ありすインワンダーランドで昔語り
「あれから、か・・・そうだな、ざっと七十年、近いか」
白髪のおじいさんが、遠いまなざしをしながら呟いた。
「・・・ほへ?」
七十年。
紡がれた言葉に、あたしは一瞬目を瞬かせた。
え、七十年? 七十年も、ファーストコンタクトから経ってるってこと? 元の世界じゃ三年だったのに、七十年!
「そ、んなに?」
気の抜けたような声しか出せなかった。だって、七十年って、七十年って・・・。
「その間、いろいろあった。ありすぎるほどに」
おじいさんは懐かしそうに目を細めてあたしを見つめていた。
「・・・君を探した。探しても見つからず、夢だったのだと、都合のいい夢だったのだと言い聞かせて日々をすごしたものだ。・・・あの頃、先の王が悪政をしいたおかげで、民はずいぶんと辛酸をなめていて、私の父は・・・その王の腹違いの兄だった。父は王を諌めようと、ずいぶん駆け回ったものだ。だが、弟を思う戒めの言葉も、すべてが疑心暗鬼の元となった。・・・謀反など企てるはずもない、実直な人だったのに・・・その人となりが、却ってあだになった。・・・父を推す声が高まるに連れ、家族そろって暗殺されかかって・・・。獣のように追い立てられて、山中に逃げ込んだ。たったひとりで、追っ手と向き合って、ここで死ぬのかと思ったとき、君が現れた」
碧眼があたしをまるでまぶしい物を見るように細められた。
「・・・黒髪の、私より少しだけ年上の少女が、剣を持った相手に一歩もひるまず、私をかばって戦ってくれたのだ。
長い黒髪が翻り、踊っているようだった。黒い瞳は怒りに燃え、宝石のようだった。
その姿があまりに美しくて、伝えに聞いた王家の守護天使のようだと思ったものだ。助かってから、あなたを思い返すたびその思いが強くなった。守護天使は、王を見放したのではないか、と」
・・・父もあなたに会いたがっていたな。夢物語が好きな人で、守護天使の話をしてくれたのも父だった。
・・・何度も思い返した。夢だとしても、あなたに会いたくて。
・・・もう一度会いたくて。
「・・・だから、逃げ延びた先で周囲に王家の守護天使は父エンダールを支持したと伝えた。その頃には最早叔父の名は地に落ちていたからな。簡単に蜂起することができた」
・・・しんみりした良い雰囲気だったけど、なんかきな臭いものを感じたぞ(汗)、おじいちゃん、待ってくれ!
「日々の鍛錬は最早生きる術となった。刀を恐れず、身一つになっても戦えるように、自分を鍛え上げた。・・・命知らずのエンダールと呼ばれたものだ・・・ただ、あなたのようになりたかっただけなのに」
ふふ、とおじいちゃんが笑った。
あたしの背中を冷や汗が伝っていった。い、命知らずって・・・あたし、命放棄してないもん! 肉弾戦だって生きるためにやったんだもん!
「愚かだろう? 激戦の只中へ自分を追いやった。窮地に陥れば、また」
息をついて、碧の瞳があたしの瞳を覗き込んだ。
「君に、会えるのではないかと・・・思っていた」
息が、止まるかと思った。
「・・・でも、あなたはこなかった」
おじいさんはまた微笑んで。
「戦に明け暮れた血まみれの私の前には、天使は現れないのだと思い知っただけだった。だが私には掛け替えのない仲間が出来た。背中を預けられる相棒と、知略を持った友人と、この国の民たちが。
彼らと手を携えて、国をひっくり返した。・・・あの男に踏みにじられた尊厳を、取り戻すために、この国を生まれ変わらせるために」
途方もない時間と血が流れたんだろう。でも、静かに微笑むおじいさんからは、過去を振り返り後悔する気持ちは伝わってこない。
ただ、革命をやり遂げた男の、揺るがない自信だけが伺える。
「・・・じゃあ、平和になったんなら、何であたしが呼ばれたの?」
小首を傾げて聞いてみる。だってそうでしょ? 悪い王様を倒して、苦しんでた人たちが解放されて、メデタシ、メデタシなんじゃないの?
そう。
それなら、はじめの小旅行だけで、二度、三度と続かなくても、いいよね?
「あれは、ありすと会ってから、四十年経ったくらいだったか・・・? 初恋の人に良く似た妻をもらい、子にも恵まれた。・・・長男と次男は亡くなってしまったが、」
白髪のおじいさんが後ろに立つ、アールグレイでナイスミドルなおじさまに目線を投げた。
渋いおじ様はおじいさんの言葉に深く頷いた。
「父王が即位しておよそ六、七年目頃だったかと思います。先の愚王の息子が、隣国の援助を受けて蜂起しました。我が父を簒奪者呼ばわりした、浅慮極まりない仕掛け戦でしたが・・・兄達は、毒牙にかかりました」
渋めのナイスミドルな叔父様は、おじいちゃんの息子さんなのか。
「血筋を絶やせば、王権復古が叶うと思っていたようだ。隣国はともかく、国内にあの者を推挙する動きなどなかったのに、な」
おじいちゃんが、苦さを残す笑顔を見せた。
「歴史が認める禅譲に、噛み付いたのです。エンダール王朝を費やしてやるとばかりに、兄王子が狙われ始めて」
悲しそうに叔父様が目を伏せた。
「・・・子らには、すまないことをした」
あの時、根絶やしにしておけば、こんな結末にならなかっただろうに。と、おじいちゃんが呟いた。
「・・・ですが、おかげでありすに出会えました」
そういって、渋いおっさんがあたしの前でひざまずいた。制服のチェックのスカートのすそをうやうやしく持って、そっと唇を寄せた。
「追い込まれて、逃げ回っていた私の前に、ありすが舞い降りてくれたのです。・・・守護天使。あの時、伝えられなかった思いを込めて・・・感謝しています。ありす。あなたがいたから私は生きている」
・・・ああ、目を閉じれば今だって浮かびます。
突然空から現れたあなたが、襲撃者の頭を、みごと踏みつけ、ふみ倒したあの勇姿を!
「・・・そこは忘れましょう!」
むしろ覚えてちゃいけないっ!
「・・・おや? ありすはあの出会いを運命とは感じてくれなかったのですか・・・? わたしは、あなたの勇姿に、運命を感じましたのに! 父に私を助けてくれた天使の話をしたら、それは間違いなく、守護天使ありすだと寡黙な父が叫びましたよ。あれから、あなたを何度夢に描いたことか・・・!」
だからあたしはわんこじゃない! 人の話を聞け!
「あなたの白いシャツ! 青いショートパンツ! 胸には大きく呪文が描かれ、たなびく黒髪、黒い瞳! 私を害さんと群がっていた敵兵を一歩も引かずに殴り飛ばしたあの勇姿!」
汗で、シャツが体に張り付いて、すけた肌の色の色っぽかったこと! すらりと伸びた素足の艶めかしかった事!・・・幼心にどきどきしました!
・・・襲われてたってのに、余裕だな、おじさま。一気に張り詰めていたものが、抜けていったぞ。
・・・ああ、うん。体育の時間だったから、学校指定の運動着だなー。胸にはでっかいゼッケンで日佐川って書かれてるんだ。見ようによっちゃ、呪文だな、まさしく。
しかし、渋めおっさんに変化した、もと金髪天使は、変な方向に特化したようだ。
・・・あれか、おっさん(叔父様格下げ)、体操着フェチか?
「それは少し見たかったな。だが、子供にしか姿を現さないとわかって、実に悔し・・・いや、悲しかった」
・・・言い直したぞ。しかも回りみんなスルーですか?
「・・・私の時は奇妙な服を着込んでいたぞ。その不思議な呪文の服といい、スカート丈がいやに短いのは、天使の制服だからだろう? そう思い至ってからは、天使の肖像を描きかえさせた」
・・・は・・・?
「だれぞ緞帳を」
背後の緞帳があがっていく。
重厚な金の額縁に納められたのは絵画。よくある宗教画なんだけど、決定的に違うものがあった。
「な・・・なんじゃこりゃああああああっ!!!」
一人の天使が剣を悪魔の顔の脇に突き立てていた。
見間違いだとおもいたいが、あれはあれは・・・。
「あ、たし・・・」
顎がかくーんと落ちきっている模様。