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千年の約束〜恋綴り風に舞う夢  作者: 愛龍
第一章 恋千夜廻り
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太陽の下の約束

太陽の下の約束(大河目線)

店を出た夜風に当たりながら、大河は胸の奥に残った少女の声を思い出していた。


「……鯖味噌が、食べたいです」


ただそれだけの望み。誰もが日常で口にするはずの、慎ましい願い。

そう言って笑った顔が、脳裏から離れなかった。


胸ポケットからスマホを取り出し、番号を押す。

数回の呼び出しのあと、落ち着いた声が応答した。


「お世話になっております。料亭・桐葉でございます」


大河は短く切り出した。

「明日、店に行く。用意してほしい」


「承りました。どのような献立で?」


一瞬迷うことなく言葉が出た。

「……あまり飾り立てるな。定食みたいな形でいい。鯖味噌を出してくれ」


受話口の向こうで若旦那が小さく息を呑む気配。

普段なら季節の懐石、見栄えのする献立を求める客ばかりだ。

だが大河は低く、揺るがない声で続けた。


「……大切な相手だ。あの子の望みを、そのまま叶えたい」


若旦那はすぐに答えた。

「……かしこまりました。お時間は?」


「十二時を少し過ぎた頃に行く。二人だ」


「畏まりました。心を込めて支度いたします」


通話を終え、スマホを握ったまま夜空を仰ぐ。

たかが鯖味噌。されど、彼女にとっては「夢の食事」だった。


大河は静かに息を吐いた。

(……明日。絶対に、笑わせてみせる)


翌日神楽坂の駅前。

まだ約束の時刻より二十分も早いというのに、大河はすでにそこにいた。

普段なら無駄に待つことなどしない。だが今日は落ち着かなかった。

腕時計を何度見ても、針は遅々として進まない。


(来るのか……いや、来ないかもしれねぇ)


胸の奥に、不安が巣くう。

自分が「守る」と決めた女。だがまだ彼女は自分を知らない。

その俺と二人きりで昼を過ごすなど、どれほどの勇気が要るだろう。


――視界の端に、小柄な人影が映った。

胸が詰まる。


ほつれを繕った痕のある、古いワンピース。

それでも、彼女は胸を張ってその服を着ていた。

痩せすぎているのに、眼差しだけは真っ直ぐで…


(……来てくれた)


大河は深く息を吐き、胸の奥にこみ上げる何かを抑え込む。

これほど心臓が騒いだのは、いつ以来だろうか。


「……お待たせしました」

控えめな声。

大河はわずかに口角を上げ、「…いや俺も今来たところだ」とだけ言った。


案内したのは神楽坂の奥にある料亭。

敷居を跨いだ瞬間、千佳は怯んだように小さく息を呑んだ。

(そうだろうな……。普段の彼女が足を踏み入れる場所じゃねぇ)


若旦那が慇懃に頭を下げる。

「お待ちしておりました」


千佳は居心地悪そうに身を縮めるが、大河は気にも留めず畳に腰を下ろす。

そして仲居に短く告げた。


「鯖味噌を」


「かしこまりました」

仲居は微笑み、当然のように一礼した。


千佳が驚いたように大河を見上げる。

「……ここで、鯖味噌を?」


大河はゆるりと頷いた。

「お前が食いたいって言ったんだろ。なら、それが一番いい」


彼女の瞳がわずかに揺れ、唇が震えた。

涙にならぬよう必死に堪えるその表情に、大河の胸はさらに締め付けられる。


会話は取りとめのないものばかりだった。

それが不思議と、大河には心地よかった。


(……声が柔らかい。耳に残る。もっと聞きたいと思ってしまう)


互いの緊張を和らげるように、ほんの些細なことを尋ね合っているうちに、待ち時間はあっという間に過ぎた。


障子の向こうから、すっと運ばれてくる膳。

香り立つ湯気、艶やかに照りの出た鯖味噌。

季節の小鉢に、控えめな水菓子。飾り気はないが、どこまでも丁寧に仕上げられた品々。


「……すごい」


千佳の瞳がぱっと輝いた。

子供のように純粋なその反応に、大河は思わず視線を逸らす。

胸の奥を掴まれるようで、落ち着かない。頬が紅くなる。


(小僧じゃあるまいし…)と自分で自分を笑う。


「こんな贅沢、初めてです……」


頬を染め、笑う千佳。

その笑顔は、決して華やかではない。

だが、誰よりも眩しくて、大河の心臓を容赦なく締め付けた。


(……あぁ。やっぱり、放せねぇ)


