ありすインワンダーランドの幻影
生を謳歌する声を聞いた。
小さな体が身動いて、精一杯自分を主張するのを見た。瞳も開かない幼な子は、生命力にあふれていた。
・・・時折、父が子の名前を呼んでいた。
「ディノッソ、お前は生きるんだ。母の分も、兄の分も」
赤子の名前はディノッソと言うらしい。
その頃、衰え始めたエンダール初代王が、身を引き、エンダール二世が即位した。
隣国はいまだにうるさくて、この即位を認めようとしない。
相変わらず簒奪者呼ばわりで、ほえていた。
ひるがえって、国内では、貴族院の力の均衡が危うくなっていた。新王となったエンダールの名声が高まるにつれ、肩身狭くなる古参貴族の連中。古参貴族を抑え、エンダールの信が篤い者達が台頭しだした。新旧交代劇は、ちかい。
フフ、と魔女はしたり顔で笑う。
流れに抗う古参貴族は、隣国の王を煽って、この国の貴族と手を組ませ、内通者の地位確約と次代の王の後宮へ娘を招くことを、約束していた。
残り少ない地位に縋って浅ましい奴ら。
馬鹿な貴族たちは二国間でうまく立ち回っているつもりなのだろうが、そうはさせない。
・・・ワタシの可愛い『嫁』とかわいい子を殺した奴らに、なんの見返りを与えようか。
裏切り者の屈辱と、売国奴のそしりと怒号、それでも足りない。足りないのだ。
およそ考え付く限りのありとあらゆる屈辱と苦痛を与えたい。
罵られて、憎まれて、悪鬼のように追われなければいけない。
老若男女誰もが、嫌悪して、罵って、踏みにじっても、後悔しないほどの悪役に仕立てるのだ。
憐憫の情など抱かせず、泣いて懇願する姿さえ唾棄に値すると思わしめ、人としての尊厳を根こそぎ剥奪して、野垂れ死にさせるのだ。
・・・そして、この国に残された膿を出し切る。
ワタシのいとし子の御世に、腐った奸物はいらない。
・・・ああ、それにしても。
銀色の魔女は目線を下に下げると、滅多に見せない笑顔を浮かべた。
魔女の視線の先には、ベビーベッドの中で毛布と格闘する赤子が一人。んうーんんー、とうめきながら毛布を引っ張っては足で蹴り上げようとしていた。
「・・・これ、風邪を引くではないか」
思わず伸ばした指先を、赤子がぎゅっと握り締めた。そのまま、珍しいものを見るかのように目がきゅるきゅると動く。
・・・赤子とはなんと柔らかくてこうもいい香りがするのだろうな。赤子のさせるままに指を遊ばせながら、銀の魔女は一人ごちた。
小さな手や足にちゃんと指が揃っていて、その指先には小さな爪まで揃っているのだ。
きっと。小さな手は、いつか何でも掴めるだろう。小さな足は、望むモノを手にするために、どこまでも歩いていけるだろう。
希望に満ちた、塊だ。
腹が減ると、ほあほあ泣いて、庇護を叫ぶのも可愛い。
一生懸命、毛布を足で蹴りながら、少しでも自分の見える世界を変えたいと身動くのだ。
・・・そして時折見えてないはずの瞳で、ワタシを捕らえる。
赤子の瞳に必死の色を認めて、魔女は自分が必要とされている幻想に陥った。・・・そんなはずはないと知っているのに。
「・・・心配せずとも、また、くる」
それでも、そう呟くのは、魔女の方が離れがたいと感じているからだ。
次は何か土産を持ってこよう。ここにあっってもおかしくない、誰も気付かないもの。
柔らかなリネンでも探してみるか。ここにあるのと同色の、白か青の肌触りの良いタオル。
「タオルで何か形作るのも良いかもしれんな」
赤子の退屈を紛らわすにふさわしいものを。
銀の魔女は銀の髪を揺らすと、消え去った。
・・・後日、赤ん坊のベッドの中に、奇妙な形に畳まれた、タオル人形の姿があった。客観的に見て、可愛らしいとは言えない出来だ。
『・・・乳母、か・・・?』
父エンダール二世王が思わずつまみ上げ、目の前にぶら下げて、首をひねったものだが、赤子にはお気に入りのおもちゃだったようだ。
・・・すぐに泣き出した。
