして、疲れたように、ぱたりと一つ涙を零して。



スーセンは、息絶えた。



『っ、スーセン、死ぬなっ! スーセン!』

どれだけ叫んでも、彼女はもう、還らない。

気づけば、人型になっていた。抱き起こし、その髪に頬を擦り寄せる。

『スーセン』

人型になった私の背中に、矢が刺さる。

「消えろっ人に仇なす存在め!!」

共に生きられないのなら、お前の微笑みをもう見られないのなら、声を、目を、もう感じられないのなら。

海が見えた。激しい波がうねり狂っている。

私は振り返った。人間は微笑んだ私を見て、息を飲んだようだった。

『消えてやるさ。“聖女”も連れて、永遠に』

“聖女”は、ここで、消える。



あぁ。いいとも。もし生まれ変わったなら、お前と生きられる姿となって、どこまでも寄り添おう。




私は、彼女を抱いて。海に、落ちた。






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