火曜日
火曜日。
予報は、僕の期待を裏切らなかった。
窓の外では、朝から厚い雲が街を押し潰し、絶え間なく細かな雨粒を降らせている。
雨滴に歪んだ窓ガラスの向こう、見える景色はどれも彩度を失い、世界全体が冷たい海の底に沈んでしまったかのようだ。
湿った空気のせいで、隣の席から届く石鹸の匂いは、昨日よりもずっと重く、僕の肺の奥底にまで直接まとわりついてくる。
「昨日は、ありがとね。……助かっちゃった」
朝一番、水野さんは僕の方を向いて、昨日と同じ、あるいは昨日よりも少しだけ「親密」な温度で笑いかけてきた。
その言葉の端々に、僕が積み上げた「善意」という名の供物が、確実に彼女の心に澱のように溜まっているのを感じる。
僕は適当な相槌を打ちながら、教科書を捲る。
指先に残る、昨日のプリントの感触。
彼女に「優しい」と言わしめた、僕の独善的なエゴ。
雨音は、授業中もずっと、僕たちの境界線を曖昧に溶かし続けていた。
放課後。
忘れ物を取りに戻った教室は、深く静まり返った深海の青を湛えていた。
部活動に励む者たちの喧騒も、激しくなった雨音に掻き消され、ここには届かない。
僕は、自分の机に手をかけようとして、ふと足を止めた。
聞こえてきたのは、微かな、けれど確かなメロディ。
鼻歌だ。
なんだっけなこの曲。
誰もいないはずの教壇の横、窓際。
そこには、水野さんが一人で立っていた。
彼女は、僕たちの前で見せる「水野さん」ではなかった。
少しだけ首を傾け、リズムを取るように、爪先でタイルの床を小さく叩いている。
その鼻歌は、ひどく頼りなげで、けれど自由だった。
まるで、狭い路地裏で誰にも見つからないように跳ね回る、臆病なうさぎのステップ。
僕は、息をすることを忘れていた。
彼女がくるりと回る。
さらりとした黒髪が、湿った空気の中で弧を描き、スカートの裾がふわりと舞う。
その瞬間、彼女は僕の視線に気づいた。
メロディが、ぷつりと途切れる。
水野さんが僕に気づくと。
顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
さっきまでの「誰にでも友好的な彼女」の仮面は、どこにもなかった。
そこにあるのは、秘密の聖域を暴かれ、震えている一匹の生き物。
「……あ」
彼女の声が、雨音に混じって震えた。
昨日、僕が彼女にプリントを渡した時と同じ、いや、それ以上の密度を持った沈黙が、二人の間に流れる。
僕は、この瞬間を待っていたのかもしれない。
彼女の「普通」を剥ぎ取り、僕だけが知る彼女の内側の欠落を共有するこの時を。
「……聞いてた?」
水野さんが、縋るような目で僕を見つめる。
その瞳には、隠しきれない羞恥と、そして僕という存在を拒絶しきれない諦念が混じり合っていた。
「……少しだけ」
僕は、昨日よりも少しだけ低い声で答えた。
水野さんは、持っていた鞄を抱え直すようにして胸元に押し当て、逃げ場を探すように視線を泳がせる。
「……最悪。もう、本当に、最悪……恥ずかしすぎる。」
消え入りそうな声で呟きながら、彼女は僕の方へと歩み寄ってきた。
一歩、また一歩と距離が詰まるたび、彼女から立ち昇る石鹸の匂いと、上履きが床を擦るかすかな音が、僕の脳幹《 のうかん》を痺れさせる。
「今のは、忘れて……お願い。誰にも、言わないで」
彼女は僕の机の前で立ち止まると、絞り出すような声と潤んだ瞳で、僕を見上げた。
その距離は、昨日の「善意の積み重ね」を飛び越えて、一気に親密な、けれど危うい領域へと踏み込んでいる。
彼女の指先が、僕の机の端をぎゅっと掴む。
爪の先が白くなっているのが見えた。
「……どうしようかな」
僕は、あえて意地悪な沈黙を置いた。
水野さんの完璧な日常の綻びを、僕だけが握っているという、歪んだ優越感。
「あ……っ、もう! 笑わないでよ。……変だったでしょ、今の」
水野さんは困ったように眉を下げ、照れ隠しに僕の腕をぽかぽかと小さく叩いた。
その仕草は、いつものクラスメイトに向ける「愛想」ではなく、心臓の奥まで直接手を伸ばしてくるような、あまりに饒舌な甘えだった。
「変じゃなかったよ。……なんか、うさぎみたいで、面白かったけど」
「うさぎ?! 何それ、ひどい!」
彼女は頬を膨らませてそっぽを向いたが、掴んだ机の端から手は離さない。
それどころか、少しだけ僕の方へ身を乗り出すようにして、小声で囁いた。
「……内緒だからね。本当に。もし誰かに言ったら、君のこと、一生恨んでやるんだから」
恨んでやる、という言葉が、今の僕にはどんな愛の告白よりも甘美に響く。
彼女の秘密の裏側を、僕の路地裏に埋める。
雨は、さらに激しさを増していく。
誰にも見せないはずの鼻歌。
それを聞いてしまった僕は、もう、ただの「隣の席の君」ではいられない。
僕たちは今、この誰もいない箱庭で、一つの致命的な秘密を共有する「共犯者」になったんだ。




