月曜日
月曜日の朝。
教室の空気は、澱のように重たく沈んでいる。
休み明けの気だるさと、誰かの制汗剤の安っぽい匂い。
換気の悪いこの空間で、僕は自分の心臓が刻む、不規則なリズムを数えていた。
隣の席から、ふわりと届く石鹸の匂い。
それは、水野 紬が動くたびに、僕の領分を音もなく侵食してくる。
彼女は、いつも「普通」だ。
クラスの誰にでも分け隔てなく笑い、誰にでも友好的な光を振りまいている。
その「善意」という名の暴力が、僕の歪な独占欲をじりじりと焼き焦がす。
「……ねえ。消しゴム、貸してくれない?」
不意に、水野さんがこちらを向いた。
さらりとした黒髪の隙間から、潤んだ瞳が僕を覗き込む。
ただの日常的な、何でもないはずの一言。
けれど、僕の脳内では銀河が爆発するような、名前のつかない衝動が跳ねた。
「……あ、ああ。いいよ」
僕は努めて平然を装い、筆箱から使い古した消しゴムを差し出す。
彼女の手が、僕の指先にほんの一瞬だけ触れた。
指先の熱。
柔らかな肌の感触。
たったそれだけのことで、僕の自意識は泥のように形を失い、彼女という引力に……吸い込まれていく、抗いようのない感覚。
「ありがと。助かっちゃう」
水野さんは、僕にだけに分かるような小さな悪戯っぽさを込めて笑う。
その笑顔が、自分だけに向けられた「特別」なのか。
それとも、彼女が誰に対しても用意している、使い古されたものなのか。
分からない。
分からないからこそ、僕は彼女の些細な仕草一つに、救いようのないほど、無様に翻弄され続けているのだろう。
休み時間のチャイムが鳴ると、案の定、彼女の周りには他の男子が集まってきた。
明るい声。屈託のない笑い。
誰に対しても「水野さん」として振る舞う彼女。
その輪から少しだけ外れた場所で、僕は一人、教科書を閉じる。
彼女の手首に巻かれたシュシュや、笑う時に少しだけ細められる目尻。
そのすべてを、僕だけがスローモーションで解体して、脳内の標本箱に閉じ込めているなんて。
そんな、少しだけ「気持ち悪い」自覚がある自分の執着が、月曜日の、この湿った空気の中でいっそ心地よくさえあった。
放課後。
掃除の喧騒が去り、オレンジ色の西日が差し込み始めた教室。
僕は、一人で明日の予習をするふりをして、自分の席に残っていた。
いや、正確には彼女が帰った後の、その座っていた空間を、ただ眺めていただけかもしれない。
彼女の机の下に、一枚の紙が落ちているのが見えた。
明日提出の、英語のプリント。
僕は、それを拾い上げた。
隅の方に、小さく「水野」と書かれた丸っこい文字。
それを見ただけで、心臓の奥が不当に跳ねる。
「これ……届けなきゃ」
独り言のように呟き、僕は鞄を肩にかけた。
正直に言えば、プリントなんて明日渡せば済む話だ。
問題数もそうあるわけじゃないし、僕が写させてあげたっていい。
それでも、僕はその「明日」まで待てない。
一秒でも長く、彼女の意識を僕に向けさせていたい。
そのための「正当な理由」が、今、僕の手の中にある。
あの日、雨の昇降口で傘を貸した時もそうだった。
純粋な親切心なんて、どこにもなかった。
ただ、彼女と話すきっかけが欲しくて、彼女の記憶に僕という存在をねじ込みたくて、必死に「親切な隣人」の面をして一歩踏み出したんだ。
昇降口を出たところで、友人と楽しげに歩く水野さんの背中を見つけた。
西日に照らされた彼女の黒髪が、透き通るような茶色に輝いている。
「み、……水野さん」
呼びかける声が、自分でも驚くほど掠れていた。
彼女が足を止め、こちらを振り返る。
「あ、君。どうしたの?」
「これ。……机の下に、落ちてた」
僕は、差し出したプリントが震えないように、指先に力を込めた。
水野さんは、ぱっと表情を明るくして、僕の元へ駆け寄ってくる。
「わ、本当だ! 助かったぁ……。わざわざ追いかけてくれたの? ありがと!」
彼女の手が、プリントを受け取る際に僕の指先に触れる。
ほんの一瞬。
その熱は、朝に消しゴムを貸した時よりもずっと鮮明に、僕の掌に刻みつけられた。
「やっぱり君って、優しいよね」
水野さんは、そう言って僕の目をじっと見つめ、小さく笑った。
その言葉が、僕の歪んだ下心を見透かしているようで、胸の奥がチリりと焼ける。
優しい、なんて。
僕はただ、君に気に入られたくて、君の特別になりたくて、必死に「善意」を積み上げているだけなのに。
この「優しさ」は、君を僕という路地裏に引きずり込むための、計算されたものなのに。
「……別に。ついでだから」
僕はぶっきらぼうに答えて、視線を逸らした。
そんな僕の態度を面白がるように、彼女は「また明日ね」と手を振り、友人たちの輪へと戻っていく。
遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、僕は自分の右手を強く握りしめた。
僕が積み上げているのは、彼女への想いという名の、独善的なエゴだ。
それが重なれば重なるほど、僕はもう、彼女なしの日常には戻れなくなっていく。
校門を出る頃、灰色の雲がゆっくりと街を飲み込み始めていた。
明日は、また雨になる。
あの日と同じ、湿った匂いが、風に乗って僕の鼻腔を突いた。