『・・・あ、ああ、すまん、ディノッソ』
父親は、慌てて人形を子に返した。
奇妙な形のタオル人形は、それから永い間、エンダール王の子守部屋に鎮座していた。不思議なことに目を離すと新しい人形が増えている。奇妙に思いながらも、乳母が始めの人形を模して作ったのだろう、と誰もが思っていた。
ディノッソがその部屋を出た後、他の王族の子守部屋となった時も、いつか、人形はそこにあった。
人形はエンダールの血に連なる子らの成長を、ずっと見つめていたのだ。
********
「奸物も極まったな。今まで我らを騙したぶんも購わせるとしよう」
近衛、騎士、兵士が列を作り並ぶその前で、壮年の王となったエンダールは鬨の声を上げた。
二世王の代になり、治水、教育、貿易に力を入れた彼の国は、肥沃な大地を復活させ、国の隅々まで潤う、作物豊富な農業と、その作物を輸出する主要大国になっていた。
また人材育成に暇をかけず、熱心に教育を施したお陰で、商工業人の活躍が目覚しかった。
そして、王位継承一位のディノッソももう幼いだけの少年ではない。
父王の厳しくも温かい眼差しに後押しされながら、知者について知を磨き、騎士について礼儀と技を磨いた。着実に力を磨き、確実に階段をのぼる、幼かった彼も、もう、十三歳、立派な騎士だった。
「ディノッソ。堅くなるなよ、私が初陣を体験したのも十三歳だ。お前なら大丈夫だ」
父エンダールの力強い声が聞こえる。
「・・・守護天使の加護がありますように。・・・ふ、あの時も、父が私にそう言ったな、・・・懐かしい」
「ウワンコウ・・・アリスですか。父上」
何かの折に、父王がウワンコウの話をしてくれた事を、ディノッソは覚えていた。
「・・・ああ。だが、奇跡は起こらんよ。自分の身は自分で守れ。不味い、と思えば退散してもいい。逃げて来い」
「・・・そ、れは承服しかねます、父上。初陣なのですから、卑怯者にはなりたくありません」
「馬鹿だな。生きてこそ道は開ける、生きていればこそ、だ」
逃げることは卑怯でもなんでもないさ。かえって、勝ち目もないのにそこに留まって戦を仕掛けるなんて、馬鹿のすることだ。
「なにが何でも生きて帰れ。それが出来ない奴に王位なんかやれん」
明日死ぬかもしれない血気盛んな王に、誰が喜んで付いて行くんだ?
それに釈然としないものを感じながらも、ディノッソ少年は頷いたのだ。
彼らの従軍する先に、隣国との国境近い領地がある。
古参貴族の領地だった。先の王家とのつながりも深く、そのため先々代の王族に顔が聞いたことも災いした。
彼らは表向きエンダールに忠誠を誓いながら、先の王に文を送り、姦計企て、城内に敵兵を引き入れようとしていたのだ。・・・十三年前の悲劇と同じように、うまくいくと思っていたのだろう。
生れ落ちたその日、母と兄二人は彼らに殺された。父は身篭っていた母の胎内から私を引きずり出したと言う。
のらりくらりと糾弾を交わす狸を相手に、父は消耗戦だと思ってかかったそうだ。
だが、逃れられない決定的な証拠を、ひょんなところで見つけたり、死んだと思われていた証人を見つけたり、と色んなことが沢山あって、気がついたら狸は自分で自分の首を絞めていた。
「・・・運がよかったでは済まされない程、運がよかったんだ」と、あの父に言わしめた程、とんとん拍子の捕り物劇だったようだ。
だが、民に与えた衝撃は計り知れなかった。母は民にとても慕われていた。母を殺したものが隣国の王の手のものだったら、戦端が開かれるはずだったほどに。
だが、古参貴族はそれをこそ願っていたのだ。
戦は、武器や兵士を抱えている地方領主にとっては、割の良い商売だった。
獣のように、相手を沢山殺せば英雄に、進軍して勝てば領土を広げられ、奴隷を増やすにも調度良い。
そして万が一負けを悟ったならば。
エンダール王の背後から、王の首を取れば良い。
そう言って笑ったのだと言う!
