二章
誰かが壊れかけたカセットテープを『再生』した―。
まるで意識はエンドレステープ。何度も何度も『死の味』を感じ、ゴーゴーッという轟音がまるで耳鳴りのように頭の中に響き渡っている・・・何度も何度も――。
チュンチュンチュンとスズメがさえずり、遠くの鶏卵工場の方からケコッコーとかすかにニワトリの鳴き声が聞こえる・・・朝――いつもと同じ朝――・・・。
まどろんでいた私の意識は、危うくこの現実を当たり前のこととして享受するところだった。――ガバ!っと布団を剥ぎ取り私は飛び起きた。
目の前には大きな薄汚れた猫のぬいぐるみがいた―私が幼児の頃からお気に入りの、いつも一緒に寝ている猫のぬいぐるみだ。
猫をどかし起き上がると、私は全身に不審な気配をビリビリと感じながら辺りを見回した。
乱雑に床に散らばるファッション雑誌、部屋の中央にある小さい丸テーブルにはブラシや安い化粧品、小さい小物入れ、そして私用に使う小さなバッグ・・・。それは間違いなく私の部屋だった・・・。
おかしかった。もちろんそれは紛れも無い『日常』そのものだ。だが、私に『日常』が来ることなど――・・・。
そう、私はあの時、間違いなく死んだのだ。それともまさか――・・・今経験したことは全て夢だったのか?確かに状況からいえば、1番可能性は高い・・・しかし――。
次の瞬間ゴーゴッゴーという轟音が、頭の中に一杯となり、同時に断片的な映像が見えた。落ちていく私を見下ろす人の恐怖の目、暗闇、ケータイ・・・。まだ感触すら覚えているその記憶は本当に夢だったのだろうか・・・?
私はその間も部屋を隅々まで観察し続けていた。何か大きな違和感。言葉では説明できない、得体の知れない違和感が、死の体験を夢だとする私の思考をグレーゾーンに導くのであった・・・。
無意識にTVをつける。時間はちょうど5時になるところであった。ニュースキャスターがしゃべり始めている。
「おはようございます。1月20日金曜日の朝です・・・。」
それを聞くや否や、私の心臓はドックンと強く鼓動した。その事実は私の不安を現実のものとしてリアルに感じさせる・・・。
私には、1月16日までの記憶しかないのだ――。 私はかなり動揺した。状況を把握できない。呼吸が荒れている。目の焦点が合わない――。
頭が真っ白の状態で、私は必死に何かを探していた。手がひたすら何かを探し、しばらくしてから自分が何かを探していることに気付いた。そこで一旦手を動かすのを止めて、自分が今何を探していたのかを考えた。
今考えればかなりパニックになっていたのかもしれない。今だからこそ考えるが、もし私があの時『それ』を探そうとしなければ、私の運命はここまで悪くはならなかったのだと思う・・・。
ケータイ――。私が常に肌身離さず持ち歩き、常に意味のほとんどなさないメールを打つ、『私』という存在を形作るモノ、機械。
ケータイが無くなっていた。どんなに捜してもない、家の電話でかけても電波が繋がらない。
私はケータイが無くなっていたことでココロにぽっかりと穴が開いたようだった。
しかしまた逆に感情を作るのも心だ。心が欠けたことで、私は怖いほど冷静になっている自分を感じた。
他に無くなった物はないか探すと通学で使うありとあらゆる物が無くなっていた。普段持ち歩くリップスティックもお気に入りのハンカチも、改造した制服ごと無くなっていた。私物の通学用鞄もやはり無くなっていた。
私はごく自然にもう一着のスカート丈の長い制服をクローゼットの奥から引っ張り出し、正規のダサい通学鞄も用意した。何はともあれ学校には行かなければならない。いや、もしかしたら・・・それもまた現実逃避の一種だったのかもしれない。
私の高校の最寄駅、東川口駅は『最寄駅』とは名ばかりの駅で、学校からは10km以上離れている。私の高校はまさしく『陸の孤島』と言うのに相応しかった。
そのために設置された無料のスクールバスは時間が決められていて、1年生の私は06:15発のバスに乗らなければならなかった。
その為、私は常に一人だけまだ暗い家の中を静かに歩き、誰とも会話しないまま家を発つのだ。それが、当たり前の日常。いつも通りの生活。
