土曜日と、これから
土曜日。
世界は、昨日までの狂おしい豪雨を忘れたかのように、残酷なほど澄み渡っていた。
雲一つない蒼穹から降り注ぐ陽光は、雨に洗われた街路を容赦なく照らし出し、昨夜までの湿り気を急速に奪っていく。
僕は、約束の十五分前には駅の改札前に立っていた。
昨日の放課後。あの薄暗い教室で、震える声で呼んだ彼女の名前。
指一本分だけ重ねた、あの熱い沈黙。
そのすべてが、このあまりに健康的な日差しの中では、まるで別の世界の出来事のように思えてしまう。
けれど、右手のひらを握り込めば、そこにはまだ彼女の微かな感触が澱のように溜まっていた。
アスファルトから立ち上る陽炎が、僕の視界をわずかに歪ませる。
行き交う人々が放つ賑やかなノイズさえ、今の僕には遠い異国の言語のようにしか聞こえない。
ドギマギとした鼓動が、ワイシャツの胸元を不自然に跳ねさせる。
僕は何度も深呼吸を繰り返し、平静を装おうとした。
「……おはよう」
不意に背後から声をかけられ、僕は情けないほど大きく肩を揺らした。
振り返ると、そこには私服姿の水野さんが立っていた。
淡いクリーム色の薄手のニットに、風を孕んで柔らかく揺れる、深いネイビーのロングスカート。
学校での「完璧な優等生」を象徴する制服を脱ぎ捨てた彼女の姿は、昨日の雨の中よりも、ずっと剥き出しで、危うい美しさを放っている。
「……おはよう、水野さん」
僕は、彼女のあまりの変貌ぶりに、視線のやり場を失って立ち尽くした。
普段のポニーテールを下ろし、肩先で緩く跳ねる黒髪。
そこから覗く白い耳が、妙に大人びて見えて、僕は喉の渇きを覚える。
「どう、かな……変じゃない?」
水野さんが、スカートの裾を少しだけ摘まんで、不安そうに首を傾げた。
僕の自意識は、そんなベタな展開を「安っぽい」と否定したがっていた。
けれど、心臓はその否定を軽々と飛び越えて、正直な答えを脳裏に突きつける。
「……似合ってる。すごく、いいと思う」
口に出した瞬間、顔から火が出るほどの熱が噴き出した。
水野さんは一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに昨日までの「水野さん」が戻ってきたような、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「……ありがと。君も、そのシャツ、格好いいよ」
そんな何気ない言葉の応酬だけで、僕たちの間には、昨日とは違う新しい緊張が走り始める。
彼女の瞳の縁には、微かな赤みが差していた。
僕を見つめる視線が、どこか落ち着かずに泳いでいる。た。
――ああ、この人も。
昨夜、僕と同じように一睡もできず、雨音の消えた部屋で、あの「続き」を反芻していたのだ。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光を見つめながら、僕という不確かな存在を、その心に刻もうとしていたのだろうか。
取り繕った笑顔の裏側にある、隠しきれない寝不足の影。
それが、僕たちを繋ぐ何より確かな証拠のように思えて、僕の胸の奥は、疼くような愛着で満たされた。
「……行こうか」
「うん」
僕たちはどちらからともなく歩き出し、駅の裏手にある、あの古いレコード店へと向かう。
乾いたアスファルトを、二人の足音が重なり合って刻んでいく。
昨日よりもずっと近い距離。
けれど、昨日よりもずっと慎重に。
辿り着いた店の扉を開けると、カランという乾いた音が響いた。
埃の匂いと、古い紙の匂い。
「……あったよ。これだね」
水野さんが、棚の一角で足を止める。
彼女が差し出したそのジャケットを見た瞬間、僕の思考は凍りついた。
それは、僕が図書室で彼女に聴かせた曲ではない。
けれど、僕が誰にも教えず、自分の部屋で、たった独りの聖域を守るために繰り返し聴き続けてきた、僕の人生で最も大切な一曲だった。
「これ、……どうして」
「ふふ、なんとなく。あの日、君が図書室で貸してくれた曲も素敵だったけど、……このジャケット、君のノートの隅に描いてあった落書きに似てたから」
彼女は、僕の知らないところで、僕の欠落を拾い集めていたのだ。
「……聴いてみるかい?」
奥から現れた店主が、僕たちの沈黙を破るように声をかけた。
彼は手慣れた手付きでレコードを預かり、古いターンテーブルへと載せる。
ブツリ、という重たいノイズ。
次の瞬間、スピーカーから溢れ出したのは、僕の鼓動そのもののような、あの旋律だった。
図書室の安っぽいイヤホン越しではない。
剥き出しの音が、店内の静謐な空気と混ざり合い、僕たちの身体を直接震わせる。
本当に、夢みたいだ。
僕の孤独な聖域に、水野さんが立っている。
同じ音を、同じ熱量で、今この瞬間に共有している。
「……いい曲だね。本当に」
水野さんが、音の波に身を任せるようにして目を細める。
「これが、私の答えだよ。これからも改めて、よろしくね」
その横顔は、寝不足の陰を塗り潰すような、透明な輝きに満ちていた。
店を出ると、外は眩しいほどの日差しだった。
僕は彼女の手を、今度は迷わずに握り締めた。左手には、あのレコード。
「……ねえ。あの日、君が貸してくれた傘」
歩き出した水野さんが、不意に足を止めて僕を見上げた。
「返さなきゃいけないのに、……本当は、もう少しだけ持ってたいなって思っちゃったんだ」
僕は、握った彼女の指先の震えを感じて、息が止まりそうになる。
「僕も。……返してもらうのを、わざと忘れたふりしてた」
本当は、月曜日の放課後には返してもらえるはずだった。
けれど、傘を預けているという口実が、彼女との細い糸を繋ぎ止める唯一の糸のように思えて、僕は自分から言い出すことができなかったのだ。
「君も、覚えてたんだ」
水野さんは、おかしそうに、けれど少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「なんだ。私たち、ずっと、同じこと考えてたんだね」
「そうだね。なんだか……馬鹿みたいだ」
僕も、ぎこちなく笑い返す。
あの雨の日、重たい紺色の傘を差し出した僕の独りよがりな親切は、彼女の中で、僕が想像もできないほど大切に育てられていた。
彼女の指先は、昨日の放課後とは違って、僕の熱に応えるように、ぎゅっと握り返された。
いつかこの熱が冷め、季節が巡り、今日聴いたこの曲の旋律さえ忘れてしまう日が来るのかもしれない。
教室の席替えがあり、卒業という名の別れが僕らを分かち、あの日貸した傘がどこへ行ったかも分からなくなる、そんな乾いた未来が。
それでも。
この一週間、雨音に守られた境界線の上で、僕たちが確かに共有した日常の綻びは、僕の人生の残香となって、永遠に消えることはない。
僕たちは、消えゆく火花の輝きを掌で守るようにして、どこまでも続く青空の下へと踏み出していった。
耳の奥では、まだ微かに。
水野さんの、あの鼻歌が、祝福するように鳴り響いていた。




