表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スパークルストーリー  作者: 天色うさぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/6

月曜日


 月曜日の朝。

 教室の空気は、おりのように重たく沈んでいる。


 休み明けの気だるさと、誰かの制汗剤の安っぽい匂い。


 換気の悪いこの空間で、僕は自分の心臓が刻む、不規則なリズムを数えていた。



 隣の席から、ふわりと届く石鹸の匂い。


 それは、水野みずの つむぎが動くたびに、僕の領分を音もなく侵食してくる。


 彼女は、いつも「普通」だ。

 クラスの誰にでも分け隔てなく笑い、誰にでも友好的な光を振りまいている。


 その「善意」という名の暴力が、僕のいびつな独占欲をじりじりと焼き焦がす。


「……ねえ。消しゴム、貸してくれない?」


 不意に、水野さんがこちらを向いた。

 さらりとした黒髪の隙間から、潤んだ瞳が僕をのぞき込む。


 ただの日常的な、何でもないはずの一言。

 けれど、僕の脳内では銀河が爆発するような、名前のつかない衝動が跳ねた。


「……あ、ああ。いいよ」


 僕は努めて平然を装い、筆箱から使い古した消しゴムを差し出す。


 彼女の手が、僕の指先にほんの一瞬だけ触れた。


 指先の熱。

 柔らかな肌の感触。

 たったそれだけのことで、僕の自意識は泥のように形を失い、彼女という引力に……吸い込まれていく、抗いようのない感覚。


「ありがと。助かっちゃう」


 水野さんは、僕にだけに分かるような小さな悪戯いたずらっぽさを込めて笑う。


 その笑顔が、自分だけに向けられた「特別」なのか。

 それとも、彼女が誰に対しても用意している、使い古されたものなのか。


 分からない。

 分からないからこそ、僕は彼女の些細な仕草一つに、救いようのないほど、無様に翻弄ほんろうされ続けているのだろう。


 休み時間のチャイムが鳴ると、案の定、彼女の周りには他の男子が集まってきた。


 明るい声。屈託のない笑い。

 誰に対しても「水野さん」として振る舞う彼女。


 その輪から少しだけ外れた場所で、僕は一人、教科書を閉じる。


 彼女の手首に巻かれたシュシュや、笑う時に少しだけ細められる目尻めじり

 そのすべてを、僕だけがスローモーションで解体バラして、脳内の標本箱に閉じ込めているなんて。


 そんな、少しだけ「気持ち悪い」自覚がある自分の執着が、月曜日の、この湿った空気の中でいっそ心地よくさえあった。



 放課後。


 掃除の喧騒けんそうが去り、オレンジ色の西日が差し込み始めた教室。


 僕は、一人で明日の予習をするふりをして、自分の席に残っていた。


 いや、正確には彼女が帰った後の、その座っていた空間を、ただ眺めていただけかもしれない。


 彼女の机の下に、一枚の紙が落ちているのが見えた。


 明日提出の、英語のプリント。


 僕は、それを拾い上げた。

 隅の方に、小さく「水野」と書かれた丸っこい文字。


 それを見ただけで、心臓の奥が不当に跳ねる。


「これ……届けなきゃ」


 独り言のようにつぶやき、僕はかばんを肩にかけた。


 正直に言えば、プリントなんて明日渡せば済む話だ。


 問題数もそうあるわけじゃないし、僕が写させてあげたっていい。


 それでも、僕はその「明日」まで待てない。


 一秒でも長く、彼女の意識を僕に向けさせていたい。


 そのための「正当な理由」が、今、僕の手の中にある。


 あの日、雨の昇降口で傘を貸した時もそうだった。


 純粋な親切心なんて、どこにもなかった。


 ただ、彼女と話すきっかけが欲しくて、彼女の記憶に僕という存在をねじ込みたくて、必死に「親切な隣人」のつらをして一歩踏み出したんだ。



 昇降口を出たところで、友人と楽しげに歩く水野さんの背中を見つけた。


 西日に照らされた彼女の黒髪が、透き通るような茶色に輝いている。


「み、……水野さん」


呼びかける声が、自分でも驚くほどかすれていた。


彼女が足を止め、こちらを振り返る。


「あ、君。どうしたの?」


「これ。……机の下に、落ちてた」


 僕は、差し出したプリントが震えないように、指先に力を込めた。


 水野さんは、ぱっと表情を明るくして、僕の元へ駆け寄ってくる。


「わ、本当だ! 助かったぁ……。わざわざ追いかけてくれたの? ありがと!」


 彼女の手が、プリントを受け取る際に僕の指先に触れる。


 ほんの一瞬。

 その熱は、朝に消しゴムを貸した時よりもずっと鮮明に、僕のてのひらに刻みつけられた。


「やっぱり君って、優しいよね」


 水野さんは、そう言って僕の目をじっと見つめ、小さく笑った。


 その言葉が、僕の歪んだ下心を見透かしているようで、胸の奥がチリりと焼ける。


 優しい、なんて。

 僕はただ、君に気に入られたくて、君の特別になりたくて、必死に「善意」を積み上げているだけなのに。


 この「優しさ」は、君を僕という路地裏に引きずり込むための、計算されたものなのに。


「……別に。ついでだから」


 僕はぶっきらぼうに答えて、視線をらした。


 そんな僕の態度を面白がるように、彼女は「また明日ね」と手を振り、友人たちの輪へと戻っていく。


 遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、僕は自分の右手を強く握りしめた。


 僕が積み上げているのは、彼女への想いという名の、独善的なエゴだ。


 それが重なれば重なるほど、僕はもう、彼女なしの日常には戻れなくなっていく。


 校門を出る頃、灰色の雲がゆっくりと街を飲み込み始めていた。


 明日は、また雨になる。

 あの日と同じ、湿った匂いが、風に乗って僕の鼻腔びこうを突いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