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掌編小説集

猫の日

掲載日:2026/09/30

私は猫としか話せぬ。

別に大げさな意味はない。


朝起きて、まず「おはよう」と言う相手が猫だ。

返事はないけど、伸びをする。

それを見て、今日も生きているなと思う。


昼、台所で皿を洗いながら、「最近どう」と聞く。

猫は流しの縁に前足をかけて、水を覗きこむ。

濡れるのが嫌なくせに、毎回やる。


夕方、窓の外を見ている背中に、

「涼しくなってきたな」と言う。

耳がぴくりと動くだけ。


会話と呼ぶには足りないかもしれない。

猫は覚えていないし、気にもしていない。

昨日のことも、明日のことも考えていない顔をしている。

別に通じているとは思っていない。


夜、猫はいつも通り、腹の上で丸くなる。

私はいつも通り、「重い」と言う。

猫は動かない。


また朝は来る。

猫は何も覚えていない顔であくびをする。

私は昨日のことを覚えている。

昨日も同じように重かったことを覚えている。


腹の上で寝息が上下する。

それに合わせて、私の呼吸も揃う。

揃っているのかどうかも、たぶんどうでもいい。


私は手を出して、

猫の背中を撫でる。

毛が抜ける。

それをつまんで、猫のひたいにくっつける。


私は猫としか話せぬ。


それは誓いでも主義でもなく、

ただ日々の積み重なりで、

誰かに向けて整えられた言葉は、

たいてい用が済めば役目を終える。


けれど猫に向けた言葉は、どこにも着地しないまま、

部屋の中を漂い、やがて床や壁に薄く染みついていく。

言葉は、届かなくても形だけは持つらしい。


私の一日は、

猫の伸びと、

水を覗きこむ前足と、

窓辺の背中と、

腹の上の丸い重さでできている。

それでも私は、猫に向かって話す。


猫は覚えない。

私は覚えている。


その差の中で、

私は静かに歳をとる。


もしこの先、猫がいなくなったとしても、

私はきっと、同じ高さに向かって言葉を出すだろう。

腹の上に重さがなくても、

机の端に毛が落ちていなくても、

それでも「おはよう」と言う。


言葉は、相手を必要とする前に、

私の中で生まれてしまう。


私は猫としか話せぬ。


それは、猫が特別だからではない。

私の一日が、

この重さと、この体温と、この何気ない動きで

出来上がってしまっているからだ。


朝ごとに繰り返されるこの小さなやり取りが、

私の時間をかたちづくっている。


猫は眠り続ける。

私は目を閉じる。


腹の上の重さを感じながら、

今日という一日が確かにあったと、

誰にも知らせずに、ただ受け取る。


今日は祝日らしい。

何の日かは忘れた。

祝うつもりはない。


私は「おはよう」と言う。

猫は伸びをする。


私は猫としか話せぬ。

たぶんこれからも、そうで、

きっとそれで十分だ。

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