第七話 黒い痕跡
――その揺らぎは、一瞬だった。
ミーナは気づいたような、気づかないふりをしたような曖昧な表情で、小さく首を傾げて微笑んだ。
「セイちゃん、はい、お水。」
セイは小さなコップを受け取りながら、
自分の手がわずかに震えていることに気づいた。
(……。今の、絶対に「何か」出たよな?)
熱でも魔力でもない。
もっと根源的な、世界の「気配」に触れたような感覚。
だが、考える暇はなかった。
――ドンドンドンッ!
家の扉が乱暴に叩かれた。
「ミーナ! セイはいるか!」
ロウの声だ。
いつもの落ち着きはなく、焦りが滲んでいる。
ミーナが慌てて扉を開けると、ロウは額に汗を浮かべ、険しい表情で立っていた。
「ロ、ロウ……? どうしたの?」
「村の外れで……。「黒い痕跡」が広がってる。村長が全員に警戒を呼びかけてる。すぐ避難の準備だ」
ミーナの顔が青ざめる。
「そんな……。昨日までは何も……。」
「だからおかしいんだ。普通じゃない。」
ロウはセイを見る。
その目は、父としての優しさと、戦士としての緊張が混ざっていた。
「セイ。絶対にミーナから離れるな!」
(……。またそれか。いや、わかるけどさ。赤子はそう逃げられたものじゃない。)
「ぷぷばぶー。」
セイは幼児の身体で小さく頷いた。
村の広場には、すでに人が集まり始めていた。
皆、不安を隠しきれない表情でざわついている。
「ロウくん、どうなんだい?」
「魔獣が来るのか?」
「避難なんて、何年ぶりだ……。」
ロウは村人たちに短く説明しながら、周囲を警戒するように視線を巡らせていた。
ミーナはセイを抱きしめたまま、震える声で呟く。
「……ロウ、まさか「あれ」が近づいてるの?」
「断言はできない。だが……。嫌な予感がする。」
(「あれ」? 黒い痕跡と関係あるのか?)
セイの胸がざわつく。
そのとき――。
――ゴォォォォ……。ゴォォォォ……。
森の奥から、低い唸り声のような風が吹いた。
村人たちが一斉に振り返る。
「な、なんだ今の……?」
「風……。じゃないよな……?」
セイの背筋に、冷たいものが走った。
(……。この気配、知ってる。いや、覚えてる……?)
前世の誠一としての記憶ではない。
もっと深い、もっと古い「何か」が反応している。
その瞬間――。
セイの周囲の空気が、再び揺らいだ。
「……。セイ?」
ミーナが驚いた声を上げる。
ロウも気づき、目を見開いた。
「おい……。今のは……。」
セイ自身も理解できないまま、胸の奥から熱がこみ上げてくる。
(やばい……。また「熱」があふれ出てくる……!ん?何か俺光ってないか?)
だが、止められない。
空気が震え、光が滲む。
そして――。
森の奥から、黒い影がゆっくりと姿を現した。
村人たちが悲鳴を上げる。
「ま、魔獣だ……!」
「なんでこんな近くに……!」
ロウが剣を抜き、前に出る。
「ミーナ! セイを連れて下がれ!」
「村の守り神に憑依されているぞ!」
「そうであってほしくないと願っていたが、思った通りだった。」
「守り神には申し訳ないが狩るしかないな。」
ミーナはセイを抱きしめ、後退しながら叫んだ。
「ロウ、気をつけて!」
「任せておけ!こんなところでやられる俺じゃないさ!」
セイはミーナの腕の中で、黒い影を見つめた。
その影は、ただの魔獣ではなかった。
黒い煙のようなものをまとい、まるで「何かに汚染された」ような異様な姿。
(……。これが。「黒い痕跡」の正体……?暗黒の炎を帯びたヒグマのような……。)
セイの胸の奥で、熱がさらに強くなる。
そして――。
黒い魔獣が、セイの方を見た。
その瞬間、世界が一瞬だけ「静止」した。
(……。俺を、見てるのか?)
幼い身体が震える。
だが、逃げるよりも先に――
黒い魔獣の口が、ゆっくりと開いた。
「……。見つけた。「選ばれし光」……。人間の子よ。」
村人たちが凍りつく。
「しゃ、喋った……!?」
「魔獣が……。言葉を……!」
ロウが怒号を上げる。
「ふざけるな!セイはただの子どもだ!!」
黒い魔獣は、冷たく笑った。
「魔界に、予言が下りた。」
――世界に希望の光をもたらす者、暁の風のもと、人間より生まれん。その光、七領域の秩序を覆す災いとなるーー と。
「ゆえに我は魔界から下ってきた。光を宿す者が、本当に人間から生まれたのかを確かめるために。」
ミーナの顔が真っ青になる。
「……。そんな……。セイが……?」
魔獣はゆっくりと首を傾け、セイを見下ろす。
「確認は終わった。その身に宿る光……。間違いなく予言の子。ならば――。排除するのみ。」
黒い瘴気が爆発するように広がった。
セイの胸の奥で、熱が弾ける。
(……。来る……! 俺の中に何かが……。反応してる……!)
空気が震え、光が滲む。
ミーナが叫ぶ。
「セイ!!だめ、抑えて!!」
だが、もう遅かった。
セイの周囲の空間が―― 。
「世界そのものが、揺らぎ始めた。」




