第三話 「もうすぐ、ここを離れるの」
英単語帳を閉じた瞬間、時計は深夜を指していた。
五十個――ちゃんと覚えた。自分でも驚くほど集中できた。
翌日の放課後。
「今日は来なくてもいい」と言われたはずなのに、結局俺は神社へ向かっていた。
鳥居をくぐると、境内がいつもより静かだった。
「……あれ?」
澪さんの姿が見当たらない。
箒も、社務所の灯りもない。
少し不安になったとき、社殿の裏から声がした。
「悠真くん?」
振り向くと、澪さんが立っていた。
今日は巫女装束じゃなく、私服だった。
「今日はお休みなんですか」
「うん。少しだけ、片づけに」
その“片づけ”という言葉が、なぜか胸に引っかかる。
ベンチに並んで座る。
私服の澪さんは、いつもよりずっと近い存在に見えた。
「昨日、約束守れた?」
「……はい。英単語、五十個」
「えらい」
そう言って、軽く頭を撫でられる。
一瞬で思考が止まった。
「……それ、反則です」
「ごめん。でも、つい」
二人で小さく笑ったあと、沈黙が落ちる。
夕暮れが、境内を橙色に染めていく。
「ね、悠真くん」
澪さんが、少しだけ真剣な声で言った。
「私、もうすぐここを離れるの」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……離れる?」
「春から、実家に戻るの。だから巫女も、ここまで」
頭の中が、真っ白になる。
「いつ……」
「受験が終わる頃、かな」
タイミングが、残酷すぎた。
「じゃあ……」
ここに来る理由が、なくなる。
澪さんは、俺の表情を見て、少しだけ困ったように笑った。
「そんな顔しないで」
「無理です」
声が、震える。
「俺、澪さんがいるから……」
続きが、言えなかった。
澪さんは少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「それでも、勉強はやめちゃダメだよ」
「……分かってます」
分かっている。
分かっているから、苦しい。
「ね、お願いがあるの」
「……なんですか」
「私がいなくなっても、合格して」
その言葉は、祈りみたいだった。
「合格して、胸を張って生きて」
澪さんは立ち上がり、神社の方を振り返る。
「その時にね」
一瞬だけ、巫女じゃない顔で、微笑んだ。
「また会えたら、ちゃんと話そう」
それが、約束なのか、希望なのか分からない。
帰り道、俺は何度も振り返りそうになった。
でも、振り返らなかった。
逃げ場所じゃない。
戻る場所。
澪さんがくれた言葉を胸に、俺は歩く。
――巫女さんが優しすぎて、受験に集中できない。
でも今は、その優しさが、俺を前に進ませていた。




