絶望に導かれた魂の在り処
アインシュタインの本当の願い
洋館の窓から、朝の光が差し込んでいた。
長い夜の闇を溶かすように、薄紅の旭が床を照らす。
千佳はゆっくりと瞼を開いた。
見慣れぬ天井、重厚な調度。
そして、すでに用意された食卓の上に、湯気を立てる紅茶と黄金色のエッグベネディクトが並んでいた。
「――あっ、おはよう。」
白衣の少年が椅子に腰かけ、眼鏡の奥で穏やかに微笑んでいた。
アルベルト・アインシュタイン。
「チカちゃんでよかったかな。お腹空いたでしょ?」
その声音は柔らかいが、どこか芝居がかった軽さが耳に残る。
千佳はすぐに身を起こし、シーツを握りしめた。
警戒心が全身に走る。
――ケルベロスとの戦いの最中、突如現れたこの男。
気づけば、牡丹も、燈夜も、縁も、おじじ様たちも、そして睦月すら……皆、深い眠りに落とされていた。
「……何がしたいの。」
声を震えさせずに、千佳は問う。
アインシュタインは肩をすくめ、自分の目の前のカップの紅茶を軽く揺らして微笑む。
「毒なんて入ってないよ。鬼藤大河が来るまで飢えさせたなんて、変な怨みを買いたくないんだよ、僕。」
「…………」
「ふふ。そんな顔しないで。僕は女の子傷つける馬鹿共とは違うよ」
とぼけた口調の奥に、掴みどころのない冷気が滲む。
その時、扉が二度ノックされた。
黒服の男が姿を現し、耳元に短く何事かを囁く。
アインシュタインは紅茶をソーサーに置き、深いため息を吐いた。
「……まったく、忙しいものだね。」
ゆっくり立ち上がり、千佳に視線を向ける。
「少し出かけて来るから。食べて、のんびりしていて。……ああ、逃げないほうがいいよ。」
柔らかな笑みを浮かべながら、言葉だけは冷ややかだった。
「鬼藤大河が来るまでは――ここが、一番安全だから。」
重い扉が閉じられ、室内に再び静寂が訪れる。
――――――窓の外は茜色に染まり、洋館の廊下に長い影が伸びていた。
重厚な扉が静かに開き、アインシュタインが戻ってくる。
「……ただいま。」
軽く冗談めかして言う声。
アインシュタインの手には、ティーセットとポットが温かな湯気を揺らしていた。
椅子に腰かけた千佳は、唇を固く結んだまま視線を逸らさない。
その前に歩み寄り、彼はにこやかに口を開いた。
「メイドから聞いたけど……朝も昼も、何も食べなかったみたいだね。大丈夫? 元々食が細いんだっけ?」
紅茶を注ぐ手は軽やかだったが、次の一言に冷たい刃が潜んでいた。
「……それとも、あの頃の虐待のせいかな。量を減らした方が食べやすい?」
千佳の喉がひくりと震えた。
思わず手を握り締め、鋭く言葉を放つ。
「結構です!」
声が部屋の静けさを破り、響く。
「それより……何がしたいの?大河さんに……酷いことしないでっ!」
アインシュタインは一瞬だけ瞳を細め、口元に笑みを浮かべる。
「……ほう。」
まるで観察対象が面白い反応を示したかのような声音。
彼は紅茶を傾け、夕陽に染まるカップの中を覗き込みながら、ゆるやかに続けた。
「囚われの自分より相手を想う。人ならではの美しさだね。」
アインシュタインは片手でティースプーンを回し、言葉を選ぶように続けた。
「心配しなくていい。彼には頼みごとがあるんだ」
その言葉に千佳がようやく声を絞り出す。
「何を……?」
アインシュタインの表情は変わらない。彼はゆっくりと左手を差し出し、掌を見せる。その動作は子どもが宝物を差し出すように無邪気だが、その中身は刃のように冷たい。
「僕を、殺してほしいんだよ。」
言葉はまるで静かな槍のように千佳の胸に刺さった。室内の空気が一瞬凍る。スプーンの小さな金属音が響いたが、それすら遠い世界の出来事のように聞こえる。
千佳の目が大きく見開かれる。唇が動き、言葉にならない音が漏れる。
「……あなた、何言ってるの?」
声は震えている。だが怒りとも恐怖ともつかない。千佳の瞳に、涙の影が揺れる。
アインシュタインはそのまま笑った。小さく、しかし本心や悪意を含んだ笑み。彼は皿の縁に指を触れ、ゆっくりと右手を膝に下ろす。言葉は続くが、それは説明でも説得でもなく、観察者の記述のように淡々としている。
「僕を殺すという“選択”―彼にしかできない。それを確かめたい。」
千佳はゆっくりと目を閉じ、指先でテーブルをぎゅっと握りしめた。言葉が出ない。出せない。
「お願い、そんなこと……大河さんにさせないで」
やっと出た声は消え入りそうだ。だがその声に混じるのは、芽生えたばかりの抵抗と恐怖と、何よりも大河への愛情だ。
アインシュタインは、千佳が祈るような視線を向けるのをひとつまみの砂のように眺める。彼の眼差しは冷たく、熱を持たない。




