閑話 夢幻の焔
天海という男
本能寺の変から数十年の年月が過ぎた…
賑わう町を見下ろすように、二人は並んで歩いていた。
大河の眼前には、軒を連ねる長屋と、道を行き交う町人たち。
子どもが駆け、魚屋が声を張り上げ、女たちは井戸端で笑い声を立てている。
「……戦の匂いが、どこにもねぇな」
大河はふと呟いた。
天海…かつて明智光秀と呼ばれた男は僧衣の袖を軽く払って笑む。
「太平の世とは、こういうことなのでしょう」
道端に木樋が走り、井戸に水を溜める。
飲み水は山から清らかに引かれ、下肥は農村に売られ、土を肥やす。
町人は五人組で互いを監視し合い、奉行所の目が隅々まで届いている。
火の見櫓には火消しの男たちが構え、災いにも備えがある。
「治めるために剣を振るう必要は、もはやない。
人の知恵と仕組みが、人を守っているのです」
天海の言葉に、大河はわずかに眉を寄せた。
「……信長が見たがっていた世だな」
「ええ」
僧は歩を止め、茶屋の前で立ち尽くす。
そこでは湯気の立つ茶と饅頭や団子が並び、子どもが嬉しそうに頬張っていた。
「信長様は、きっと喜んでおられる。
戦の世を終わらせ、人の世を築くと……いつも口にしておられましたから」
天海の声は震えていた。
炎の夜に流した涙が、今も心の底で熱く残っているのだろう。
大河は茶屋の暖簾を指で押し分けながら、静かに頷いた。
「……あいつが死しても、この太平は続いている。ならば、あいつの生は無駄じゃなかった」
二人は茶を所望し、卓の隅にもう一組の茶と饅頭を置いた。
それは誰のためでもなく、太平を夢見た魔王のために。
茶の香りが流れる江戸の町。
そこに剣戟はなく、ただ人々のざわめきと笑い声が響いていた。
それからさらに数百年を経た。
世の中はAIや機械化された文明が生活を豊かにし今この国に戦の匂いはない。
大広間に律した立ち姿の燕尾服の初老の男がある日大河の屋敷を訪ねてきた。
白髪をきちりと撫で付け、背筋を伸ばしたその姿は、ただの執事ではない気品をまとっていた。
老人はすっと膝をつき、千佳の手を取り、恭しく頭を垂れる。
「これは……愛らしいお嬢様。
私は天海と申します。どうぞ“天海”とお呼びいただ けましたら至福の喜びにございます」
千佳は思わず頬を紅に染め、戸惑いながらも小さく頷いた。
「は、はじめまして……天海さん。」
その光景を横で見ていた陽明は、あからさまに眉をひそめる。
「……あいつを謀反人として討ってください。大河」
「どうにかできるじじいじゃねぇだろ、晴明」
大河は腕を組み、渋面で吐き捨てる。
完璧な執事の所作に翻弄される千佳。
嫉妬に苛立つ陽明と大河。
そして、歴史の闇を超えてなお徳川家に仕え続ける「天海」という男――。
その場に漂う空気は、どこか滑稽で、けれど底知れぬ重さを孕んでいた。
「お嬢様、ささやかながらお土産を……」
天海はにこやかに一礼し、銀盆の上に小箱を差し出した。
リボンを解けば、艶やかなチョコレートボンボンが並んでいる。
「わぁ……!」
千佳の瞳がきらりと輝き、頬が緩む。
陽明は横からその様子を見て、ぐっと扇子を握りしめた。
「……あれ、いつもなら私の立ち位置なんですが」
「俺は千佳の夫なのに……」
大河も低く唸り、こめかみを引きつらせる。
天海は二人の嫉妬など意にも介さず、優雅に千佳へと笑みを向ける。
「お口に合えば、これ以上の喜びはございません」
千佳は頬を赤らめながら小さく頷き、一粒を口に含む。
ほろ苦さと甘さに目を細めるその仕草が、さらに二人の嫉妬をあおった。
千佳が口元に手を当てながら小さく笑う。
「本当に……美味しいです」
その一言で、大河と陽明の堪忍袋が弾けた。
「俺がもっと旨いのを買ってくる!」
「いえ、ここは私が!」
二人は同時に立ち上がり、声を張り合う。
千佳は慌てて両手を振った。
「え、えっ!? そ、そんな……!」
その横で天海は手を軽く打ち鳴らし、にこやかに肩をすくめた。
「おやおや……お嬢様を置いて行かれるとは、なんとも情けない。真に紳士とは、そばを離れずに守る者でございましょうに」
一撃の皮肉に、大河と陽明の顔が同時に引きつる。
「……じじいのくせに、言うじゃねぇか」
「……討ち取ってやる。陰陽師の名にかけて」
天海は涼しい顔のまま、千佳の傍らで一歩も動かず控えていた。
彼の余裕ある笑みと、紅潮した千佳の横顔が、二人の嫉妬の炎にさらに油を注いでいた。
その姿を見て天海は微笑む。
信長様………世は太平ですよ。