彼女を守らなければならない。

義務ではない。必然でもない。

これは――俺の願いだ。


食事を終え、千佳を駅まで送ろうと外に出た。

昼の陽射しは柔らかく、もうすぐ桜が咲くだろう街路樹が光を弾く。


千佳は少し遠慮がちに、それでも歩幅を合わせて並んで歩いていた。

買い物するわけでも特別な行き先もない。


ただ通りを抜けるだけ。


それなのに――


「……楽しいですね」


千佳がふわりと笑った。

ほんの短い言葉に、大河は歩を止めそうになった。


「え……?」と無意識に口をつくと、千佳は慌てて首を振る。


「その……街を歩く。人の流れに混じって、誰かと並んで歩くなんて……。私には、すごく新鮮で……」


言葉を選ぶように呟きながら、俯いた頬が赤い。

その横顔は、まるで今日の陽だまりのように儚く、温かく、そして切なかった。


(……そんな当たり前のことすら、この子には与えられなかったのか)


胸が痛む。

守りたいという気持ちが、さらに強くなる。


大河はわざと何気ない調子で言った。


「……そうか。ならまた一緒に歩こう」


千佳が目を瞬かせて、大河を見上げた。

その瞳に映る自分を見て、大河はもう決して後戻りできないと悟る。


街路を並んで歩く。


千佳は通りのショーウィンドウをちらりと見ては、すぐに大河の歩みに合わせて足を進める。


そんな気遣いが、痛いほどにいじらしい。


ふと、千佳が問いかけてきた。


「……大河さんは、普段どんなお仕事をしているんですか?」


唐突な質問に、大河の足が一瞬止まる。

表と裏と2面性のある仕事。即答できるはずの問い。喉に言葉が詰まった。


会議、調整、統制、命令。

血と責任と権力の上で繰り返してきた仕事。

楽しいと思ったことは一度もない。

義務としてこなしてきただけだ。


胸に広がる沈黙を破るように、彼は小さく吐き出した。


まっすぐ答えを待つ視線から逃げるように目を逸らして言葉を紡ぐ。


「…農作業は楽しい」


千佳の表情がぱっと明るくなる。


「農家さんなんですね。すごい。……楽しそうですね」


その瞳は、羨望と憧れを入り混ぜたような輝きに満ちていた。

まるで彼の言葉をそのまま信じ、疑うこともなく。


(……嘘はついてない。あれも仕事だ。けど…)


彼女がそう思うのなら、農作業が楽しいと言ったのは、決して間違いではないのかもしれないと思った。


今、本当の事を告げても萎縮させてしまう。



駅のホーム。

千佳は、少し寂しそうに、それでも柔らかく笑った。


「……じゃあ、また明日」


名残惜しそうに何度も手を振る。


その小さな背中が人混みに紛れていくまで、大河は立ち尽くして見送った。


(……明日だ。明日で終わらせる。千佳の苦しみを)


心の奥で、強く、揺るぎなく決意する。


待機していた黒塗りの車に戻ると、助手席には縁、運転席には牡丹が控えていた。

二人の表情は微妙だ。


縁がすぐに口を開いた。

「………………いつから、うちは農家になったんですか? 総領」


牡丹もすかさず追撃する。

「カッコつけて……なんていう大嘘を」


大河は肩をすくめて見せ、窓の外に視線を流した。

「嘘じゃねぇ。里で農作業してるだろうが。……農林水産業も携わってる」


「……」


「……」


縁と牡丹、二人して沈黙のあと、同時に吐き出した。

「農家の規模じゃないですよ」


大河は思わず吹き出しそうになるのを堪え、低く笑った。

「……あの子がそう思ってんなら、それでいい」


その声には、これまでの冷酷な総領の響きではなく、ひとりの男の柔らかな響きがあった。




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