私は通学で極端に朝が早く、両親は共働きで夜も遅い。平日ならば、私と両親は全く顔を合わさない程だ。
両親が、私が4日間どうしていたか疑問に思うことはありえないだろう。普段顔を合わさない人間を心配に思う人はいない。少なくとも我が家ではそれが日常であり、自然な姿であった。
私は時間こそ少し遅れ気味だったが『いつも通り』静かに家を出た。
家から徒歩で5〜10分程で北越谷駅に着く。普段私は北越谷駅05:35発東部伊勢崎線中目黒行きに乗り、05:40新越谷駅着。そこでJRに乗り換え、南越谷駅05:50発武蔵野線府中本町行きに乗り、05:54東川口駅着。その時間ならば乗り過ごしても次の06:10東川口着の武蔵野線には乗れる。
実際今日に限っては、05:38に家を出たので、05:46北越谷発東部伊勢崎線浅草行きの電車に乗ろうとしていた・・・。
ところがしかし、考え事をしていたせいか、駅に着いた時には既に電車は出ているようだった。ホームの階段から降りてくる人々の数がそれを物語っている。
仕方がないので、05:57北越谷発、東部伊勢崎線中目黒行きに乗ることとした。06:01新越谷駅着、そして歩いて5分程のJR南越谷駅に乗り換える。
しかし06:06新越谷駅発なので、その場合走らなければならない。
それもあって、普段は混む為に遠慮するのだが、停車するとき階段に近い車両に私は乗った。
着いた――。私はそう確認するとすぐ階段に向かって走り出した。改札を出て、階段を駆け降りる。そしてロータリーに出てから走り続ける・・・。JRの改札では少しスピードを落とし、改札を通る。
駅の時計を見ると、06:04であった。 私はまだジョギング程度で走りながら、駅のホームの階段まで来ると、徐々にスピードを落としていった。いくらスカート丈が長いといっても階段を上るときはさすがに走るのをためらう。そもそも必要以上に急いだのも階段では走れないことをあらかじめ分かっていたからだ。
階段を上り切って、ホームにたどり着くと、ちょうど電車が来たところだった。
私は東川口駅の階段に近い車両に乗った。車内は同じ制服を着た生徒が乗っており、混み合っていた。
06:06南越谷発、06:10東川口着。たった1駅の間であったが、いつもよりかなり窮屈だった。
小走りに東川口駅のロータリーを駆け抜ける。田舎臭いカラーリングの、スクールバス・・・。『行くな』と念じながら走って、なんとか間に合った。
私が乗り込むのとほぼ同時にバスは走り始めた。
ふう、と私は溜め息をつきながら、ケータイを取りだしてメールを確認した・・・。――見てみるとメールは1通も来ていない。過去のメールを読み返そうかと受信フォルダ−を開こうとすると――・・・。
「いやああああああ!」
私は狂気を帯びた奇声を発しながらケータイを投げるようにして放した。ケータイは床に強く当たり、電池パックがケータイから飛び出た。バスに乗車していた生徒は何事かと私を振り返る。
降り注ぐ視線を無視し、私は恐怖でいっぱいになりながら、床にころがっているケータイを凝視ししていた。いくら見てもそれは現実の物体・・・。
初めて冷や汗というものが流れた。焦り、恐怖、不安・・・あらゆる感情により汗が流れていた。額から顎にかけて流れ、さらに背中は上着を着ているからこそ気付かれなかったが、ブラウスが透ける程汗をかいていた・・・。
――あれほど探してなかったケータイ・・・。私の頭の中はあらゆる思考で一杯だった――いつから上着のポケットにあったのか、私が目を覚ましたときにはもうあったのか・・・。
私の目は一直線にケータイを注視していた。よくよく見ると、そのケータイは以前の私のケータイとほぼ一緒だが細部が違った。そもそも機種名を探しても、どこにも書いていない・・・。電池パックをはずせば大低書いてあるが、そのケータイには何も書いていなかった。
私は心を落ち着かせながら、考えていた――確かに遠目から見たら普通のケータイだ・・・しかし――。
「――ねえ!聞いてる?」
と言いながら、近くの生徒が私のケータイを渡してくれた。
ありがとう、と感謝の言葉を言って私はそのケータイを受け取った。
