木曜日
木曜日。
目覚めた瞬間、僕は激しい虚脱感に襲われた。
窓の外では、昨日と何ら変わらない灰色の雨が降り続いている。
昨日の放課後、図書室の片隅で交わしたあの約束。
一つのイヤホンを分け合い、彼女の体温をすぐ隣に感じながら、土曜日に駅裏の古い店へ行くと言葉を交わした、あの時間。
……あれは、本当に現実だったのだろうか。
自分の脳が、孤独に耐えかねて作り出した精巧な白昼夢ではなかったか。
石鹸の匂いも、触れ合った肩の熱も、すべては僕の執着が織りなした幻影だったのではないか。
あんなにも都合のいいことが現実に起こっていいのだろうか。
登校中も、その疑念は澱のように僕の足元に溜まり続けた。
教室に入り、自分の席に座る。
隣には、いつも通りの「水野さん」がいた。
友人たちと笑い、時折窓の外を眺め、ノートを広げる。
彼女の横顔には、僕との間に流れたはずの「共犯者」の気配など微塵も感じられない。
やっぱり、夢だったんだ。
僕は奥歯を噛み締め、教科書に目を落とした。
期待した自分が、惨めで、滑稽で、吐き気がした。授業が始まり、教師の抑揚のない声が雨音に紛れて流れていく。
黒板を叩くチョークの乾いた音と、ページを捲る他人の指先の音。
僕だけがそのリズムから取り残され、加速する自責の念に押し潰されそうになっていた。
彼女の存在があまりに眩しすぎて、昨日までの記憶が、まるで古い映画の断片のように非現実的な色を帯びていく。
僕はただ、ノートの端に意味のない線を何度も引き、塗り潰していた。
白かった余白が、どす黒い鉛筆の跡で汚れていく。それは、僕の心の澱そのものだった。
「勘違いするな」と、自分自身に言い聞かせるように、僕はさらに強く芯を押し付けた。
その時だ。
「……ねえ」
隣から、消え入りそうな囁きが届いた。
心臓が、ひどく暴力的に跳ねた。
水野さんは前を向いたまま、机の上に置いた僕のノートの端を、自分の指先で、ほんの、そっと、愛おしむようになぞった。
「……あの、レコードの店。明後日、楽しみにしてる」
鼻腔の奥を直接撫でるような、あの石鹸の気配が戻ってくる。
夢じゃ、なかった。
彼女の指先が触れた紙面から、確かな熱が伝わってくる。
その一言で、彩度を失っていた世界が、一気に暴力的なまでの鮮やかさを取り戻した。
窓の外の灰色の雨さえも、今は僕たちを祝福するカーテンのように思える。
本当に、夢みたいだ。
この完璧な日常の主人公である彼女が、僕という路地裏のような存在に、自分から歩み寄ってきている。
僕は震える指先で、彼女が触れたノートの端を、上からそっとなぞり返した。
現実だ。
彼女の言葉も、指先の温度も、僕たちが土曜日に交わすであろう約束も、すべてがこの雨の中に実在しているんだと、僕は噛み締める。
僕は前を向いたまま、深く、深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで彼女の残香が満たされ、僕は初めて、自分が生きているという実感に酔いしれた。
昼休み。
水野さんは相変わらず友人たちの中心にいた。
けれど、今の僕には分かる。
彼女が時折、無意識に自分の指先を弄り、窓の外を……駅の裏がある、あの方角をじっと見つめていることを。
僕たちは、この騒がしい教室という箱舟の中で、一つの「未来」という名の不発弾を共有している。
放課後。
掃除のために椅子を机に上げる際、僕たちの手が、一瞬だけ触れ合った。
「……楽しみだね、本当に」
彼女は、誰にも聞こえない声でそう言うと、恥ずかしそうに目を伏せて、足早に教室を出て行った。
今日は木曜日。
一週間の終わりが見えてきた。
明日は金曜日。
予報では、さらなる豪雨が街を襲うという。
その雨が、僕たちの最後の境界線を押し流し、僕をどこへ連れていくのか。
僕は自分の手のひらを、じっと見つめていた。
そこにはまだ、夢のような現実の熱が、澱のように溜まっていた。




