運命の交差
第一章大河目線の始まりの夜
二月末。帝都東京はまだ冷たいはずなのに、その日は妙に春めいた空気をまとっていた。
大河は黒塗りの車を降り、ホテルの視察へと歩みを進める。
いつものこと。形式だけの表の仕事。心動かすものなどあるはずがなかった。
――はずだった。
通りすがりに視界に入った女。
華やかさなどない。
痩せ細った体に、古びたワンピース。
それでも、なぜか心臓が掴まれたように締めつけられた。
足が止まる。
思わず振り返った。
その横顔は、ひどく寂しげだった。
笑っているようで、まるで泣いているような。
生気を奪われたような影。
「……なんだ、あれは」
胸の奥がざわついた。理由などわからない。
普段なら目に留めもしないはずだ。
裏の世界で幾千の女を見てきた。美しい者も、強い者も、醜い者も。
だがあの女は――どれにも当てはまらなかった。
ただ、壊れそうで。
ただ、愛おしかった。
「総領、いかがされましたか?」
隣に控えていた縁が、不思議そうに問いかけてくる。
大河は視線を逸らさず、低く命じた。
「……あの女の素性を調べろ」
言った瞬間、自分でも驚いた。
なぜ命じた?
なぜ気にかかる?
答えは出ない。
だが胸の奥で、確かに何かが始まっていた。
その出会いが、すべてを変えることになると知らぬままに
夜、いつも帝都東京で常宿にしている帝都ホテルのスイート。
書類を手にした縁と牡丹が膝をついた。
昼間見かけたあの女――千佳の素性が、もう報告として上がってきた。
縁が静かに言葉を紡ぐ。
「三歳の時に両親を交通事故で亡くされました。その後、七歳で引き取った祖父が病没。以降、親戚を転々と……」
紙をめくるたび、胸の奥が重くなる。
牡丹の声が続いた。
「高校は両親が遺したわずかな金で卒業。働きながら通信の美容学校に通っていました。……ですが、美容室のオーナーと共に訪れた新田博雅に騙され……」
その名を聞いた瞬間、血が沸き立つのを感じた。
手にした書類が小さく震える。怒りで。
牡丹が唇を噛みしめながら告げる。
「……売られました。例の店へ」
部屋に沈黙が落ちた。
ただ時計の針が、無情に時を刻む。
「……」
大河は深く息を吐き、視線を落とした。
十数枚の紙の上に綴られたのは――ひとりの女の人生。
奪われ続け、虐げられ続け、それでも必死に生きてきた証。
「……ふざけやがって」
低く吐き捨てる声に、二人は背筋を正す。
紙を見下ろす手が、握り潰すほどに力を込めていた。
怒りで震えているのか、哀しみで震えているのか――自分でもわからなかった。
だが、ひとつだけははっきりしていた。
「……あの女は、俺が護る」
言葉は静かに。
けれど決意は、千年の誓いのように重く響いていた。
翌日。
黒塗りの車が、静かに新宿のとある店の前に停まった。
この場所に、千佳を縛りつけてきた鎖がある。
すでに縁が手を回し店の権利書は自分のものになっている。
何も惜しまなかった。
燕尾服の店の支配人に権利書諸々の契約書類を大河は放り投げてただ一言――「千佳を自由にしろ」。それだけで十分だった。
その姿に支配人が蒼白な顔で頭を下げている。
「……お、お取り計らいの通り、以後あの子には客を付けません。休ませても構いません。ですが……」
「だが?」
喉を震わせる支配人に縁が代わって答えた。
「借金です。ですが確認の結果――それは千佳様が道楽で作ったものではなく、無理やり脅されてサインさせられたものでした」
紙を差し出され、目を通す。
数字が並んでいる。利子も法外。
こんなものが借金であるはずがない。
「……なるほどな」
唇を歪めて、静かに書類を破り捨てた。
破片がひらひらと床に落ちていく。
「これで終わりだ。二度と千佳に触れるな」
その声は、静かなのに重く、部屋の空気を震わせた。
支配人は震えながら頭を垂れるしかなかった。
――鎖は断ち切った。
だが、まだ終わりではない。
千佳が本当の意味で自由を知るには、まだ遠い。
胸の奥が重く痛んだ。
「待っていろ。……必ず、奪った分以上の幸せを与えてやる」
夜の街に背を向けたとき、その決意はもう揺るがなかった。
始まりの夜までの大河目線