猫の日
私は猫としか話せぬ。
別に大げさな意味はない。
朝起きて、まず「おはよう」と言う相手が猫だ。
返事はないけど、伸びをする。
それを見て、今日も生きているなと思う。
昼、台所で皿を洗いながら、「最近どう」と聞く。
猫は流しの縁に前足をかけて、水を覗きこむ。
濡れるのが嫌なくせに、毎回やる。
夕方、窓の外を見ている背中に、
「涼しくなってきたな」と言う。
耳がぴくりと動くだけ。
会話と呼ぶには足りないかもしれない。
猫は覚えていないし、気にもしていない。
昨日のことも、明日のことも考えていない顔をしている。
別に通じているとは思っていない。
夜、猫はいつも通り、腹の上で丸くなる。
私はいつも通り、「重い」と言う。
猫は動かない。
また朝は来る。
猫は何も覚えていない顔であくびをする。
私は昨日のことを覚えている。
昨日も同じように重かったことを覚えている。
腹の上で寝息が上下する。
それに合わせて、私の呼吸も揃う。
揃っているのかどうかも、たぶんどうでもいい。
私は手を出して、
猫の背中を撫でる。
毛が抜ける。
それをつまんで、猫のひたいにくっつける。
私は猫としか話せぬ。
それは誓いでも主義でもなく、
ただ日々の積み重なりで、
誰かに向けて整えられた言葉は、
たいてい用が済めば役目を終える。
けれど猫に向けた言葉は、どこにも着地しないまま、
部屋の中を漂い、やがて床や壁に薄く染みついていく。
言葉は、届かなくても形だけは持つらしい。
私の一日は、
猫の伸びと、
水を覗きこむ前足と、
窓辺の背中と、
腹の上の丸い重さでできている。
それでも私は、猫に向かって話す。
猫は覚えない。
私は覚えている。
その差の中で、
私は静かに歳をとる。
もしこの先、猫がいなくなったとしても、
私はきっと、同じ高さに向かって言葉を出すだろう。
腹の上に重さがなくても、
机の端に毛が落ちていなくても、
それでも「おはよう」と言う。
言葉は、相手を必要とする前に、
私の中で生まれてしまう。
私は猫としか話せぬ。
それは、猫が特別だからではない。
私の一日が、
この重さと、この体温と、この何気ない動きで
出来上がってしまっているからだ。
朝ごとに繰り返されるこの小さなやり取りが、
私の時間をかたちづくっている。
猫は眠り続ける。
私は目を閉じる。
腹の上の重さを感じながら、
今日という一日が確かにあったと、
誰にも知らせずに、ただ受け取る。
今日は祝日らしい。
何の日かは忘れた。
祝うつもりはない。
私は「おはよう」と言う。
猫は伸びをする。
私は猫としか話せぬ。
たぶんこれからも、そうで、
きっとそれで十分だ。




