表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スパークルストーリー  作者: 天色うさぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

木曜日


 木曜日。

 目覚めた瞬間、僕は激しい虚脱感に襲われた。

 

 窓の外では、昨日と何ら変わらない灰色の雨が降り続いている。


 昨日の放課後、図書室の片隅で交わしたあの約束。


 一つのイヤホンを分け合い、彼女の体温をすぐ隣に感じながら、土曜日に駅裏の古い店へ行くと言葉を交わした、あの時間。

 

 ……あれは、本当に現実だったのだろうか。

 

 自分の脳が、孤独に耐えかねて作り出した精巧な白昼夢ではなかったか。


 石鹸の匂いも、触れ合った肩の熱も、すべては僕の執着が織りなした幻影だったのではないか。


 あんなにも都合のいいことが現実に起こっていいのだろうか。

 

 登校中も、その疑念はおりのように僕の足元に溜まり続けた。


 教室に入り、自分の席に座る。

 隣には、いつも通りの「水野さん」がいた。


 友人たちと笑い、時折窓の外を眺め、ノートを広げる。


 彼女の横顔には、僕との間に流れたはずの「共犯者」の気配など微塵みじんも感じられない。



 やっぱり、夢だったんだ。

 


 僕は奥歯を噛み締め、教科書に目を落とした。


 期待した自分が、惨めで、滑稽で、吐き気がした。授業が始まり、教師の抑揚のない声が雨音に紛れて流れていく。


 黒板を叩くチョークの乾いた音と、ページをめくる他人の指先の音。


 僕だけがそのリズムから取り残され、加速する自責の念に押し潰されそうになっていた。


 彼女の存在があまりに眩しすぎて、昨日までの記憶が、まるで古い映画の断片のように非現実的な色を帯びていく。

 

 僕はただ、ノートの端に意味のない線を何度も引き、塗り潰していた。


 白かった余白が、どす黒い鉛筆の跡で汚れていく。それは、僕の心のおりそのものだった。


 「勘違いするな」と、自分自身に言い聞かせるように、僕はさらに強く芯を押し付けた。


 その時だ。


「……ねえ」


 隣から、消え入りそうなささやきが届いた。

 

 心臓が、ひどく暴力的に跳ねた。


 水野さんは前を向いたまま、机の上に置いた僕のノートの端を、自分の指先で、ほんの、そっと、愛おしむようになぞった。


「……あの、レコードの店。明後日、楽しみにしてる」


 鼻腔の奥を直接撫でるような、あの石鹸の気配が戻ってくる。


 

 夢じゃ、なかった。

 

 彼女の指先が触れた紙面から、確かな熱が伝わってくる。


 その一言で、彩度を失っていた世界が、一気に暴力的なまでの鮮やかさを取り戻した。


 窓の外の灰色の雨さえも、今は僕たちを祝福するカーテンのように思える。


 

 本当に、夢みたいだ。

 


 この完璧な日常の主人公である彼女が、僕という路地裏のような存在に、自分から歩み寄ってきている。


 僕は震える指先で、彼女が触れたノートの端を、上からそっとなぞり返した。


 現実だ。

 彼女の言葉も、指先の温度も、僕たちが土曜日に交わすであろう約束も、すべてがこの雨の中に実在しているんだと、僕は噛み締める。

 

 僕は前を向いたまま、深く、深く息を吸い込んだ。


 肺の奥まで彼女の残香が満たされ、僕は初めて、自分が生きているという実感に酔いしれた。


 昼休み。

 水野さんは相変わらず友人たちの中心にいた。


 けれど、今の僕には分かる。

 彼女が時折、無意識に自分の指先をいじり、窓の外を……駅の裏がある、あの方角をじっと見つめていることを。

 

 僕たちは、この騒がしい教室という箱舟の中で、一つの「未来」という名の不発弾を共有している。

 

 放課後。

 掃除のために椅子を机に上げる際、僕たちの手が、一瞬だけ触れ合った。

 

「……楽しみだね、本当に」


 彼女は、誰にも聞こえない声でそう言うと、恥ずかしそうに目を伏せて、足早に教室を出て行った。

 

 今日は木曜日。

 一週間の終わりが見えてきた。

 

 明日は金曜日。


 予報では、さらなる豪雨が街を襲うという。


 その雨が、僕たちの最後の境界線を押し流し、僕をどこへ連れていくのか。

 

 僕は自分の手のひらを、じっと見つめていた。


 そこにはまだ、夢のような現実の熱が、おりのように溜まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