電池パックをセットして恐る恐る起動する。
いつもの画面、いつも通りの感触。ところどころ違うが、それは以前の私のケータイとほとんど同じであった。驚くべきことに、受信フォルダすら、以前私が作成したフォルダと同じものだった。電話帳も、私の記憶している範囲で完璧に登録されていた。しかし過去のメールは何故か全て削除されていた
ケータイをそうやって調べていると、バスが高校に着いた。
皆ぞろぞろと、バスを降り、朝早く空気が凍てつくように冷たい中を歩き、校舎へ向かった。 校舎はまだ暖房をつけたばかりで、寒かった。だが、私はそんなことよりも確かめなければならないことがあった。
席の近い友達にあいさつをした。そして友達が
「お、サボり魔が来た。」
とニヤニヤしながら言った。
「出席・・・どうしてた?」
と私が遠慮がちに聞くと、どうやら朝のHRでは担任は普段出席をろくに取らないので問題はなかったらしく、さらに他の授業ではどの先生も私のクラス、50人を全て覚えていないので、誰か友達が代返をして、スルーできたらしい。
そんなことが可能だとは思ってもいなかったが、現実にそれはできたのだ・・・。
後で知った話だが、どうやら私の欠席を気付いていたのは私の前の席のレイコや後ろの席のサキ、左の席のケイコと右の席のサヤカだけだった。4日間面白がって4人でローテーションして、代返をしたらしい。たまに声がかぶることもあったらしいが、特に滞りなく、出席をカウントされたらしかった。
しかし――なおさら考えるのは、私の存在についてだ。私はそもそも友達は少ない。席が近くで食事を一緒にとる、私を含めた5人グループ以外では、あいさつもろくにしない。クラスの中でも私のことを知らない人もいるのではないか、という気がする。
いるか、いないか分からない――それはその個人の存在を真に認めていないのではないか。私を本当に見てくれる人はいるのだろうか。仮に、突然クラスメイトの一人が消えたとして、それに気付くのは、やはりその人の友達だけなのだろうか。いや、もしかしたらその友達すら、気付かないかもしれない・・・。
他人は他人、自分は自分――もちろんそうだろう。しかし・・・果たしてそれは正しい姿なのだろうか。
私達は他人をどう見ているのだろうか・・・。――モノとして?それともヒトとして?
それは――有象無象からなくなっても何も変化のない、そんなものなのだろうか。
「昨日までは大久保が休みで英語は全て自習だったから、良かったけどねぇ・・・。」
とレイコは言った。
「今日から大久保復帰するから・・・マジでアンタ運いいねー。」
と軽薄にレイコは言った。
大久保先生は、英語、すなわちリーディング、ライティングの両方を受け持つ英語教師だ。どこかの予備校の講師をやとったらしい。1時間足らずの授業で、50人全員当てるその質問の量は、全クラスの嫌悪の対象になっていた。
他の授業では、人によって様々だし、授業内容によっても変わるが、多くてもクラスの半分弱が当たる程度だ。それを考えると大久保先生の質問の量は群を抜いて多い・・・。
そうこう考えながら、私は自分の現在の状況を考えた。
かなり現実離れしているが、実際に4日休んでいたのは本当らしい・・・。そう考えながら、私はある1つの疑問を持った・・・。
「――今野・・・今野命。」
隣の席のサヤカに突かれて、私はハッとした。
――コンノミコト・・・今野命――私の名前・・・。
「はい!?」
と私は裏返った声で慌てて返事した。
気付くともう一次限目になっており、例の大久保先生が律儀に出席を取っていた。
「おい・・・ボーとしてるなよー」
と大久保先生は言った。
「はい、すいません。」
と私は形だけでも謝罪しておいた。
――授業が始まった。クラスの皆はパラパラとページをひっくり返し、授業の予習をしていた。
だが、私は当然のことながら、教科書など無い。しかし、特に問題はないと思われたのでそのままにした。
「――それじゃ、次の文を――今野か、訳してくれ。」
と大久保先生が言った。私は、教科書こそなかったが、記憶力には自信があった。英語のリーディング程度の文章なら、全て暗記していた。特に指示されたわけでもないが、まず指定された文を暗唱してから、正確に訳した。