その事実を知ったときの父と祖父の怒りは果てがなかった。自国の貴族に足元を救われたのだ。あまつさえ、若い皇太子妃とその次代を担う子まで黄泉路へ追いやられたのだ。
地道に集めた情報と証拠の品は、子を庇う母を、その幼い息子を手にかけた、悪辣の徒として民の目には映ったのだろう。処刑台に送られた狸を擁護する声は皆無で、罵りと怒号が飛び交い、厳しいまでの眼差しに満ちた場になったと言う。
いまさらながらに己が仕出かした事柄に首をすくめる狸の前で、かかわった者達が惨たらしく旅立っていくのを狸は見せられ、気絶できても水をかけられ起こされる。
延々と断末魔を聞かされて、ようやく自分の番だと安心したとき、父エンダールは厳かに告げたと言う。
「・・・まだ、だ。貴様の姦計に乗せられたこやつ等も愚かだが、乗せた貴様の罪はさらに重い。まず、処刑した奴らを墓に収めねばなるまい。明日より墓穴を掘り、貴様一人で埋葬せよ。急がねば、仲間が化けて出るぞ」
・・・そうして、狸は処刑されたかつての仲間の遺体を一人残さず埋葬するまで処刑はされず、毎日毎晩遺体と共に寝起きしたそうだ。
最後の仕事・・・自分の墓穴を掘ることの許可をもらえた時、狸は泣いて喜んだそうだが・・・定かではない。
・・・だがそれほどの怒りで迎えられれば、萎縮して二度と同じ過ちはすまいと思うだろうに、その息子がまた同じ事をしようとしたのだ。城内に入り込んだ賊は、あっさりと近衛に抑えられたが、聞き出した情報は、聞いていた父の顔色が白くなるほど、恐ろしい内容だった。
・・・中央を追われた貴族階級の男達が、揃って反旗を翻したのだ。
その領地の民は、人足や、戦う訓練を強制的に受けさせられ、女は売買され、資金確保に使われているという。
どこまでも、卑怯な奴らだった。
ディノッソは少年らしい潔癖さで彼らを嫌悪した。なにせ、母の姿を絵姿でしか見れないのは、奴らのせいだ。母の声も眼差しも、手触りも匂いもすべて・・・知らない。
生きていたら兄とだって喧嘩をしたり、仲直りをしたり出来ただろうに。
だから見えたときは正々堂々戦って、敵に後ろを見せたりしないと思っていた。
でもそれは戦を知らない少年だから言える言葉だったのだ。
********
はあ、はあ、と意気が耳元で聞こえていた。自分に聞こえるのと同じほど、相手に聞こえていたら、と恐ろしくなる。何とか息を整えて、周りを見渡す。
足元には、自分を守ってくれた最後の護衛兵。
守ってくれる相手はもう、いない。
絶望が襲い掛かってくる。
相手の貴族たちは、貴族とは思えないほど下劣な顔で、藪を切り裂いては獲物を探していた。
獲物。
自分、だ。
「でてこいよ、おぼっちゃん!」
「かわいがってやるからさー!」
そう嘯いては、ぎゃはははと笑うのだ。甚振られているのは明白だった。
地方へ追いやられた貴族の日ごろの鬱憤晴らしと、皇太子だと言う明らかな容姿が目に留まってしまったらしい。
周りを固めていた四人の護衛もすべて息絶えてしまった。
心細くはあるが、それでも無様な最後は見せたくない。
・・・一人でも多く道連れにしてやる。
ディノッソは刀を握り締めた。
目の前を踏みしめて歩く、足をやり過ごし、草むらの中で息を殺してチャンスを伺った。
細身の剣を突き立て、すぐに引き抜く。そしてまた草むらに身を隠す。
男達の焦りは目に見えている。子供だと思って侮っていたのだろう。
慌てる奴らの視線をかいくぐり、一人、また一人と倒していった。
だが・・・数が多すぎたのだ。
追い立てられ、切り付けられ、命乞いをしろと嬲られ、それでも口をつぐんでいると可愛くない餓鬼だと罵られる。
蹴られ殴られ、切りつけられて、痛む体を支えて、それでも立った。
ディノッソを奮い立たせるのは、父の勇姿だ。決して怯まず、前を向く背中だ。
あんなふうになりたかった。
その、父の言葉が脳裏に浮かんだ。
『なにが何でも生きて帰れ』
それにクス、と小さく笑って顔を上げた。目線の先には数にものを言う卑怯者が、獲物を嬲る眼差しでディノッソを見ていた。
・・・すいません、父上。わたしまで、親不孝をしてしまいそうです。
奴らをギンッと睨み付ける。剣呑な眼差しに少し引いたようだが、それでも下劣な笑いは止まない。
数に安心しているのだろう。
あと何人、道連れに出来るかな、と思いながらディノッソは刀を持つ手を動かした。利き腕に鋭い痛みが走る。
・・・でも最後まで、醜い命乞いはしたくなかった。
「うぁっ! そこ! ど・・・どいてえええええ!!!」
・・・だから、
奴らに切りかかろうとした瞬間、
空から天使が降って来るなんて、
思ってもいなかったのだ。
・・・どう言い表せばいいのだろう?
「あ・・・あ、ぁ~~~・・・退いてって言ったのに・・・」
奇妙な着物を着た天使が、敵方中心人物の脳天を見事踏み抜いて、立っていた。
父エンダールを助けてくれた守護天使が、もう一度姿を現してくれた瞬間だった。