始まりの夜
第一章出会いの夜(大河目線)
扉が閉まる音がした。
薄暗い部屋、落ち着かない香の匂い。
しばらくして、戸口から小柄な影が入ってきた。
────── 彼女だ。
数日前、街で偶然すれ違い、心臓を鷲掴みにされた女。
安いワンピースをまとって、やせ細ったその姿が脳裏から離れなかった。
そして今――目の前に現れた。
大河は息を殺すように視線を向けた。
彼女は驚くほど整った所作で深々と頭を下げ、小さな声で言った。
「……お待たせいたしました」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
確信に変わる。
目があって声を聞いて分かった。
――この女が、俺の番だ。
千年、生きてきた。
誰も愛せないと思ってた。
心の底は空っぽだと信じてきた。
けれど…彼女との出会いは魂が揺さぶられた。
「……座れ」
抑えた声でそう告げた。
彼女はおどおどと隣に腰を下ろす。
細い肩。小さく震えている。
触れたら壊れてしまいそうだった。
「……名前は?俺は鬼藤大河」
「……千佳と申します」
――千佳。
胸の奥でその名が染み渡っていく。
この名を、決して離すものか。
彼女は気丈に微笑もうとしていたが、その笑みが痛々しかった。
自分を慰めるような、必死に強がる笑顔。
(……こんな地獄に閉じ込められて、どれだけ泣いてきた)
大河は拳を握りしめた。
怒りを押し殺す。
今必要なのは怒りではなく――信じさせること。
「今日は……話がしたい」
彼女の瞳がわずかに揺れた。
驚き、そして安堵――。
大河はそれを見逃さなかった。
より強くなる想い。
千佳こそ、自分が求めてきた存在だ。
この魂の千年の空白を埋める女だ。
「話がしたい」と口にしたとき、千佳の肩がふっと緩んだ。
恐怖に縛られていたその表情に、かすかな安堵の色が差す。
それだけで、胸の奥に火が灯るのを感じた。
「……普段は、何をしている」
不器用に問いかける。
彼女は少し戸惑いながら答えた。
「……仕事が終わったら、すぐに休むだけです。友達いないし…」
「好きな食べ物は?」
「……鯖味噌が……好きです。よくお祖母ちゃんが作ってくれたから……」
「テレビは?」
「……あまり見ません。でも料理番組は……羨ましくて、つい……」
問いかけるたびに返ってくる答えは、あまりにも悲しかった。
それでも、千佳は必死に「平気です」と笑おうとした。
俺にはその笑顔が痛かった。
――何故、こんな娘が。
拳を膝の上で握りしめる。
怒りに震えそうになるのを堪えながら、彼女の小さな声に耳を傾けた。
(……俺が早く見つけていれば)
(なぜ神は、こいつにばかり地獄を与える)
その夜、大河は決めた。
彼女をもう二度と傷つけさせないと。
やがて時間が過ぎ、彼女はおずおずと視線を落とした。
「……もうすぐ時間でしょうか」
――終わらせたくない。
衝動に突き動かされるように、口を開いた。
「……明日、昼に会えるか」
「えっ……」
驚きに目を丸くする千佳。
「飯だ。何が食いたい?」
少しの沈黙のあと、彼女は迷うように、けれど小さく笑って言った。
「……鯖味噌、です」
フレンチでも懐石でもなく、ただの鯖味噌。
けれど彼女にとっては贅沢の象徴。
胸が締めつけられる。
同時に、決意が深まった。
(必ず護る。もう、二度と――)
「……いいだろう。明日、昼に」
その約束が、この長い夜に灯る小さな光となった。
次、太陽の下の約束(千佳目線)