「・・・・おい、今野お前・・・なんで教科書ないんだ?」
大久保先生がイラついたように私を睨む・・・。
私はただ一言
「忘れました。」
とだけ言った。高校の教科書など、書店いけばいくらでも売っている。今は忘れたと言ってあとで買い揃えれば、特に火種をつけることもなく、問題ないと考えたのだ。
「・・・・そうか。なら仕方ないな。」
と大久保は寂しそうにボソリと言って、授業は進んだ。
私は授業中、ケータイについて考えていた。私の女子高、浦川学園では携帯電話は原則として禁止であった。ただし、夜遅い帰宅の連絡で使う為に、電源を切った状態でカバンに入れるのは許可されていた。その為、私はケータイをすぐにでも調べたかったが調べられなかった。
チャイムが鳴るのとほぼ同時に、胸元に隠していたケータイのバイブレーションが作動し始めた。メールではない、電話だ――と私は直感したのはバイブレーションが長時間続いているからだった。先生が教室から出るとほぼ同時に私はケータイを取り出し、開いてみた。そこには、
[オオクボ ヲ 撮影シロ]
というメッセージが画面いっぱいに書かれていた。――それは、スケジュールのアラームであった。
私はそのメッセージを見た瞬間、何故か不安な感覚を感じとり、教室の後ろのドアに向かった。
すると、先ほど教室の前のドアから出た大久保先生がちょうど職員室に向かうのが見えた。
私はほとんど本能的にケータイの写真機能を起動して、大久保先生を撮影した。
実はそれが私の非日常の始まりであった・・・・・・。
放課後、私は一人教室に残っていた。部活をやっていない娘たちはさっさと、池袋なりに行く為に帰っていった。他の生徒達は部活や生徒会などに行っていて、教室に残っているのは、私だけだった。
分かったことがいくつかあった。
私のこのケータイにはスケジュールが事細かに登録されていた。それは2008年3月までの間、ちょうど私が高校を卒業するときまでだった。そのスケジュールは多彩で、〇〇駅に向かえとか、△△という喫茶店で待ち伏せろなどのメッセージが全てカタカナと漢字で書かれてあった。
そして――何よりも不気味な『指令』が・・・[××ヲ撮影シロ]という『指令』だった。
それは見たことも聞いたこともない人名で、さらにその名前もカタカナが多く、まずそれが誰かを特定するのは困難だと思われた。
しかし、その前のどこかに行くことを指示する『指令』を見ると、その場所では少なくとも『対象』が見える範囲、撮影できる範囲にいることは予想できた・・・。
しかし・・・私は考える――この写真を一体どうするのだろうか、と。
少なくともこのスケジュール通りに撮影していたら、メモリーが一杯になるのは目に見えていた。
ということは・・・いずれ『削除』しなくてはならない、ということになる。
私は写真画像を開いてみた。そこには大久保先生が、おそらく教科書を見ているのだろうか・・・下の方を見ている顔がきれいに撮れていた。
私は特に意識しないままサブメニューを開く・・・。1番上のメニューには[削除]という項目があった。選択してみると・・・[1件削除]、[フォルダ内全件削除]、[全件削除]、[選択削除]の4つの項目のメニューが開かれる・・・。
私は[1件削除]を選択した。
私は、先程は確かに咄嗟に『指令』通りに行動したが、半分馬鹿らしくなっていた。
(私には『指令』に従う義務なんてない!)
私は刹那的にそんなことを考えながら、半ばやけになって削除を選択したのだった。
画面には[削除中]の文字が点滅する。
私はふと窓の外に目をやると、奇妙な偶然からか、そこには大久保先生が一人歩いていた。生徒の集団にまぎれている。すると、私の視界の中で大久保先生の手前に一人の生徒が走りぬけ、一瞬大久保先生が見えなかった。
――次の瞬間大久保先生は消えていた。
私は驚いてエッと思わず声を漏らしながら咄嗟にケータイの画面を見る。
そこには[削除完了]の文字があった。
私は恐怖で何も声を出せないまま、持っていたケータイを床に落とした・・・・・・・。
『再生』したカセットテープは回り始めた・・・。